「その時、主の言葉があった」 2022.8.14
列王記上 19章1~18節
この世界も、そこで起こる全ての出来事も、一切は主の御言葉によって始まり、現実に起こります。それだけではなく、私たちの身の回りでも、私たち自身の中でも、主の御言葉が与えられ、その御力によって私たちの内に神の御心が実現して行きます。今日は、預言者エリヤに対して主が与えられた御言葉から、そのことを教えられています。
1.預言者エリヤの苦しみ
預言者エリヤは、紀元前9世紀、イスラエルの王アハブの悪行を指摘し、主の御言葉を力強く告げ知らせました。偶像神バアルの預言者たちと戦い、たった一人で立ち向かい、主の御力によって打ち勝ちました。それを知ったアハブ王に命を狙われていることを知ったエリヤは、恐れて直ちに逃げます。あれほどまでに主の力を見せていただいたエリヤなのに、この恐がりようはなぜであろうか、と思いたくなります。しかし、預言者エリヤとてやはり人間であり、絶大な権力を誇る王に命を狙われていると知って、恐れずにはいられなかったのが現実でした。主の奇跡を目の前で見せていただいた預言者でさえこのような恐れを人に対して抱くということを通して、私たちはいくら信仰があっても目の前に現れる、命を脅かす力に対して恐れずにはいられない人間の姿を見せつけられていると言えます。
エリヤは、もう十分です、と言います。バアルの預言者たちとの戦いで大きな働きをしたのですが、心身共に相当な労力を費やしていたはずです。主の御力によって働いてきたといっても、当人はやはり限りある人間です。エリヤは自分の命を取ってください、つまり、もうこの世での働きを終わりにさせてください、と願うのです。主を信じる者は、自分の命は主が与えてくださったものだから自分から通常それを断ち切るということをしようとはしません。だから、あまりに苦しい時、このエリヤのように、主にそれを願うことはありうるわけです。何らかの仕方でもう自分がこのようにいなくてもよいようにしてください、と。これは、何らかのことに追いつめられた経験のある人は、共感できることかもしれません。
2.エリヤを力づけるもの
このような願いを主に訴えたエリヤでしたが、そのまま眠ってしまいました。疲れ切って、祈りを終えてすぐに眠ってしまったのでしょう。すると主の御使いがパン菓子と水を与えてくれ、エリヤはそれを食べ、水を飲んでまた横になります。主は、エリヤの願いには直接答えてはおられません。しかし、パンと水、つまりこの世で生き続けるために必要なものを与えてエリヤを強め、そこから立ち上がる力を与える、と言っておられるのです。
主は、主を信じて祈り求める者に対して、様々な形で答えを与えてくださいます。この時のエリヤは、主の御使いが用意してくれたパン菓子と水によって力づけられました。慰めの言葉や、励ましの言葉はこの後に与えられます。しかし主はその前に、エリヤに眠りを与え、パンと水を与え、休ませられました。
主の御使いは、この旅は長く、あなたには耐え難い、と言います。自分の命を取ってくれというエリヤの願いには直接答えません。エリヤの願いを無視したのではなくて、今のエリヤは心身共に疲れ切っていて、このまま預言者としての務めを果たしてゆくことは自分にはできないと悲観的になっているので、今はまず休んで体力をつける必要があることを主はご存じだったと言うべきです。エリヤは起きて食べ、飲んだ、と2回書かれています。それが時間にしてどのくらいの間に起こったことなのかは分かりませんが、エリヤはその食べ物に力づけられました。これは、エリヤの苦悩が小さかったからではなく、どんな状態であれ、人は休み、食べて飲むことで力を回復してゆくものだ、ということを示しているのです。確かに人は心が苦しんでいる時には食事が喉を通らないことがあり得ます。しかしやはり心と体とを一つのものとして与えられている人間は、食べて飲むことと寝ることで力を回復するのも事実です。
こうして力づけられたエリヤは40日40夜も歩き続け、ついに神の山ホレブに着きます。ここはシナイ山とも呼ばれます。モーセが主から十戒の2枚の板をいただいた山です。その時、主の言葉がありました。聖書で「見よ」という言葉は、特に私たちが注目すべきだ、という時にしばしば使われます。御使いも「起きて食べよ」と2度にわたって語りましたが、神の山ホレブでは、主が直接エリヤに大事なことを語られます。まず主が言われたのは、「エリヤよ、ここで何をしているのか」でした。エリヤは、これまでのことを話します。主は、エリヤにこれまでを顧みる時を与えておられます。私たちも、時に自分の歩んできたことを顧みることの大切さを教えられています。そうして顧みたからと言って、すぐに解決策が思いつくとか、そういうことではないかもしれません。しかし、それを主の前に持ち出すことによって、そこから主が事を導いて行ってくださるということが始まるのです。
