「神の命令は永遠の命である」2022.6.5
 ヨハネによる福音書 12章44~50節

 今日は、キリスト教会に聖霊が降られたことを記念するペンテコステの記念礼拝です。ペンテコステとは、50番目の、という意味で五旬節とも言われます。何から数えて50番目なのかというと、旧約聖書時代からの歴史はあるのですが、私たちキリスト教会にとっては、救い主イエス・キリストが復活されてから50番目の日に当たります。今年は4月17日がキリスト復活を記念するイースターでした。そこから50番目の日が今日に当るわけです。日曜日から始まって7週間を足せば、50番目も日曜日になります。日本語では聖霊降臨節、と言います。この出来事が初代教会に起こったからこそ、教会は今日まで存続し、世界に向けて宣教を続けてきたのです。復活された救い主イエス・キリストは、全世界へ出てゆき、すべての人を弟子とするようにお命じになりました。そして洗礼を授けよ、と。しかし復活されたイエスは天に昇られる前、弟子たちにお命じになっています。高い所からの力に覆われるまでは、つまり天、即ち神のもとからの力に覆われるまではエルサレムの都に留まっているようにと。それがつまり聖霊が降られることです。


  1.イエスを遣わされた方を知る

 ところで今日の題は「神の命令は永遠の命である」としました。50節から取ったものです。これは、普通の文章としては、聞いただけでは意味が良く分からない、という方がおられるのではないでしょうか。このことと、聖霊のお働きとの関係もまた、お話ししてゆきます。

 しかし今日は、聖書箇所としては聖霊降臨の出来事を記す所ではなくて、続けて学んでいたヨハネによる福音書からお話しすることにしました。ここには聖霊という言葉はありません。けれども、ここに記されていることを私たちが理解することができるとしたら、それは聖霊のお働きがあるからなのです。

 主イエスは、御自分が天の父である神のもとから来られたことを自覚していました。それで、御自分のことを信じる者は、イエスではなくてイエスを遣わされた方、つまり天の父である神を信じることなのだ、と言われたのです。言い換えると、イエスを信じる者は神を信じるということです。


  2.イエスは世を救うために来られた

 聖霊の恵みとは何か、といえばそれは、救い主イエス・キリストがこの世に来てくださり、そして救いの御業をなしてくださったことを、本当に恵み深い神の御業として示し、信仰へと導いてくださることです。どれほど、イエスが救いの御業をなさっても、聖霊が私たちの心を説得してくださらなければ、誰一人としてそれを悟り、信じて受け入れることはできないからです。

 では、そのイエスが来られたのは、どのような目的であったのでしょうか。イエスは光としてこの世に来たのであり、そして世を救うためでした。ここで言う「世」とは、世間とか世の中、という一般的な意味ではなくて生まれながらの人間、神の前に罪のある人間のことです。私たちは世間のこととか世の中のことを、素人なりにいろいろと論評することがあります。政治のことや世界情勢、有名人の醜聞、あるいは世の中の風潮とか流行に左右されやすい人々のことなど、評論家のような立場に立ってあれこれ批判することもあります。そのような時、知らず知らずの内に私たちは世の中と自分とを区別して一線を引いているかもしれません。

 しかし、主イエスの御言葉の前に立たされた時には違います。主イエスは世間一般の人々とか、特に悪事に手を染める人とかを区別するのではなく、「世」と言われます。そこには一般的には善人とみられる人も、悪人とみられる人も、すべての人を含むものとして語っておられます。ですから、善良な市民としてこの世を生きている、と自他共に認めるような人がいたとしても、ここで言われるイエスの御言葉は当てはまります。つまり、光として来られたイエス・キリスト、世を救うために来たイエス・キリストを必要としているのです。イエスは誰も暗闇の中に留まることのないように光として世に来た、と言われます。ということは、すべての人は暗闇の中にいるということです。

