「魂を幼な子のように」 2022.5.1
ルカによる福音書 18章15~17節

尾張旭教会では、年に2回ほど、5月と11月に「尾張旭教会だより」を発行しています。それぞれの月の毎週の説教題を掲載して案内をしています。今月も発行しましたので、その案内の通りにお話をしてゆきます。今日は、もうすぐ子どもの日、ということもありますので、子どもに関係する聖書箇所からお話ししようと思いました。と言っても、子育てとか、教育についてのお話ではありません。先ほど朗読していただいたように、主イエス・キリストのもとに連れて来られた子どもたちに対して、主イエスがどのように接しておられたのか、そしてそこから何を教えてくださったのかを今日、学ぼうとしております。


  1. 主イエスと子どもたち

 私たちはこの世で、いろいろな関係の中に生きています。親と子、夫婦、兄弟、親戚、友人知人、近所同士、仕事の同僚、同級生、先生と生徒、上司と部下、王と臣下など様々です。そこには上下関係もあれば同等の関係もあり、金銭の契約関係もあります。今日の朗読箇所は、この聖書で語っておられる神、また主イエス・キリストと私たちとの関係はどのようなものなのかを示しております。

 主イエスのもとに子供たちが連れられてきたときのことです。弟子たちは、イエスは忙しいのに、子どもたちが邪魔をすることになるから人々を叱ったのでしょう。しかしイエスは子どもたちを呼び寄せて言われました。「子どもたちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」と。子どもたちには、いろいろな理屈を並べても分かるはずがありません。特にここでは乳飲み子まで入っていましたから、なおさらです。そもそも、主イエスは福音を宣べ伝え始められた時に、神の国(天の国)は近づいたから、悔い改めて福音を信じなさい、とお命じになりました。救い主として神の御子イエス・キリストがこの世に来てくださったことそれ自体が福音、つまり私たちに対する神からの良き知らせでした。乳飲み子はその意味など分からないとしても、親が主イエスのものに連れてくることによって、ただ主イエスのそばによってきます。そしてそこで共にいることができる。主イエスと共にいることに何のためらいも疑問ももたずにいます。だから、まず、そのように、子どもたちがイエスのもとに来て、主イエスと共にいることを妨げてはならないのです。

 この後、主イエスは、子供のように神の国を受け入れる者でなければ決してそこに入れない、と言われます。ですが、主イエスは子供のようになる大人について教えたいので、ただ子どもを引き合いに出しただけではなく、子供も、親と共にイエスのもとに来ることにより、神の国の一員とみなしていただけることを教えているのです。子供は主イエスのことを知的に理解できないから、神の国に入れない、などということはありません。


  2.子どものように神の国を受け入れる

 子どもたちが、福音の内容を知的に大人たちのように理解できていないとしても、子どもたちは主イエスの福音にあずかり、神の国の一員としてそこにいることができる、ということと共に、神の国はその子供たちのように神の国を受け入れる人たちのものでもあります。また、そうでなければ神の国には入れない、と主イエスは言われます。

 子どものように、と言われています。子どものように、とはどのようなことでしょうか。子どもは親の近くにいれば、安心して遊びに夢中になれます。親の姿が見えなくなったことに気づくと、親を探そうとするでしょう。また、親に対して、なぜこの人は自分を守ってくれているのだろうか、などと考える子どもはいません。単純に全面的に親に信頼しています。それは理屈ではありません。他の大人と比べて、この人たちなら自分をよりよく守ってくれると判断したから親についてくるわけでもありません。いつもそばにいて守り、養っている親はそこにいて当たり前だという環境でずっと生きてきたからです。子どもは自分で意識しているわけではないけれども無条件の信頼とでもいえるものを親に対して持っているわけです。幼児は、親が自分を見捨てるかも知れない、などとは思わないでしょう。

 主イエスは、「子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない、と言われました。今度は、子どもではない人々についてです。子どもがただ単純に親に信頼し、疑うことなど全くしないで自分をゆだねているように、天の父なる神にゆだねて神の御手の内にいることを当たり前のように受け入れている。そのような人でなければ神の国に入ることはできない、と言われたのでした。


