「母が子を育てるように」2022.5.8
テサロニケの信徒への手紙一 2章1~12節

 今日の題は、母が子を育てるように、というものですから、母親そのものに対する教えや教訓ではないということがお分かりいただけるかと思います。母親の子育ては、1つの例としてしかし重みのある例として挙げられています。この手紙を書いたのは、イエス・キリストの使徒、つまり特別に選ばれてキリストについての福音を伝える務めに就いたパウロです。彼は生涯独身で過ごした人で、自分の子供を育てたことはない人です。そのパウロは自分がどのようにその務めを行ってきたかを母親と父親の姿に重ねて書いています。


  1.母のように父のように

 今日、お話ししようとしているのは、その使徒パウロのことよりも、パウロを選んでキリストの使徒としてお立てになった神のことです。それを私たちが知るにあたり、神によって立てられた使徒パウロがどのようにしていたかを見ることによって、神はどうなさったかが浮かび上がってきます。

 使徒として立てられたパウロは、自分を幼子のようにした、といっています(7節)。幼子のようになりながらも、母親のようにテサロニケの信徒たちに接したと言っています。幼子のようにとは、つまり人の言葉や態度の裏の裏を読むようなことをせずに、まっすぐな純真な気持ちで接したということでしょう。

 そして彼は母親がその子供を大事に育てるようにテサロニケの信徒たちをいとおしく思っていました。それは自分の命さえも喜んで与えたいと願ったほどでした。彼はどうしてそれほどまでの思いを抱いていたのでしょうか。パウロがこのような表現を使っていた理由の一つには、彼の中にある母親についてのとても大事な印象があるからではないでしょうか。それとともに、母親とはこういうものだという、社会に存在しているある共通理解のようなものがあるからだと思います。

 母親がその子を大事に育てる、というのは言わば私たちの中にある、共通的な母親というものに対するイメージでしょう。どの程度なら大事に育てているのか、ということを定義付けることは問題ではありません。一般的なある共通理解があるということです。パウロが母親のイメージを持ち出したのは、母親の子供に対する愛情というものが、何にもまさって犠牲的であり、子どものためなら自分の命すらも差し出して構わない、という思いが最も母親の中に強く見られるからです。母親であれば誰でも皆そうだ、というわけではないにしても、一般的な母親像としてそれを引き合いに出したのです。パウロは同じような思いをテサロニケの信徒たちに対して抱いていたというわけです。

 同じように彼は父親のことも挙げています。父親がその子供に対するように、「神の御心に沿って歩むように励まし、慰め、強く勧めたのでした」(12節)。パウロは、手紙を書くたびに相手に向けて励ましたり慰めたり勧めたりしています。それは非常に強い思いをもって書いています。それは、他でもない、神が私たち人間に対してそのように接してくださっているからです。神はそれを御言葉によって、また様々な業によって示してこられました。それはちょうど父親が子供に何かを教えようとする時に、何度も同じことを繰り返してやらせることで覚えさせ、また必要なら何度でも叱ったり励ましたり、時には厳しく時には優しく教えていく、ということに似ています。神はイスラエルの民に対してそのように振る舞ってこられました。神はその戒めを通して、唯一人の神だけを信じてより頼みなさい、とお命じになってきましたが、民はすぐに目に見えるものや、人が作った偶像により頼み、それに助けを求めようとしたのでした。そしてそれを何度も繰り返してきました。しかし困窮に陥るとやっと主なる神を求め、そして神は呼び求める者たちに答えてくださったのでした。


  2.父母にまさる神の愛

 このように、神がその民を大事に育て導いて来られたことを母親や父親に譬えているのですが、じつは、神こそが最も慈しみ深いお方であり、忍耐をもって民を導く方であるからこそ、人間の親の中にもそれを映し出すものとしての愛と慈しみが見られるのです。

 実際、いにしえの詩人は、人間の父母と主なる神とを比較して歌っていました。「父母はわたしを見捨てようとも、主は必ず、わたしを引き寄せてくださいます」(詩編27編10節)。確かに人間の父や母は、先ほど見たように大変犠牲的な愛や、忍耐をもって子供を育て、励まし、慰めをもって子供を育てますが、時に人間の親は子供をほったらかしにしたり、悪くすれば捨ててしまったりすることすらあります。しかし、ここでたとえ父母はわたしを見捨てようとも、という言葉によって、いかに主なる神の愛が大きいものであるかを示そうとしているのです。

 人間の母親は、確かに子どもを大事に育てるでしょう。そしてパウロが言うように、自分の命さえいざとなれば与えたいと願うほどの愛情を持っていることもあるでしょう。しかしそれもまた、神の愛を映し出していると言うべきです。なぜなら、神が遣わされた神の御子、救い主イエス・キリストは、御自分の命を私たちのために十字架で献げてくださいました。神に背き続ける人間の罪を償うために、神の御子が十字架についてくださいました。神は永遠に生きておられる方であり、神として何に頼ることもなく存在しておられます。その方はそのままでは死ぬということはありません。しかし人の罪を償うには、人となって死なねばなりません。それで神の御子であるイエス・キリストは人となられてこの世を歩み、そして十字架にかけられることによって私たち人間の罪をその身に担い、償ってくださいました。それによって私たちに救いの道が開けたのです。


  3.自分の命さえ喜んで与えてくださった神の御子

 それがイエス・キリストという救い主です。この救い主は神の御子でありながら人となって苦しみと辱めを受けてくださいました。それは人としては最大級の苦しみを受けることでした。しかしそれを嫌々ではなく、パウロがこの手紙の2章8節で書いているのと同じように、「自分の命さえ喜んで与えたいと願ったほど」でした。そして願うだけではなく、実際にそうしてくださったのです。しかし罪のない方でしたから死後3日目に復活されました。

 そして、信じる者を罪と死と滅びの中から救い出してくださいました。それがパウロもここで書いている「神の福音」です。神はこうして母親がその子供を大事に育てるように私たちを大事に育ててくださいます。人間の母親は限りある存在で、どれほど子供のことを考え、そのために犠牲的に働き、世話をしたとしても、完全な者ではありませんから、自分が倒れてしまうこともあれば、途中で育てることができなくなってしまうことすらあり得ます。そして大抵の場合は子供よりも先に世を去ります。また、長生きをしたとしても、子供たちは自立して生きるようになり、小さい子供を大事に育てるという期間自体も普通は限られています。

 しかし神は、私たちを一たびキリストによって救い、神の子供たちの内に入れたならば、永遠に守り、養い育て、そして御自身の国と栄光に与らせてくださいます。そのような神が私たちの神となってくださるのです。

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