「イエスは命である」2022.8.21
ヨハネによる福音書 14章1~14節
イエスは、道であり、真理であり、命である。道、真理について、2回にわたり学びました。3つ目のこと、イエスは命である。今日はこの御言葉を与えられています。この3つのことは切り離せないものではありますが、特に命、と言われた時に、主イエスは何を言おうとしておられたのか、そして私たちにとって、主イエスが命である、ということは、何であるのか。これを教えられています。
1.父なる神と御子イエス
私たちはみな、生まれた時に命を与えられたということを知っています。子どもの頃は、小さな昆虫にも、魚にも、動物にも、命があるのだ、ということを教えられます。そして小さな虫をつぶしてしまうと動かなくなる、ということを知ります。それはつまり命あるものは死ぬということを学びます。そうしてやがて人間も死ぬことを目の当りにするようになるわけです。しかしまた別の機会に、体が死んでも魂とか霊魂と呼ばれるものがある、ということを聞くようになり、人が死んでも天国がある、というようなことも聞くようになります。そして年齢が進むと今度は、益々あの世について強く考えることも知ります。体が死んでも終わりがないのだ、という考えです。
そういう中で、では、命とは何だろうか、ということも考えるようになるかも知れません。生物学的、医学的にその説明はできるのでしょうが、私たちは今、神の御言葉に聞こうとしています。天の神は何と言っておられるのか。私たちに命を与えてくださったと言われる神はどうお語りになっているのでしょうか。そのことを私たちはイエス・キリストから聞きます。なぜならイエスは神の御子であり、主イエス・キリストが語られることは即ち、神が語られることだからです。天の神は私たちに、その御子イエス・キリストを通してお語りになります。
それでここで主イエスが言われることは、イエス御自身を通らなければ、父なる神のもとに行くことができないということでした(6節)。言い換えれば、イエスによらなければ神を知ることはできない、神に至ることもできない、というのです。しかしイエスを知り、イエスを見て、イエスを信じる者は神を知り、神を見て、神と共にいることができるのです。そして、そこにこそ本来の命があります。
神の御子イエスは、「わたしのうちに父がおり、父がわたしの内におられる」と言われます。父なる神と御子イエスとは一体であること、そのお考えになること、なされること、すべてに食い違いはなく完全に一致しておられますます。イエスが話されることはその内におられる父なる神が話しておられるのであり、イエスのなされることは、その内におられる父なる神がなしておられるのです。そこに命があります。一人の神として父なる神も御子イエスも生きておられます。そして御父と御子との交わりがあります。命というものはただそこにポツンと何かが生きている、というだけのものではなく、何らかの生き生きした関係がそこにはあります。神はお一人であられるのですが、その内に父と子との交わりがあります。その命の交わりに私たちも入れていただける。そのことはさらに15節以下で主イエスはお語りになりますが、ここでは私たちが父なる神と御子イエスとの交わりを知り、信じることによって私たちの内に何が起こるかを語っておられます。そのことを信じなさい、と主イエスは言われます。
2.もっと大きな業を行う
主イエスは、御自分が語ることを信じなさい、と私たちに言われます。そして驚くようなことも言われます。イエスが言われることを信じられないなら、業そのものによって信じなさい、と。つまりイエスの御言葉を聞いただけではすぐに信じて受け入れることのできない者がいるだろう、ということを見越しておられるのです。そういう人はイエスがなしておられることそのものを良く見なさい、というのです。それによって信じなさい、と。
その上で、主イエスを信じる者は、イエスが行う業を行い、もっと大きな業をも行うようになる、と言われます。これは驚くべきことのように思います。救い主であられる主イエスの業よりも大きな業とは何でしょうか。「わたしが父のもとへ行くからである」と言われているように、これは主イエスが天に昇られてからのことです。主イエスの昇天後、約束の聖霊が教会に降られました。それによってキリスト教会の世界宣教が始まりましたから、ユダヤの国に限られることなく、全世界へ向けての福音宣教が始まったことをさして、もっと大きな業と言っておられるのです。
ということは、今日生きており、主イエスを信じて福音の宣教に関わっている私たち主の民は、その大きな業を行うようにされているのです。しかしそのために欠かせないことが次に言われています。それが、主イエスの御名によって願うことです。
3.主イエスの御名によって願う者となる
今日の私たちクリスチャンは、祈りの最後に「主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン」と言って締めくくります。それはここにある主イエスの約束に基づいています。ここで主イエスは、「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう」と言われました。なんでも、です。しかし、本当に主イエスを信じてイエスの御名によって願う者は、何でも願ってよいと言われても、へりくだって願う心を与えられているので、願うべきことを弁えている、ということができます。つまり自分の手に莫大な財産が入るように願うなどということは、心から主イエスを信じてその御前にへりくだろうとする者は願ったりしない、ということです。
