「真の平和は主のもとに」2022.5.29
 ヨハネによる福音書 14章25~31節

 この世には、人がいる限り常に争い、戦いが絶えない。このことを人類の歴史が証明しています。人と人がそこにいれば、仲良く協力したり助け合ったりもするが、一度意見が衝突したり利害が一致せずにぶつかり合うようになるとたちまちいざこざ、争い、戦いが始まります。子どものけんかから、武器を持つ者同士の抗争、国同士の戦争まで、きりがありません。それは聖書にある通り、人間の内に争い合う欲望があって、自分に、また自分たちに最大の利益をもたらそうとすることが根にあります。特に今、ロシアがウクライナに侵攻して、戦争状態となっています。これまでのあちらこちらで戦争は起こってきましたし、日本も戦争を仕掛けて多大の被害を他国に与えてきました。決して他人事ではありません。この機会に、平和ということを聖書がどのように教えているかを学びたいと願っています。


  1.平和を求める心

 人の中に種々の欲望があって、それが争いや戦いを引き起こしている、というのが聖書の教えです。それは、人が神に背いているからです。しかし同時に、人間は平和に穏やかに暮らしたいという思いをもっています。それは、戦って血を流して自分の欲しいものを手にいれるよりも、言葉でやり取りをし、そして利害が一致するならば、その相手とは平和的に交渉して、互いに利益になるようにした方が得だからです。しかしそれだけでは、やがて温度差が出て来た時に、つり合いが取れなくなって均衡が崩れ、それまでの良い関係が崩れてしまう事も起こり得ます。

 それでも人には平和を求める心があり、これは実は神から来ています。人間は神の前に堕落してしまい、神との間にも、人との間にも溝ができてしまいました。神には背を向け、人と人は争い、様々な人間関係にも亀裂が入るようになりました。しかし神はそういう人間に対しても、平和を求める心を全く失わせてしまわれたのではなくて、平和を求める心を残しておかれました。しかしそれは不完全なもので、かなり歪んでしまっているので、この世にはなお、戦争や争い、いざこざが常にどこにでもあるわけです。


  2.世が与える平和とは違う

 そういうこの世に来られた救い主イエス・キリストは、弟子たちに対して「わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える」と言われました。しかも、「世が与えるように与えるのではない」と言われました。では、世が与えるような平和とはどういうものでしょうか。この世でも、国と国との間に平和的関係が確立されて、良い関係を築けるということがあります。それはそれで良いことではあります。また、個人的な関係でも、仲違いしていた人たちが和解する場合もあります。しかし、イエスは、世が与えるように与えるのではない、と言われます。

 世が与える、というのは結局人が作り出すものであり、人の力や知恵によるものですが、それはやはり必ず永続するものとは言えません。国と国とで条約が結ばれたとしても、それを片方が一方的に破ってしまうこともあります。そうなれば、それまで築かれて来た平和は一挙に崩れ去ります。もろいものです。どうしてそうなるのかといえば、やはり人がこの世に永久に存在できないからではないでしょうか。約束はしても、それを永久に守り続けることができないのです。平和を約束しても、口先だけということもあります。個人的関係の中でも、いくらまじめに約束しても、何らかの力によってどうすることもできず、約束を守れないこともあるわけです。善意はあっても、それを完全に実行する力が私たち人間には欠けているからです。また、その善意も不完全なもので、自らを省みた時に、自分の中にある善意というものがいかに頼りなくて、中途半端な面があるかということを思い知らされるのです。

 主イエス・キリストが言われる違いはそこにあります。キリストの場合は、神の御子として、神の権威と力をもって、平和を与えると言われます。その平和は、頼りない人間の約束とは違って確実に平和を与えることができます。

 では、イエス・キリストが与えると言っておられる平和とはどんなものでしょうか。世が与えるようにではない、ということは、ここで語られるキリストだけが与えられるということです。それは単に国と国、人と人が仲良く穏やかに、平和に暮らせるようにするということではありません。人間の奥深くにある問題、人間をお造りになって生かしておられる神との関係の問題です。そのことをみてまいります。