主はエリヤのこれまでの歩みを知っておられるはずです。それにも拘らず、何をしているのか、と聞かれます。これは主イエスもなさいました。長年病気に苦しんできた女性が後ろから主イエスの服に触れた時、私の服に触れたのは誰か、と言って敢えて彼女が進み出てありのままを話す機会を与えられました。そうして主の前に自分の状態と、これまでを顧みるのが大事であり、主は私たちを常に見ておられるにも拘らずあえて申し述べるようにされるのです。
3.主の御言葉によって立ち上がる
こうして、主はエリヤの話を聞かれますが、それでもまだすぐにはなすべきことを言われません。そして激しい風の中にも地震の中にも、火の中にも主はおられず、静かにささやく声で主は語りかけたのでした。主は旧約聖書時代には、人が驚く自然現象や、異常な状況下で御自身を現されることがしばしばありました。しかしここでは、そういう驚くべき自然現象等ではなく、静かに、耳を傾けなければ分からないような静かなささやく声で語られたのでした。
そして、既にエリヤに聞かれたことをもう一度聞かれます。1度ならず2度にわたり、あえてエリヤに同じことを語らせるのです。これは、気の短い人だと、もうその話はしたではないですか、と言いたくなるかもしれません。しかしエリヤは全く同じ言葉で繰り返します。考えてみると、私たちは主の前に繰り返し同じ言葉を聞いています。そして繰り返し同じ言葉で祈ります。そして信仰を告白します。私たちの礼拝を考えてみても、毎週同じことあるいは類似した言葉を繰り返す部分がかなりあります。開会祈祷、牧会祈祷、主の祈りと信徒信条、献金感謝の祈祷、讃美歌の頌栄、祝祷など。それは私たちが繰り返し主の御言葉を聞き、その御心を私たちの心の中に植え付け、そして私たちの信仰を確認し、信仰告白を繰り返すことで主とのの結びつきの内に留まり、そこに立って歩み続けるためです。
その上で、主の御言葉は、その時つまり、主が事をなさろうとして実行に移される時に主がお選びになった者に語りかけられます。ここまで来てやっと主はエリヤになすべきことを語られるのです。私たちは主からこうしたらよい、こうしなさい、ということを直接聞けたらどうでしょうか。分かり易くて動きやすい、悩まなくてよい、と思うかもしれませんが、何も考えなくても言われたとおりにしていればよい、ということにもなりかねません。それは主の前での私たちについての、主がお考えになる姿とは違います。そうではなく、ある時間をかけ、これまでを振り返り、次へ進むために備える時を与え、主がなさることを受け止める時を与え、そのために必要な休みの時を与え、その上ではっきりとした道を示されるのです。そこでは、明確に主の御心が示されました。
なんとエリヤに対する御命令は、来た道を引き返してダマスコの荒れ野に向かい、ハザエルをアラムの王とし、イエフをイスラエルの王とし、そしてエリシャをエリヤに代わる預言者とせよというものでした。それぞれ油を注いでと言われています。そして、イスラエルに7,000人を残す、と言われた主の御言葉は、後に使徒パウロがローマの信徒への手紙で引用するほど重要な預言の言葉でした(ローマ11章4節)。こんな風に、主の御言葉はエリヤに与えられました。考えてみれば主の御言葉は様々な極めて重要な場面で語られてきました。天地創造、人への御命令、堕落した人間への宣告、その世界を維持する約束、アブラハムへの旅立ちの指示と約束、モーセの召命、ダビデの王座についての約束、救い主誕生の予告、主イエスの洗礼の時、山上の変貌の時、主イエスの復活後の約束の御言葉等々。
私たち一人一人の生涯は、そういう世界全体に関わることではないかもしれませんが、やはり主は一人一人の大事な「その時」に御言葉を持って確かに語りかけて来られたはずです。それがあるからこそ私たちは信仰の道を歩んでいるのです。それは天からエリヤに対するように語りかけられたのではなくても、様々な仕方で私たちの所に届いたはずです。礼拝の聖書朗読や説教で、何かの文書や本で、人の語りかけてくれた言葉で、一人で聖書を読んでいる時に与えられた御言葉で。それを主からの御言葉として受け止めるかどうかの問題です。ある人には何も響かなかった御言葉が、別の人には深く強く響き、主からの語りかけとして届くのです。たちもまた、これまでを顧み、そしてこれからのことを見据えて、主の御言葉を一人一人、また教会として聞き、進むべき道を主につき従って行きましょう。