ここでの翻訳は、「何でもかなえてあげよう」となっていますが、原文では「わたしが行う」という言い方です。新改訳聖書がそのように訳しています。かなえてあげよう、というと願ったことをそのまま実現してあげる、という印象が強くなるのですが、「わたしが行う」となると少々違う感じです。私たちが何かを願った時に、そのことについて、主自ら事を行ってくださる、主の御心に従ってそれを取り扱う、という面が見えてきます。そしてイエス自らそれを行うことにより、父なる神も栄光をお受けになります。主イエスの御名によって願う者は、イエスを通して父なる神に栄光を帰することをしているわけです。
つまり、イエスを主と信じる者は、父なる神と御子イエスとの交わりの中に入れていただいて神の栄光を現す者へと変えられてゆくのです。この福音書を書いたヨハネは、後に手紙の中でこのことを書いています。「わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです」(ヨハネの手紙一 1章3節)。そして、そのような交わりの内に生きることができる。それこそ真の命であるのです。イエス・キリストは、私たちを神との交わりの内に招き入れ、それを実現する方であるから、「命である」と言われるのです。
主イエスは神の御子です。このイエスを信じる者は永遠の命が与えられる、と既にイエス御自身が約束しておられました(ヨハネ6章40節)。それ故イエスは命であると言えるのです。そしてその命は神との交わりそのものです。もし私たちが永久に生きるとして、死を見ることがなくなったとしても、それが幸いなものでなければ、誰もそれを喜ぶことはできません。苦しい、辛い状態で、誰との交わりもなく、平和がなく、争いと憎しみ、痛み、悲しみが延々と続くのでは、そのような状態で永久に生きていたいとは誰も思わないでしょう。そもそも、聖書ではそのようなものを命とは呼びません。神と共にあってこそ、真に命と言えるのです。
今、この世では私たちはまだその完成状態に達してはいないのでなお、この世に留まって与えられた働きを行います。そこにはなお労苦と痛みと、時には苦しみと悲しみすら伴うことがあります。しかしそれも真の命である神の御子イエス・キリストの内にいるならば、決してつらいだけの苦しいもので終わりません。この弱く、頼りない体を持つ私たちですが、死の力から解放されて、死に飲み込まれてしまうことを恐れなくてもよいようにしていただいているのです。私たちが真に恐れるべきなのは、神との命の交わりを失ってしまうことです。それこそ真の意味での死であり、そこには真の喜びはありません。
しかし、命そのものである神の御子イエス・キリストが、死すべき私たちに真の命を与え、信じる者から決して奪い取られないようにしてくださいます。死を乗り越え、死に打ち勝って復活された救い主イエス・キリストを仰ぎ、命の道を歩み通させていただきましょう。
1.父なる神と御子イエス
私たちはみな、生まれた時に命を与えられたということを知っています。子どもの頃は、小さな昆虫にも、魚にも、動物にも、命があるのだ、ということを教えられます。そして小さな虫をつぶしてしまうと動かなくなる、ということを知ります。それはつまり命あるものは死ぬということを学びます。そうしてやがて人間も死ぬことを目の当りにするようになるわけです。しかしまた別の機会に、体が死んでも魂とか霊魂と呼ばれるものがある、ということを聞くようになり、人が死んでも天国がある、というようなことも聞くようになります。そして年齢が進むと今度は、益々あの世について強く考えることも知ります。体が死んでも終わりがないのだ、という考えです。
そういう中で、では、命とは何だろうか、ということも考えるようになるかも知れません。生物学的、医学的にその説明はできるのでしょうが、私たちは今、神の御言葉に聞こうとしています。天の神は何と言っておられるのか。私たちに命を与えてくださったと言われる神はどうお語りになっているのでしょうか。そのことを私たちはイエス・キリストから聞きます。なぜならイエスは神の御子であり、主イエス・キリストが語られることは即ち、神が語られることだからです。天の神は私たちに、その御子イエス・キリストを通してお語りになります。
それでここで主イエスが言われることは、イエス御自身を通らなければ、父なる神のもとに行くことができないということでした(6節)。言い換えれば、イエスによらなければ神を知ることはできない、神に至ることもできない、というのです。しかしイエスを知り、イエスを見て、イエスを信じる者は神を知り、神を見て、神と共にいることができるのです。そして、そこにこそ本来の命があります。
神の御子イエスは、「わたしのうちに父がおり、父がわたしの内におられる」と言われます。父なる神と御子イエスとは一体であること、そのお考えになること、なされること、すべてに食い違いはなく完全に一致しておられますます。イエスが話されることはその内におられる父なる神が話しておられるのであり、イエスのなされることは、その内におられる父なる神がなしておられるのです。そこに命があります。一人の神として父なる神も御子イエスも生きておられます。そして御父と御子との交わりがあります。命というものはただそこにポツンと何かが生きている、というだけのものではなく、何らかの生き生きした関係がそこにはあります。神はお一人であられるのですが、その内に父と子との交わりがあります。その命の交わりに私たちも入れていただける。そのことはさらに15節以下で主イエスはお語りになりますが、ここでは私たちが父なる神と御子イエスとの交わりを知り、信じることによって私たちの内に何が起こるかを語っておられます。そのことを信じなさい、と主イエスは言われます。
