「互いに足を洗い合いなさい」2022.6.26
 ヨハネによる福音書 13章12~20節

 神の御子であり、世に与えられた唯一の救い主であるお方、イエス・キリストが弟子たちの足を洗われました。それは弟子たちの罪を取り除くお方であることを示す行為でした。それだけではなく、今日に至るまで、主イエスを信じる人の罪を赦し清めることのできるお方であることを私たちに教えています。今日は、その主イエスが今度は弟子たちに、あなたがたも互いに足を洗い合いなさい、と命じられた御言葉をいただいています。


  1.主であり、先生であるイエス

 主イエスは、弟子たちの足を洗い終わると席について言われます。弟子たちは主イエスのことを先生とか主とか呼ぶが、それは正しい、と。この世で、先生と弟子、という関係はいつでもあります。皆さんもこれまでの歩みの中で学校の先生、習い事の先生、そして教会に来ると牧師のことを先生、と呼びます。そのように同じ人間のことを先生、と呼ぶ機会はよくあることですが、ここで主イエスが言われるように、「主」と呼ぶことはどうでしょうか。ここでの「主」はよく日本で妻が夫のことを主人、と言いますが、それと同じような意味での主、ということではありません。人が人に対して主である、というのはやはり特別なものです。もっとも、奴隷制が行われているところでは、奴隷は主人の持ち物であって、所有権を持っています。奴隷には自分の身分や生活、行動について自由がありません。そのような奴隷と主人の関係は今日の世界ではまずないでしょう。

 しかしイエスは、御自分のことを弟子たちに対して主である、と言われます。まずそのことをよくよく覚えておきましょう。ここでの翻訳が先生と言われたり師と言われたりしますが、これは同じ言葉の日本語での言い換えにすぎません。


  2.模範としての主イエスの行い

 11節まででは、主イエスは御自身が弟子たちの足を洗うことを前面に語られて、それは主イエスとの関わりを持つことであり、主に足を洗っていただくことは、弟子たちが主イエスによって罪を清めていただくことを象徴的に表しているのでした。今度は、それを土台として、同じイエスを主と仰ぎ、先生と仰いである者たちの間で足を洗い合うべきであると主イエスは言われます。そうすると、今度は足を洗う、ということの意味が違ってきます。違うといっても、全然別のことではありません。主イエスが弟子たちの足を洗うということは御自分を低くしてしもべのすべき務めをされたということです。人となられたことそれだけでも、実は身を低くしてへりくだられたことを示しています。そして辱めと苦しみを受け、十字架で処刑されるのです。それは弟子たちの前に御自分の身を本当に低くしてなされたことでした。そのように自分を相手よりも低くして、しもべとしてなすようなことを互いにしなさい、と今度は言っておられるのです。

 しかし、私たちは主イエスのように、互いに自分の命を差し出して相手の罪の償いをすることはできません。それは主イエスだけがなし得ることです。それでも、互いに足を洗い合いことはできるのです。では、弟子たちが、また私たちが今日互いに足を洗い合うとはどういうことなのかを学びましょう。

 主イエスを信じ、イエスを主と仰ぎより頼む者は、互いに足を洗い合わなければなりません。これは、私たちがやりたいとかやりたくないとかいう余地を与えないものです。私たち罪人と違って罪のない聖なるお方である神の御子イエス・キリストが、御自分を低くして弟子たちの足を洗われたのですから、弟子であり、僕であり、罪を赦していただいた者として、それにならうべきなのです。ここで主イエスは御自身を私たちの模範として示しておられます。私たちが主イエスのことをどのような方として見るかという時、ふた通りあります。一つは今見たように私たちの模範として。もう一つは私たちの主、救い主、神の御子としてです。それは信仰の対象としてです。この世にいろいろな宗教や道徳的倫理的行いの実践を勧める団体があります。良い行いを勧める団体では、主宰者が信仰の対象とまではならないでしょう。人生の師とか、指導者、先生という立場です。今日の所では主イエスは御自身の模範としての面を前面に出しておられるのは確かです。しかし主イエスの場合、ただ模範では終わりません。

 そして主イエスは、御自身がお選びになった者を知っておられます。その中には、13章の冒頭に書かれていた、イエスを裏切ることになるユダも含まれていました。イエスはユダが裏切ることもご存じでした。しかしだからと言ってユダを弟子たちの内に入れるのを止めることはしませんでした。ユダが裏切ることも含めて、すべて予め神は備えておられました。「わたしのパンを食べている者が、わたしに逆らった」という言葉は、詩編41編10節です。この聖書の言葉は実現しなければならない、とイエスは言われます。つまり、イエスに関係すること、イエスがこの世に来られて成し遂げられることは、聖書に書かれているのであって、それを神が御計画しておられたのでした。

 そして主イエスはここでも御自身についての一番重要な言葉「わたしはある」という言葉を述べられます。8章24節、28節でも「わたしはある」と言われました。これは、旧約聖書で神が御自身を現された時に御自分のことを言われた言葉に通じるものです。一言でいうならば、イエス・キリストという方は、旧約聖書でずっと御自分を現して来られた神と自分とが等しい者である、ということを言っているのです。これは驚くべき自己紹介です。そういうお方が互いに足を洗い合うことの模範を示されたのです。しかしここで主イエスも言っておられるように、弟子たちはまだここではその言葉の意味は全く分からなかったのです。事が起こった時、とはイエスが十字架で処刑されて死なれたあと、3日目に復活される出来事のことです。


  3.主イエスを信じ受け入れる者は幸い

 主イエスがここで言っておられることは、良く説明されないと初めて聞いた人には何のことかは分からないことでしょう。私たちが聞くべきことは、このイエスというお方のなさったことを見て信じる者は、イエスをこの世に遣わされた父なる神を信じているのだ、ということです。つまりイエスを見てイエスを信じ受け入れる人は、神を信じ受け入れていることなのだ、というのです。先ほどの「わたしはある」という言葉は、イエスが神と等しい者だ、と言っているのと同じことなのです。

 その上で、互いに足を洗い合いなさい、という戒めに立ち戻りましょう。私たちは主イエス・キリストを知らず、神を知らなければ、人と人との関係はただ同じ人間というだけで、どちらが優れているとか、どちらが強いとか幸せだとか、才能があるとかないとか、仕事は何か社会的にどんな立場か、ということですぐに比較を始めることでしょう。どれほど優れた才能や頭脳を持っている人でも、神の前ではそれは実に小さなものです。神の前では自分を偉そうに見せても、人より優れていると自負しても、すべては無意味です。神の前では小さな存在にすぎません。そのことが分かって実行するなら幸いです。互いに足を洗い合うというのは、神の前にへりくだって、相手を尊ぶことです。特にイエス・キリストにおいてつながっている兄弟姉妹に対して、自分を低くできる人は、イエスに足を洗っていただいた人だと言えます。逆に人の足を洗うという、自分を低くすることができない人は、イエスが自分の先生であり、神の御子であり、自分を救ってくださるために身を低くして十字架に架かってくださった方だということをまだよくわかっていないということです。しかし、頭ではわかるのだけれども、足を洗い合うということを実践するのはとても難しい、という気持ちが私たちの中には沸き起こってきそうです。確かに私たちは自分を低くしてへりくだるのが苦手なのかもしれません。しかしだからこそ誰よりも清く聖なるお方であり、罪のない神の御子イエスが人となって十字架にかかれねばならなかったのだということを心に刻み付けましょう。神の御子の前には自分の正しさや善い行いなど、風に吹き飛ばされる塵のようなものです。それをよく悟って主イエスに倣う者は幸いなのです。

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