  3.真の平和は主のもとにある

 そもそも、この世にある何らかの争い、衝突、紛争、そして戦争は、人間が自ら神との関係を壊してしまった所にその原因があります。聖書は、最初の人アダムが神の戒めに背き、悪魔の誘惑に耳を傾けて神のように自分を高め、賢くなろうとしたことが原因だと言っています。人が賢くなろうとして努力することは悪いことなのでしょうか。確かに人間が学問を深め、物事の真理を追求してきたことは、それ自体悪いことではありません。しかし神に背いて堕落して以来、人は神の言葉をへりくだって聞くよりも、神が与えてくださった知恵を正しく用いないで自分流に賢くなろうとしてきたのでした。それゆえ、知識と知恵を蓄積してきましたが、それを悪いことのためにも用いてきてしまったのでした。戦いのための武器から始まり、今や核兵器がその最たるものといえます。

 このような人類には、真の平和を作り出すことはできません。しかしキリストは、自らを献げることによってそれを実現してくださいました。神と私たちとの間に和解をもたらし、平和を回復させるために、キリストは十字架で御自身を献げてくださいました。こうして、キリストを信じる者には神は、神との間の平和を与えてくださいました。それは人間にとってもっと大事なことです。

 しかし、キリストが十字架につけられてから、かれこれ2,000年近くの年月が経っています。それにも拘らず、この世界には常に争いや戦い、戦争があります。それはつまり、キリストがこの世に来られた目的は、世界平和のためではなかったからです。もしもこの地上に世界平和を実現するのがキリストの目的だとしたら、キリストはその目的を果たせなかった、ということになります。しかし世界平和はキリストの目的ではなく、信じる者が一人でも神のもとに立ち帰り、神に背いて平和な関係を壊してしまった罪を赦していただき、神との平和にあずかることが、その目的でした。それがキリストによる救いなのです。

 「事が起こったときに」とか「世の支配者が来る」と言われているのは、キリストが捕らえられて十字架にかけられることを表しています。「だが、彼はわたしをどうすることもできない」と言われます。キリストを捕えて十字架にかけた人々は、キリストが神の御子だと信じないで、逆に神を冒瀆していると思い込んでいました。そしてそういう者は死刑にすべきだと考えて十字架で処刑し、思い通りにしたつもりでした。しかし、キリストが十字架につけられて殺されることは神の御心に適うことで、キリストもまたそのためにこの世にお生まれになったのです。どれほどキリストに敵対し、神の御子だと信じないで処刑したとしても、それはキリストを「どうすることもできない」人間の無力さを証拠立てることにしかならなかったのです。

 だから私たちは、この世で平和が必要だ、平和を実現したい、と願うならばまず十字架にかけられた神の御子イエスを仰がなければなりません。それを抜きにしてこの地上に平和を実現することはできません。キリストは御自身を信じる者に神との真の平和を与え、ついには神と共にある永遠の命をくださいます。神は、人と人との間の仲違い、争い、対立、差別、戦争といった悪いことを容認しておられるわけではありません。そのような状態になっている人間の罪深い現実を示しておられるのです。そしてそれを神の前にまず認めて悔い改め、キリストを信じなければ、神との間の真の平和は実現しないのです。それを抜きにしてこの世の平和などあり得ません。十字架のキリストを信じる所からすべては始まります。そしてキリストを信じる者たちのことを、キリスト自ら次のように言われます。  「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイによる福音書5章9節)。

 これは、クリスチャンだったらこの世の人間関係を必ず良くして修復することができる、ということではありません。この世でクリスチャンは、神の御言葉により頼み、まず自分自身が神との平和の内に生きようとし始めます。そして、たとえどれほど小さな力しかないように見えても、主キリストを信じる者がそこにいるならば、そこには神と人との真の平和が実現されており、神がその人と共におられます。人の目には見えなくても真の平和があるのです。

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