「イエス、弟子の足を洗う」2022.6.12
 ヨハネによる福音書 13章1~11節

 神のもとから来られた神の御子イエスは、御自分の身に起こることをよくご存じでした。「この世から父のもとへ移る御自分の時」とありますが、これは、イエスがユダヤ人の指導者たちに捕えられ、ローマ帝国の裁判にかけられて死刑に処せられて殺されることです。そういう中に置かれている主イエスがなさった、弟子たちの足を洗うという行動から、私たちはイエスというお方が何のためにこの世に来られたのかを知るのです。


  1.弟子たちをこの上なく愛されたイエス

 イエスは御自身がお選びになった弟子たちをこの上なく愛されました。この上なく、とは極みまでということで、なしうる最大限のことをされたということです。愛する、という言葉はこの世にいろいろな形で溢れています。一方的な愛や自分中心の愛もあります。相手のことを一切考えないで自分の思いだけを相手にぶつけ、相手の気持ちを自分に向けさせようとし、人につきまとって自分の欲求を満たそうとするのは、もはや愛とは言えず、単なる執着です。

 聖書には、愛についての有名な教えがあります。愛とは忍耐強く、情け深く、ねたまず、自慢せず、高ぶらず、礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐えるものです(Ⅰコリント13章4~7節)。自分の利益を求めない、という一点だけを考えても、私たちがいかにそこから遠いかを教えられます。人のためだと言いながら、実は自分の利益を求めている、ということが私たちにはあるのではないでしょうか。表面的には謙虚なことを言っていても、実は心の中では自分の自慢をしたいと思っていることもあるかもしれません。これは他人事ではなくて、私たちはそれなりに自分を顧みて見れば、この教えの前に白旗を挙げざるを得ないと思います。

 それに対して神の御子イエスは、この世に来られて、御自分の利益を求めて行動するのではなくて、それはすべてこの世に生きる私たち罪ある人間のためでした。まずは目の前にいる弟子たちに神の御言葉を教え、そしてひいてはすべての人に、神の御心を知らせるためにすべてのことをなさいました。しかしそれに対して、非常に不気味な一言がここに記されます。悪魔が、弟子の一人のユダにイエスを裏切る考えを抱かせていたというのです。聖書には、悪魔のことが書かれています。その起源や存在理由について、聖書は実はあまり語っていません。その存在を前提しています。ただ聖書全体から伺えるのは、神がお造りになった天使たちのある者たちが堕落して神に背いた結果、そうなったということです。その仕業の目的は、人を罪に誘惑し、神に背かせることです。


  2.イエスとの関わりー足を洗う

 では、ここで主イエスがなさった、弟子の足を洗う、という行為そのものを見てゆきます。過越祭の前のことである、と書いてありますが、過越祭とは、イスラエルの歴史の中で甚だ重要な行事でした。このイエスの時代から遡ること千数百年前、かつてエジプトの地で奴隷となっていたイスラエルの人々を、神がモーセによって導きだして救われた時のことを記念して行うものです。その際、小羊を屠って肉を焼き、種を入れぬパンを焼き、ぶどう酒を用意して食事をすることになっていました。そのために弟子たちとイエスは集まっていたのでした。

 ユダヤでは、会食などに客が招待された時には、自宅で体を洗い、招待された席に着く前に足だけを洗う習慣がありました。そしてその足を洗うのは、最も身分の低い者の仕事でした。主イエスはあえてその仕事を御自分でなそうとされたのです。しかしこの時イエスの行動は、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟ってし始めたことでした。もちろん、この時初めてイエスはこのことを悟ったのではなくて、そのことを十分自覚した上で、というくらいの意味です。元々お考えになっていたことを行動に移されたのでした。そして、この足を洗うという行為と、神のもとから来て神のもとに帰るということは、とても深いつながりのあることなのでした。


  3.イエスによって清められる

 主イエスは、こうして弟子たちの足を洗い始められたのですが、足を洗う、ということは身分の低い者の仕事だと言いましたが、イエスは確かに御自分を低くされてこの仕事をされました。その点については模範という観点から12節以下でお話しされます。今日の所では、いわばそのことの根拠となる事柄について教えておられます。

