「神の呼びかけに答える」2022.6.19
 サムエル記上 3章1~10節

 今日は、少年サムエルが神から呼びかけられた時のお話です。この話は、絵画の題材にもなっており、特に、祭司エリが教えた「主よ、お話しください。僕は聞いております」という言葉は、しばしば引かれるものかもしれません。ここでのサムエルは、大変素直にエリの言葉を受け入れて、言われたとおりに答えます。それは、少年サムエルはまだ主のことを知らなかったとあり、神に呼びかけられることの重みも知らなかったということがあるでしょう。しかし、彼のこの態度は、主の呼びかけに答える模範的な姿です。


      1.神に呼びかけられて答えた人々

 聖書の中には大変多くの人々の話があります。その中には、サムエルのように素直に神の呼びかけに答えて行動に移した人がいます。第一に上げられるべきは、創世記に登場するアブラハムでしょう。彼は主から、生まれ故郷を離れて、主が示す地に行きなさい、と命じられ主の言葉に従って旅立ちました。行き先を知らずに旅立ったのです(創世記12章1~4節)。彼は、もう一度別のことを命じられて従ったことがあります。やっと生まれた跡継ぎとなるべき息子のイサクをささげよ、と主が命じられたので、アブラハムはその命令に従いイサクを献げようとしました。しかし、主はアブラハムの信仰を見て、それを止めさせたのでした。あえてアブラハムを試されてのことでした(同22章1~12節)。この二つの出来事の中で、アブラハムの心の中にどのような葛藤や思いがあったのかは分かりません。しかしとにかく彼は従った、ということが記されているのです。

 もう一人挙げておきましょう。それは預言者イザヤです。彼はある時、幻を見ます。高く天にある御座に主が座しておられ、セラフィムと呼ばれる天使のような存在が飛び交っていました。イザヤは、自分は汚れた唇の者だと自覚していましたが、主の御声を聞きます。主は民に御心を伝えるべき人を求めておられ、「誰を遣わすべきかと呼びかけておられました。それに対してイザヤは「わたしを遣わしてください」と自分から言ったのでした。しかしこの場合注意が必要なのは、イザヤは自分を過大評価したのではなく、自分の罪を赦していただいている、という宣言を聞いた上でのことだった点です。その上で彼は預言者として立てられたのでした(イザヤ書6章1~8節)。


  2.神の呼びかけを断ろうとした人々

 次に、主の呼びかけに対してすぐには従わずに、断ろうとした人がいます。それは預言者の筆頭にも挙げられるべきモーセです。エジプトで虐待されていたイスラエルの人々を救い出すために主がお立てになろうとして、彼のもとに現れ、エジプトの王ファラオの所に出向き、交渉してイスラエルの人々を荒野に導き出すようにと命じます(出エジプト記 3章9、10節)。ところがモーセは、3度もそれを断ろうとします。1度目はイスラエルの人々が自分のことを信用しなかったらどうするのでしょうかと。2度目には、自分はもともと弁が立つ方ではなく、口が重く舌も重い者なのです、と。3度目は、どうぞ誰かほかの人を見つけてください、と。このモーセの答えは、私たちが何か大事な務めなどを任されそうになった場合、自分に自信がない時に出てくる言い訳がすべて入っているように思います。もしその通りにしたらこれこれの場合、行き詰まるのではないか。自分にはその務めは向いていない。誰かほかの人の方が相応しい、と。イスラエルの中で最大の預言者とみなされるモーセがこのような反応を示したのでした。それでも主は、怒りを示しながらも、あくまでもモーセを立てることを取り止めずにモーセを助ける者を起こしてモーセを用いられたのでした。こちらももう一人挙げておきます。預言者エレミヤです。彼は主が、「あなたを諸国民の預言者として立てた」と言われた時に、自分は語る言葉を知らず、若者にすぎません、と答えたのです(エレミヤ書 1章4~6節)。しかし主は、「私があなたと共にいて必ず救いだす」と言われ、エレミヤをお立てになりました。