1.預言者エリヤの苦しみ
預言者エリヤは、紀元前9世紀、イスラエルの王アハブの悪行を指摘し、主の御言葉を力強く告げ知らせました。偶像神バアルの預言者たちと戦い、たった一人で立ち向かい、主の御力によって打ち勝ちました。それを知ったアハブ王に命を狙われていることを知ったエリヤは、恐れて直ちに逃げます。あれほどまでに主の力を見せていただいたエリヤなのに、この恐がりようはなぜであろうか、と思いたくなります。しかし、預言者エリヤとてやはり人間であり、絶大な権力を誇る王に命を狙われていると知って、恐れずにはいられなかったのが現実でした。主の奇跡を目の前で見せていただいた預言者でさえこのような恐れを人に対して抱くということを通して、私たちはいくら信仰があっても目の前に現れる、命を脅かす力に対して恐れずにはいられない人間の姿を見せつけられていると言えます。
エリヤは、もう十分です、と言います。バアルの預言者たちとの戦いで大きな働きをしたのですが、心身共に相当な労力を費やしていたはずです。主の御力によって働いてきたといっても、当人はやはり限りある人間です。エリヤは自分の命を取ってください、つまり、もうこの世での働きを終わりにさせてください、と願うのです。主を信じる者は、自分の命は主が与えてくださったものだから自分から通常それを断ち切るということをしようとはしません。だから、あまりに苦しい時、このエリヤのように、主にそれを願うことはありうるわけです。何らかの仕方でもう自分がこのようにいなくてもよいようにしてください、と。これは、何らかのことに追いつめられた経験のある人は、共感できることかもしれません。
2.エリヤを力づけるもの
このような願いを主に訴えたエリヤでしたが、そのまま眠ってしまいました。疲れ切って、祈りを終えてすぐに眠ってしまったのでしょう。すると主の御使いがパン菓子と水を与えてくれ、エリヤはそれを食べ、水を飲んでまた横になります。主は、エリヤの願いには直接答えてはおられません。しかし、パンと水、つまりこの世で生き続けるために必要なものを与えてエリヤを強め、そこから立ち上がる力を与える、と言っておられるのです。
主は、主を信じて祈り求める者に対して、様々な形で答えを与えてくださいます。この時のエリヤは、主の御使いが用意してくれたパン菓子と水によって力づけられました。慰めの言葉や、励ましの言葉はこの後に与えられます。しかし主はその前に、エリヤに眠りを与え、パンと水を与え、休ませられました。
主の御使いは、この旅は長く、あなたには耐え難い、と言います。自分の命を取ってくれというエリヤの願いには直接答えません。エリヤの願いを無視したのではなくて、今のエリヤは心身共に疲れ切っていて、このまま預言者としての務めを果たしてゆくことは自分にはできないと悲観的になっているので、今はまず休んで体力をつける必要があることを主はご存じだったと言うべきです。エリヤは起きて食べ、飲んだ、と2回書かれています。それが時間にしてどのくらいの間に起こったことなのかは分かりませんが、エリヤはその食べ物に力づけられました。これは、エリヤの苦悩が小さかったからではなく、どんな状態であれ、人は休み、食べて飲むことで力を回復してゆくものだ、ということを示しているのです。確かに人は心が苦しんでいる時には食事が喉を通らないことがあり得ます。しかしやはり心と体とを一つのものとして与えられている人間は、食べて飲むことと寝ることで力を回復するのも事実です。
こうして力づけられたエリヤは40日40夜も歩き続け、ついに神の山ホレブに着きます。ここはシナイ山とも呼ばれます。モーセが主から十戒の2枚の板をいただいた山です。その時、主の言葉がありました。聖書で「見よ」という言葉は、特に私たちが注目すべきだ、という時にしばしば使われます。御使いも「起きて食べよ」と2度にわたって語りましたが、神の山ホレブでは、主が直接エリヤに大事なことを語られます。まず主が言われたのは、「エリヤよ、ここで何をしているのか」でした。エリヤは、これまでのことを話します。主は、エリヤにこれまでを顧みる時を与えておられます。私たちも、時に自分の歩んできたことを顧みることの大切さを教えられています。そうして顧みたからと言って、すぐに解決策が思いつくとか、そういうことではないかもしれません。しかし、それを主の前に持ち出すことによって、そこから主が事を導いて行ってくださるということが始まるのです。