 さて、イエスが弟子たちの足を洗い始めて、ペトロの番になりました。彼は、先生であるイエスが自分の足を洗うなどということが納得できなかったのでしょう。イエス様に自分の足など洗ってもらうのはとても申し訳なくて、遠慮したかったわけです。しかし、もし洗わないならイエスとの関わりがない、と言われたものですから、今度は逆に手も頭も洗ってください、と言うのでした。こういう所にペトロという人の性格がにじみでています。主イエスは、こういうペトロに対して、今していることの意味は後で分かるようになると言われます。これは私たちにも共通することですが、私たちが心から信頼している人が、特に自分に対して何かをしてくれている時、自分にはその行動の意味が良く分からない場合があります。特に子供であれば、親や先生のしていることの意味が良く分からないということなどはしばしばあります。それでも、信頼して自分をゆだねているので、そのなすことに任せることができます。私たちと神様、あるいは主イエス・キリストとの関係もそういうもので、神様が、イエス様がそうなさるのならそれを信じて任せておこう、ということになります。私たちが神を信じる、ということにもそういう面があるのです。

 ここで主イエスが問題にしておられるのは、手や足や頭、と言う部分が何を示しているかということではなく、イエスによって洗っていただく、ということそのものについてです。ここでイエスは、弟子たちの足を洗う、という行為によって、弟子たちは神から来られた救い主であるイエスによる罪の赦しの恵みをいただいている、と教えておられるのです。これは聖書全体の教えに関わってきます。人は神の前に罪を犯している。聖書の重要な教えです。それは、人が良い行いを積み上げても到底償えないものです。人が一生かけて良い働きをし、人に親切にし、事前事業を沢山行っても足りません。私たちは自分の心の内を覗いてみたならば、自分が善人でも正しい人間でもないことを認めざるをえません。それは他の人間と比べての正しさや清さではなくて、神の完全さ、正しさの前に、神を満足させられるだけの清さや正しさを人は失っているからです。その人間が神の前に罪を赦されて神と共に生きることができるようにしてくださるのが神の御子イエス・キリストです。

 弟子たちは、イエスに選ばれて共に働くようにされました。彼らは、イエスのなさることや語られた御言葉の意味をまだよく悟ってはいませんでした。しかし先ほど言ったように、後で分かるようになります。しかしその中に一人だけ、イエスを裏切る者がいました。イスカリオテのシモンの子ユダです。彼はせっかくイエスのそば近くに置かせていただいていたのに、悪魔の誘惑に身をゆだね、金欲しさにイエスを引き渡す約束をユダヤの当局者と結んでしまいます。それで皆が清いわけではない、と主イエスは言われたのでした。

 私たちは、今日、イエスのことをこの聖書から知ることができます。そして、イエスは常に私たちに呼びかけておられます。わたしと関わりをもって、罪から救われなさい、と。イエスは私たちが罪の赦しを受けられるように、自ら罪の償いを十字架でしてくださいました。イエスを救い主と信じるということは、イエスに自分の足を洗っていただくということで、イエスとのつながりの内に生きるようになることです。この世にはイエスと何の関わりもなく生きている人々が大勢いるように見えます。見える、と言ったのは実はすべての人間は広い意味ではイエスと関わりがあるからです。イエスが十字架につけられたのは、私たちすべての人間の罪のためだからです。私たちに罪がなければイエスは十字架に着くことはありませんでした。この世に来られる必要もありませんでした。しかし現実はそうではなかった。好きなように生きている人間は、そのままでは神の裁きに遭うしかありません。

 しかし神は、人間がそのまま好きなように生きて勝手に行きたい方に行くことを望んでおられません。神のもとに立ち帰り、神をあがめ、神の御言葉に聞き従って生きることを望んでおられるのです。主イエスは、私たちの前にもやってきて召使いのようになり、足を洗おうとしておられます。ペトロはただイエス様に洗ってもらうなどとんでもないと思って一度は断りましたが、もし私たちがイエスの十字架など自分は必要ない、お構いなく、と言って拒むなら、救い主との関わりを拒み、神の前にある罪はそのままにしておく、ということになります。そうするとなると、神の前には罪が残っていますから、それは自分でどうにかしなくてはなりません。後の日に、神の前に立ち、「私はイエスの十字架の償いを拒みましたので、自分で何とかしようと思いましたが、神に認めていただけるような償いはできませんでした」と申し開きをするしかないのです。これは恐ろしいことです。そうなる前に、イエスに足を洗ってもらいなさい、と神は聖書を通して命じておられます。この有難い命令を受け入れてゆだねるなら、幸いです。それがいかに感謝すべきことかは、後になればなるほどよくよく分かることになるでしょう。救い主イエス・キリストは、目の前にいる弟子たちだけではなく、今、この現代に生きる私たちのことも心に留め、愛してくださっています。この慈しみに満ちたイエスの前で、足を洗っていただき、罪を赦していただき、清めていただきましょう。

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