  3.魂を幼な子のように

 今日のお話の題は、「魂を幼な子のように」です。この「魂を」という言葉は、詩編131編2節から取りました。「わたしは魂を沈黙させます。わたしは魂を、幼子のように、母の胸にいる幼子のようにします」とある通りです。

 ところでイエス・キリストの使徒パウロは、語っています。「物の判断については子供となってはいけません。悪事については幼子となり、物の判断については大人になってください」と(Ⅰコリント14章20節)。子供のように神の国を受け入れる者でなければ、誰も決してそこに入ることはできません。しかしそれは、大人のある人が子どものように無邪気になって、理性を働かせずに何でも人の言うままに信じてしまうというようなこととは違う、ということがわかります。物の判断については、理性や経験や知識を働かせて大人として判断するべきなのです。その上で主への信頼という面においては、子供のように一切をゆだねて疑わない、ということです。

 だれでも、子どもの頃は年齢が低ければ低いほど自由に過ごしてきたのではないでしょうか。そして自分で判断することはせずに親や先生の言うとおりに動いて従ってきたのです。しかし段々自我と言われるものが育ってくると、なぜ従わなければいけないのか、他のことをやってはだめなのか、などと考え、いろいろと試してみたくなります。そして大人になってくれば、動く前に考えたりして自分の行動を制限し、初めから何もしないということすらあり得ます。理性が邪魔をして自由奔放には動けなくなります。一般的に大人になれば大抵の人はそうなることでしょう。でも、それと神の国を子どものように受け入れる、ということは決して矛盾するわけではないのです。

 信仰とは、神から与えられるものであって、人の心の内に神の霊である聖霊が働くことによって神への信仰が生じ、神を信じて受け入れ、その神が世に送られたイエス・キリストを、神の御子、救い主と信じるようになります。同じようにイエス・キリストの話を聖書から聞いても、ある人は受け入れ、ある人は決して受け入れないということが起こります。信じた人が科学者であって、大変な学問的知識があり、常識を弁えた社会人でもあり、理性的な人である、そして主イエスの十字架の死と復活を心から信じてクリスチャンとして生きている、ということがありうるのです。神がその御子イエスを通してなさったことを信じて受け入れ、そして神の導きと助けがあることを信じ、たとえ困難なことが起こってくるとしても主への信頼を持ち続けている。そのような人こそ、子どものように神の国を受け入れている人です。逆に、そうでなければ神の国に入ることはできないのです。

 それは、決して信仰が無鉄砲な向こう見ずなことであるとか、何も考えることをせずにただむやみに信じているとか、そういうことではありません。初めはいろいろ考えて聖書に書いていることが本当だろうかとあれこれ考えることがあるとしても、ある時点でイエスがなさったこと、語られたことに対する信頼が芽生えてきます。そしてこの方こそ本当に真理を語る方だ、私を救ってくださる方だ、という信仰へと神が導いてくださるのです。その時には、子どもが親に対する全幅の信頼を置いているように、神と主イエスに対する全幅の信頼を置いている自分を見いだすでしょう。そして主イエスという羊飼いのもとにいることが真に幸いなのだという、理屈を超えた確信が与えられます。

 そこに至るまでに時間のかかる人もいるでしょうし、そうでない人もいるでしょう。しかしその信仰に至らせていただいた者は、この世で何が起ころうとも、また、自分の理解や知識を超えていることがあるとしても、すべてをご存じの主を信じ続けるのです。信仰は決して見せかけのものではなく、単なる教養や、よそ行きの衣装ではないからです。自分は神の国を子供のように受け入れているのか。それは、人が何を言おうが、自分の身に何が起ころうが、羊飼いの主イエスについてゆく。なぜなら、主イエスは私のために十字架にかかり死んでくださった。そして死に打ち勝って復活してくださったからだ。この思いが自分の中にあるかどうか、それによってわかります。

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