 おそらく、それなりに充実した日々を送っている人や、健康に自信があり、仕事や家庭のこともまずまず順調である、という人は「あなたは暗闇の中にいる」と言われても納得できないでしょうし、反発するか無視するでしょう。しかし、神は、私たち人間は暗闇の中にいると見ておられます。つまり、生まれながらの状態、神から離れている状態のままではよろしくない、とお考えになっているのです。

 人間が神に背いて歩み始めた時のことが創世記に書かれています。最初の人アダムは、妻のエバと共に神の戒めに背いて食べてはならないと命じられていた善悪の知識の木の実から取って食べてしまいました。それにより目が開け、自分たちが裸であることに気づいたのでした。しかしこの話は、「なんだそれなら目が開けて現実を知ったのだから良かったではないか」ということになるかもしれません。特に現代人の目から見ればそうでしょう。確かに人間はそれによって、今まで知らなかった世界を知ったのでした。つまり神から離れて自分流に生き始めたのです。一見すると自由になったように見えます。しかしそこには、それまでにはなかったものをもたらしました。罪の結果、責任のなすりつけ合い、妬み、争い、殺人、支配者の傲慢、神に対する思い上がり、などが生じたのです。そしてついには神から引き離されたまま生涯を終り、神との交わりを永遠に失ってしまいます。それは悲惨な状態なのだ、と神は私たちに警告をしてこられたのです。そのままでいることは暗闇の中を手探りで歩いているのと同じだからです。


  3.父なる神の命令は永遠の命である

 そのような悲惨な状態に置かれていることを悟れないでいるのが、生まれながらの人間です。皮肉にも、神に背いて目を開かれたつもりでいたのに、自分がいかに悲惨な状態にあるか、ということが見えなくなっていたのでした。これこそ罪のもたらした悲惨であり、暗闇の中にいる、と言われるわけです。そういう人間を救うために来てくださったのが救い主イエス・キリストです。ですから、そのキリストの言葉を聞かず、拒み、受け入れない者には終わりの日にキリストの言葉がその人を裁く、と言われます。今のこの世では、キリストの言葉を聞かず、受け入れず、拒んでいても、誰も裁かれません。

 もしも、背いている者の所に、天から天使たちがやってきてその人を裁き、懲らしめるとしたらどうでしょうか。そうすれば終わりの時の最終的裁きを免れるかも知れません。しかし神はそうはなさらなかったのです。今、この世で、福音として語られるキリストの言葉、つまり神の言葉を聞くか聞かないかで後々のことが決まる、と言われるのです。そして、キリストの言葉に従うならば、永遠の命が与えられる、と言うのです。47節以下でキリストが語っておられるのは、そういうことです。

 そうすると神はある意味では大変恐ろしい裁きをなさる神だということになりますが、神が望んでおられるのは神に背く人間を裁くことではありません。そうではなく救うことです。「父の命令は永遠の命である」(50節)という御言葉はそのことを表しています。そして、そのようなイエスの父なる神の御心を知るためには、聖霊の恵みがぜひとも必要なのです。主イエスはこの後、14章から16章にかけて、聖霊のことをしばしばお語りになります。聖霊が来られると、真理を教え、悟らせてくださると。そしてイエスがお語りになったことが本当であると教えてくださるのです。最初の人アダムが罪を犯した時に、目が開かれて自由になったと思っていた人間ですが、実は真理に対して目を閉ざしてしまったのでした。その目を今度は真理を悟れるように開いてくださるのが聖霊のお働きです。

 週報のコラムに書きましたように、主イエスは、天の父に求めれば父は聖霊をくださる、と言われました。自分は神に背いた罪によって、その事実すら見えなくなっていた者なのだ、ということを認め、神の前にへりくだって聖霊を求めるならば天の父は必ず聖霊をくださる、と救い主イエスは約束してくださっています。そしてイエスを救い主と信じる信仰へと導いてくださって救いに入れてくださいます。そうなのですから、私たちには確かな救いの道が約束されています。へりくだってそれを求めればよいのです。聖霊の恵みに謙虚に信頼して今こそ聖霊の恵みを求めましょう。キリストを信じ、聖霊により頼んで、父なる神の命令である永遠の命をいただきましょう。

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