2.もっと大きな業を行う
主イエスは、御自分が語ることを信じなさい、と私たちに言われます。そして驚くようなことも言われます。イエスが言われることを信じられないなら、業そのものによって信じなさい、と。つまりイエスの御言葉を聞いただけではすぐに信じて受け入れることのできない者がいるだろう、ということを見越しておられるのです。そういう人はイエスがなしておられることそのものを良く見なさい、というのです。それによって信じなさい、と。
その上で、主イエスを信じる者は、イエスが行う業を行い、もっと大きな業をも行うようになる、と言われます。これは驚くべきことのように思います。救い主であられる主イエスの業よりも大きな業とは何でしょうか。「わたしが父のもとへ行くからである」と言われているように、これは主イエスが天に昇られてからのことです。主イエスの昇天後、約束の聖霊が教会に降られました。それによってキリスト教会の世界宣教が始まりましたから、ユダヤの国に限られることなく、全世界へ向けての福音宣教が始まったことをさして、もっと大きな業と言っておられるのです。
ということは、今日生きており、主イエスを信じて福音の宣教に関わっている私たち主の民は、その大きな業を行うようにされているのです。しかしそのために欠かせないことが次に言われています。それが、主イエスの御名によって願うことです。
3.主イエスの御名によって願う者となる
今日の私たちクリスチャンは、祈りの最後に「主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン」と言って締めくくります。それはここにある主イエスの約束に基づいています。ここで主イエスは、「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう」と言われました。なんでも、です。しかし、本当に主イエスを信じてイエスの御名によって願う者は、何でも願ってよいと言われても、へりくだって願う心を与えられているので、願うべきことを弁えている、ということができます。つまり自分の手に莫大な財産が入るように願うなどということは、心から主イエスを信じてその御前にへりくだろうとする者は願ったりしない、ということです。
ここでの翻訳は、「何でもかなえてあげよう」となっていますが、原文では「わたしが行う」という言い方です。新改訳聖書がそのように訳しています。かなえてあげよう、というと願ったことをそのまま実現してあげる、という印象が強くなるのですが、「わたしが行う」となると少々違う感じです。私たちが何かを願った時に、そのことについて、主自ら事を行ってくださる、主の御心に従ってそれを取り扱う、という面が見えてきます。そしてイエス自らそれを行うことにより、父なる神も栄光をお受けになります。主イエスの御名によって願う者は、イエスを通して父なる神に栄光を帰することをしているわけです。
つまり、イエスを主と信じる者は、父なる神と御子イエスとの交わりの中に入れていただいて神の栄光を現す者へと変えられてゆくのです。この福音書を書いたヨハネは、後に手紙の中でこのことを書いています。「わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです」(ヨハネの手紙一 1章3節)。そして、そのような交わりの内に生きることができる。それこそ真の命であるのです。イエス・キリストは、私たちを神との交わりの内に招き入れ、それを実現する方であるから、「命である」と言われるのです。
主イエスは神の御子です。このイエスを信じる者は永遠の命が与えられる、と既にイエス御自身が約束しておられました(ヨハネ6章40節)。それ故イエスは命であると言えるのです。そしてその命は神との交わりそのものです。もし私たちが永久に生きるとして、死を見ることがなくなったとしても、それが幸いなものでなければ、誰もそれを喜ぶことはできません。苦しい、辛い状態で、誰との交わりもなく、平和がなく、争いと憎しみ、痛み、悲しみが延々と続くのでは、そのような状態で永久に生きていたいとは誰も思わないでしょう。そもそも、聖書ではそのようなものを命とは呼びません。神と共にあってこそ、真に命と言えるのです。
今、この世では私たちはまだその完成状態に達してはいないのでなお、この世に留まって与えられた働きを行います。そこにはなお労苦と痛みと、時には苦しみと悲しみすら伴うことがあります。しかしそれも真の命である神の御子イエス・キリストの内にいるならば、決してつらいだけの苦しいもので終わりません。この弱く、頼りない体を持つ私たちですが、死の力から解放されて、死に飲み込まれてしまうことを恐れなくてもよいようにしていただいているのです。私たちが真に恐れるべきなのは、神との命の交わりを失ってしまうことです。それこそ真の意味での死であり、そこには真の喜びはありません。
しかし、命そのものである神の御子イエス・キリストが、死すべき私たちに真の命を与え、信じる者から決して奪い取られないようにしてくださいます。死を乗り越え、死に打ち勝って復活された救い主イエス・キリストを仰ぎ、命の道を歩み通させていただきましょう。
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