「天の父にゆだねて生きる」2022.5.15
 マタイによる福音書 6章25~34節

 救い主イエス・キリストは、御自身をこの世に遣わされた天の神のことを「父」と呼ばれました。聖書で神は天地の創造者、造り主として示されています。その神は、イエスにとっては父であられます。それは、イエスが神の御子として、天の神とは、父と子の特別な関係にあるからです。しかし、私たち普通の人間にとっても、天の神は「父」となってくださる。このことを主イエスは教えておられます。


  1.思い悩んで日々を生きる人間

 主イエスは、人間がこの世で何を思い悩んでいるかということをよく見ておられました。何を食べようか、何を着ようか、と。誰でもこの世で生活していますと、何か特別なことがある日には何を着て行こうか、といろいろ考えるでしょう。ここで主イエスが言われるのは、そういう時にも何を着ようかと迷うな、ということでしょうか。もし、何を着ようかということで思い悩むあまり、そのことだけに心が奪われてしまい、相応しい服が決まらなければ、もう大変なことになると思い悩み、それが人生の一大事であるかのような状態であるならば、確かに主イエスが言われるように思い悩んでいる状態だと言えるでしょう。そうではなく、葬式とか結婚式とか特別な時のために相応しい服を着て行こうとして用意するのは、ここで言っておられることとは違います。衣服のことで思い悩むのはいけないから、もうどこへ行くにも普段着で行けばよい、特別に着飾る必要はない、ということを教えているのではないのです。

 そうではなく、命よりも食べ物のこと、体よりも衣服のこと、どちらが大事かを忘れて、食べ物や衣服のことが何よりも大事なことのようになってしまっている状態が問題なのです。この世での生活のこと、そればかりが心を悩まし、一番大事なことになってしまっている、という状態のことを戒めておられます。そうではなく、人に命と体を与えてくださっている天の父に心を向けるようにと言っておられるのです。


  2.信仰の薄い者たちよ

 主イエスは、このお話をユダヤの人々に語っておられます。ユダヤの人々は、昔から自分たちの先祖に神が語られて、民を導いて来られたことを聞いてきた人たちです。今私たちが手にしている旧約聖書は、ユダヤの人々に対する神の恵みと祝福、それと共に厳しい戒めと裁きが記されています。聖書に自分たちの先祖のことが書かれているのです。ですから、神のことについて大変自分たちと誓い存在として受け止めている人たちです。そのような人々に対して、主イエスは「信仰の薄い者たちよ」と言われました。信仰が薄い、という言葉は原文のギリシア語で「オリゴピストス」といいます。オリゴはオリゴ糖という言葉がありますが、少ないという意味です。オリゴ糖は糖の結合が少ないのだそうです。信仰はないのではないが、少ない、薄い、と言われるのです。

 神様のことが分かっているつもりで生きているが、その神である天の父に対する信仰は薄いではないか、とイエスは言われます。神を知っている、自分たちは神の民だ、と思って生きているユダヤの人々からすると、随分手厳しい指摘です。ユダヤの人々は、神が天地を創造されたことは創世記によって知っているはずですが、その神が、自分たちの父であられる、という信仰が弱かったと言わざるを得ないのでした。旧約聖書の中でも、神を父と呼ぶ所はあまり多くはありません(申命記32章6節、イザヤ書63章16節、エレミヤ書31章19節等10ヶ所ほど)。十戒の戒めでは、神の御名をみだりにとなえてはならない、と命じられていますので、神を親しく父よ、と呼ぶという感じにはなかなかならなかったのかもしれません。しかしイエスはそうではなく、あなたがたの天の父なのだと言って、親しく呼びかけられるお方として神を天の父としてお示しになられたのでした。

 日本人の場合どうでしょうか。少なくとも、聖書に示されている天地を造られた神を父と呼ぶ、ということについては全く縁遠い所で生きているように思います。しかし、日本人であっても、この世に生きている以上同じ人間として、神を天の父と仰ぐことができます。イエスの教えは、日本人にはなじみの薄い、遠い国での神についての教えだ、などと言うことは決してありません。大地と空と海、様々な動植物の中で生き、暮らしている人間にとって、いつの時代のどこに住む人でも神は天の父として仰ぐことができます。私たちはユダヤの人々のように、信仰の薄い者たちよ、とは言われないでしょう。むしろこの神を天の父として知りなさい、と主イエスに言われるでしょう。