 このエレミヤの場合、預言者として働き始めてから、苦労の連続でした。王宮の指導者たちは、エレミヤの語る先々のことについて信じようとせず、彼を捕えて監禁しました。周りには偽預言者たちがいて、エレミヤとは正反対のことを語りました。神に逆らう者たちは栄え、欺くものが安穏に過ごしている姿を見ます。様々な苦しみを彼は経験し、自分は生まれなかった方が良かったのにと、嘆くほどでした(エレミヤ書15章10節)。孤独も味わいました。預言者としての務めに召し出され、その呼びかけに答えて働き始めたら始めたで、労苦と困難と孤独と迫害とを味わいつくさねばならなかったのでした。


  3.主の呼びかけに「答える」こと

 このように見てきますと、預言者たちが主の呼びかけに答えたくなかったのは分かるような気がしてくるかも知れません。サムエルのように、まだ無邪気で主に従うことがどれだけの困難を伴うかが分からなかったから素直に聞き従ったのではないかとすら思いたくなります。

 もし私たちがこの世で目に見えることにのみ価値を置いているとしたら、そう思っても仕方がないでしょう。しかし、預言者たちは、たとえどれほどの苦しみを味わうことになったとしても、彼らは自分でその務めを放り出すことができませんでした。もうだめだと思って主に対して自分の命を取ってくださいと願ったエリヤのような預言者もいましたが(列王上19章4節)、彼らはその務めから逃れることができませんでした。もう語るまいと思っても、主の御言葉が心の中に迫ってきて、語らざるを得なかったのです(エレミヤ書 20章9節)。

 このように見てきますと、主なる神は私たちの命の主であり、この世に起こる一切のことを司っておられる方であるのですが、御心を実現して行かれるにあたり、その御心を人に知らせるためには、わざわざ預言者などをお用いになって人々の所に遣わして語らせるのです。悪事を働き、偶像礼拝に傾く王たちのもとへも預言者たちを送って語らせなさいます。それだったら、預言者たちに語るように、王たちにも直接お語りになれば、彼らも悔い改めるのではないでしょうか。しかしそうはなさいません。

 サムエルの場合も同じです。主は少年のサムエルに呼びかけました。彼はこの後、生涯を通じて「主よ、お話しください。僕は聞いております」という姿勢を貫きます。私たちもこの世で主イエスを信じる信仰に招かれて信じる者とされます。そして、サムエルのように、まず主に語っていただく。そしてそれを聞く、という姿勢を身に着ける必要があります。今日、手に取れる聖書があります。そして教会に来れば牧師がその説き明かしをします。その際、注意すべきことがあります。神の御言葉を聞く私たちが主に語らせるのではなくて、私たちはあくまでもへりくだって聞く立場にあるということです。聖書にはよく意味の分からない所が必ず出てきます。使徒ペトロは、使徒パウロの手紙についてそのように書いています。「その手紙には難しく理解しにくい箇所があって、無学な人や心の定まらない人は、それを聖書の他の部分と同様に曲解し、自分の滅びを招いています」(ペトロの手紙二 3章16節)。

 聖書の御言葉を曲解せずに正しく聞きとるには、やはり自分一人では難しいのです。礼拝に来れば牧師が確かにいろいろと調べた上で語ります。しかし一人であるいは家族と聖書を読む時に、自分なりに調べたいこともあるはずです。そのような時、やはり信頼のおける注解書、信仰問答などを用いて学んでゆくことも必要です。その際、まず必要なのは、祈ることです。主よ、お話しください、僕は聞いております。という姿勢をまず持ちましょう。自分が聖書の御言葉を判定するのではなく、そこで語られる主の御心を尋ね求めましょう。それでもよく分からない所はもっと良くわかる人(それは通常の場合教会の牧師ということになりましょう)に聞きましょう。

 なぜ神様はこのようなことをなさるのかよく分からない、ということや、現代人からすると納得がいかない、ということもあるかもしれません。しかし、それはどういう文脈で、どういう背景で語られたのかを知らずに簡単に自分の持っている判断基準で判定しないようにするべきです。私たちは神に造られた存在です。主なる神は私たちよりもはるかに優れた知恵をお持ちなのですから、それを忘れてはいけません。人間が考えそうなことは、主は予めご存じだということを思い出しましょう。そして聖霊の導きと助けを祈り求め、御言葉がよりよく分かるように助けを求めましょう。そして、この世においては私たちが知るべきことは聖書によって明らかにされているのですから、そこは安心して、主の御心に委ねて信仰による生活を続けるのです。やがて主は全てを明らかにしてくださるでしょう。

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