主はエリヤのこれまでの歩みを知っておられるはずです。それにも拘らず、何をしているのか、と聞かれます。これは主イエスもなさいました。長年病気に苦しんできた女性が後ろから主イエスの服に触れた時、私の服に触れたのは誰か、と言って敢えて彼女が進み出てありのままを話す機会を与えられました。そうして主の前に自分の状態と、これまでを顧みるのが大事であり、主は私たちを常に見ておられるにも拘らずあえて申し述べるようにされるのです。
3.主の御言葉によって立ち上がる
こうして、主はエリヤの話を聞かれますが、それでもまだすぐにはなすべきことを言われません。そして激しい風の中にも地震の中にも、火の中にも主はおられず、静かにささやく声で主は語りかけたのでした。主は旧約聖書時代には、人が驚く自然現象や、異常な状況下で御自身を現されることがしばしばありました。しかしここでは、そういう驚くべき自然現象等ではなく、静かに、耳を傾けなければ分からないような静かなささやく声で語られたのでした。
そして、既にエリヤに聞かれたことをもう一度聞かれます。1度ならず2度にわたり、あえてエリヤに同じことを語らせるのです。これは、気の短い人だと、もうその話はしたではないですか、と言いたくなるかもしれません。しかしエリヤは全く同じ言葉で繰り返します。考えてみると、私たちは主の前に繰り返し同じ言葉を聞いています。そして繰り返し同じ言葉で祈ります。そして信仰を告白します。私たちの礼拝を考えてみても、毎週同じことあるいは類似した言葉を繰り返す部分がかなりあります。開会祈祷、牧会祈祷、主の祈りと信徒信条、献金感謝の祈祷、讃美歌の頌栄、祝祷など。それは私たちが繰り返し主の御言葉を聞き、その御心を私たちの心の中に植え付け、そして私たちの信仰を確認し、信仰告白を繰り返すことで主とのの結びつきの内に留まり、そこに立って歩み続けるためです。
その上で、主の御言葉は、その時つまり、主が事をなさろうとして実行に移される時に主がお選びになった者に語りかけられます。ここまで来てやっと主はエリヤになすべきことを語られるのです。私たちは主からこうしたらよい、こうしなさい、ということを直接聞けたらどうでしょうか。分かり易くて動きやすい、悩まなくてよい、と思うかもしれませんが、何も考えなくても言われたとおりにしていればよい、ということにもなりかねません。それは主の前での私たちについての、主がお考えになる姿とは違います。そうではなく、ある時間をかけ、これまでを振り返り、次へ進むために備える時を与え、主がなさることを受け止める時を与え、そのために必要な休みの時を与え、その上ではっきりとした道を示されるのです。そこでは、明確に主の御心が示されました。
なんとエリヤに対する御命令は、来た道を引き返してダマスコの荒れ野に向かい、ハザエルをアラムの王とし、イエフをイスラエルの王とし、そしてエリシャをエリヤに代わる預言者とせよというものでした。それぞれ油を注いでと言われています。そして、イスラエルに7,000人を残す、と言われた主の御言葉は、後に使徒パウロがローマの信徒への手紙で引用するほど重要な預言の言葉でした(ローマ11章4節)。こんな風に、主の御言葉はエリヤに与えられました。考えてみれば主の御言葉は様々な極めて重要な場面で語られてきました。天地創造、人への御命令、堕落した人間への宣告、その世界を維持する約束、アブラハムへの旅立ちの指示と約束、モーセの召命、ダビデの王座についての約束、救い主誕生の予告、主イエスの洗礼の時、山上の変貌の時、主イエスの復活後の約束の御言葉等々。
私たち一人一人の生涯は、そういう世界全体に関わることではないかもしれませんが、やはり主は一人一人の大事な「その時」に御言葉を持って確かに語りかけて来られたはずです。それがあるからこそ私たちは信仰の道を歩んでいるのです。それは天からエリヤに対するように語りかけられたのではなくても、様々な仕方で私たちの所に届いたはずです。礼拝の聖書朗読や説教で、何かの文書や本で、人の語りかけてくれた言葉で、一人で聖書を読んでいる時に与えられた御言葉で。それを主からの御言葉として受け止めるかどうかの問題です。ある人には何も響かなかった御言葉が、別の人には深く強く響き、主からの語りかけとして届くのです。たちもまた、これまでを顧み、そしてこれからのことを見据えて、主の御言葉を一人一人、また教会として聞き、進むべき道を主につき従って行きましょう。
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