  3.まず求めるべきもの

 主イエスは、神を知っているはずのユダヤの人々に対して、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかといって思い悩んでいるとしたら、それは神を知らないで生きて来た異邦人と同じだ、とまた厳しく言われます。異邦人はそれらを切に求めている。それらが必要であることをご存じで、私たちのために配慮し、それらを与えてくださる神の父としての御心を知らないのと同じだと。

 日本人は宗教意識が弱いと言われているようです。もちろん熱心にある宗教を信じている人はそれなりにいるでしょうが、多くの人が無宗教の内に生きているのではないでしょうか。それでも、何となく神様がいる、死んだら天国があって、死んだ人たちがそこに行く、と考えている人は多いかもしれません。そういう者にも、イエス・キリストは天の父である神がおられるのだ、と言っておられるのです。主イエスは、何となく神様と言われる方がいるのではないか、という漠然とした神についての考えではなく、はっきりとあなたがたの天の父がおられるのだ、と今日の日本に生きる私たちにも力強く語っておられます。

 だから、この聖書の舞台から遠く離れているような日本のしかも21世紀という現代に生きている私たちにも、時代と場所を超えて主イエスは語りかけておられます。私たちがこの世で生きてゆくために衣食住が必要なことは、天の父である神はよくご存じです。衣食住の問題が第一ではなく、他に求めるべきことがある、と言っておられます。

 しかし、この世で必要な衣食住については、確かに私たちは働いて給料を得て、そしてお金を払って買わなければなりません。それはどうしてもやらなければならないのではないか、と誰でも思うことでしょう。働かなければならないのは確かです。何を食べようか、何を着ようか、どこに住んでどんな家に住もうか、どんな車に乗ろうか。それは目の前のこととして決めなければなりませんし、考えてやって行かなければなりません。しかし、人生の目的はそこにあるのではない、というのです。

 キリストは、まず求めるべきものは神の国と神の義だ、と言われます。今日の私たちには、「神の国と神の義」とは何のことなのか、聞いただけでは分かりません。これは一言で言うなら、神その方を求めなさいということです。もう少し説明すると、神の力によって自分を治めていただくことと、神に喜ばれる者となることです。それにはどうしたら良いかというと神が遣わされた神の御子、キリストの言葉を聞くことです。

 このキリストを遣わされた神こそ、私たちのために天におられる父であられます。父ですから、人間の親のように育て養い、配慮し、教え導いてくださいます。その神を求めるなら、この世の生活に必要なものは加えて与えてくださいます。働かなくても天から食糧が降ってくるわけではありません。働いてその成果を得て、生活することができるということです。しかし働きさえすれば絶対に食べていけるというわけでもありません。いくら会社が業績を上げても、作物が全く育たない気候になり、家畜も全く育たなくなったら、お金ばかりどれだけあっても何も食べることができません。しかし天の父である神は、人に、特に御自身を信じより頼む人に、必要なものを備えてくださいます。

 天の父は、悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださいます(5章45節)。この神にゆだねて生きることこそ人の幸いである、と救い主イエス・キリストは言われます。実は人間はもともと神に造られてこの世に生きるようになったのですが、神に背いて罪を犯し、自分勝手に歩み始めました。しかし神はその人間を御自分のもとへと導き返し、神の子供とするために、救い主としてキリストを遣わされたのです。そして十字架に架かって私たちの罪を償い、信じる者に神の子供となる資格を与えてくださったのです。

 この世に生きている限りは、天の父を信じて生きる者にも苦労はなおあります。しかし、明日のことまで思い悩む必要はありません。明日のことは明日自らが思い悩む。なんだ、明日になればやっぱり思い悩むのか、と思われるでしょうか。いや、明日は明日で父である神が養ってくださる、導いてくださる、ということです。だから今日のことに集中してなすべきことをしなさい、という意味です。その日の苦労は、その日の分として天の父が分け与えておられます。それも信じて与えられた働きをする。自分たちの体のこと、命のことを誰よりも心にかけてくださっている天の父にゆだねて生きる道を共に歩み始めましょう。そこにこそ、人の生きる道があります。

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