「神からの誉れを求めよ」 2022.4.3
ヨハネによる福音書12章36b~43節
主なる神は、御自身のことを様々な仕方でこの世に現して来られました。すべてのものを創造された神の全能の御力は、被造物である自然界のいろいろなものによって現わされています。しかし、神の天地創造という信仰を受け入れない人たちは、この世界にあるものが神の造られたものだとは認めません。また、神はその御言葉を多くの預言者たちによってお語りになりましたが、それでも多くの人々はその御言葉を受け入れようとしません。そしてついには、神の御子であるイエス・キリストがこの世に人としてお生まれになって姿を現し、神の言葉を語り、更には奇跡を行われましたが、それでも信じない人は信じませんでした。目の前でイエス・キリストが奇跡を行っても、不信仰を貫く人は多かったのです。
1.不信仰の原因
それはいったいなぜなのでしょうか。主イエスが多くのしるしを人々の目の前で行っても人々が信じなかった理由を、この福音書を書いたヨハネが記しています。今日の朗読箇所は、イエス御自身の御言葉はなく、福音書記者のヨハネは、旧約聖書の預言者イザヤの言葉を引いてこのことを説き明かしています。
ヨハネが初めに挙げているイザヤの預言は、53章1節です。ここでは、神によって立てられた神の僕が、苦しみを受け、そして死ぬことを描き出しているのですが、この僕の姿があまりにも惨めなものであり、その上、今まで誰も聞いた事も見たこともないようなことがこの僕を通して起こったので、人々も王たちも彼を見て口を閉ざしてしまう、ということをイザヤは語っておりました。そしてここで描き出されている神のしもべこそ、今ヨハネが書いているイエス・キリストでした。イザヤは、このことを人々の中で誰が信じることができようかと語ります。
さらにイザヤは、人々が信じることのできなかった理由まで述べているとヨハネは記します。2番目の引用は、イザヤ書6章10節からのものです。これは、人がなぜ神を信じないかということの究極の理由を述べている預言です。人の心が頑なになるのは、神御自身がそのようになさっているからだ、というのです。これには少し説明が必要です。人を創造し命を与えておられるのはすべてを造られた主なる神です。その神の前に、すべての人間は罪を犯しています。その意味では、誰一人神の御心に適う者はいないのであり、生まれながらに神に対しては頑なな心を持っていて、自分の力で神に立ち帰ることができません。
しかし、この世の中には神を信じる人は、たとえ少数でもいます。それは、神ご自身がその人たちの心に働きかけ、神の御業を認め、神に立ち帰って信じるように導かれるからです。その働きかけがない限り、人は神に立ち帰ることができません。そのことをこのイザヤの預言は表しているのです。不信仰の原因は、実は神に背いて堕落した人間にあるのですが、神が働きかけてくださらない限り神に立ち帰ることはできないのでこのように言われているのです。
2.預言者はイエスの栄光を見た
この預言をしたイザヤは、イエスの栄光を見たのでした。この2つの箇所でイザヤが預言したことは、イエス・キリストについて語ったのです。イエスがどれほど多くの奇跡を人々の前で行おうと、人々が信じなかったことをイザヤははるか昔に語っていたのでした。そして、先ほど、すべての人は生まれながらに神に背いて罪を犯していると言ったのですが、イザヤが語っているこのイエスその方は、唯一の例外です。イエスは人々が信じるべき対象であって、イエスには罪はありません。
こうして、イエスがこの世にお生まれになるはるか昔、紀元前8世紀の預言者イザヤが救い主イエス・キリストのことを予め語っておりました。これが聖書の教えの非常に優れた驚くべき点です。何百年隔たっていようと、イエス・キリストを巡る出来事は、一人の神が御計画なさったことであって、そこには一貫した、人々を救おうとする神の御計画があります。そのために定められた時に神はその独り子イエスをこの世に送られました。そしてイエスによって罪ある人間を救おうとされたのですが、生まれながらの人間は自力で信じることができません。ですから、イエスの御業を見て信仰に至る人は、その背後に神の御手の働きがあり、信じるように導いていただいたのです。ですから、この後にヨハネが記しているように、議員の中にもイエスを信じる者はいたのでした。
3.神からの誉れを求める
ところが、イエスを信じるものは多かった、と言われてはいるのですが、その人々の信仰はまだ浅いものでした。議員というのはユダヤの国において、今の日本で言う国会議員のような立場にある人たちであり、社会的地位の高い人たちでした。ファリサイ派の人たちはイエスを信じる者を会堂から追放すると決めていたので、彼らをはばかってイエスに対する信仰を公には言い表さなかったのでした。
ということは、彼らはイエスを信じた、とヨハネは記してはいるのですが、その信仰は浅いもの、薄いものであったと言わざるを得ません。イエスの弟子たちでさえ、目の前にイエスを見ており、その様々な御業を目の当りにしていたにも拘らず、イエスにすっかりより頼むということがなかなかできなかったのでした。それで信仰はどこに行ったのだ、どうして信仰が薄いのだ、果てはどうして信仰がないのだ、とまで叱責されたことがあるほどでした。ですから、人は一見信仰があるように見えることもありますし、やがて強い信仰に至る人も、最初は頼りない信仰で、人の目を気にして、はっきりと信仰を表明できない場合もあるということなのです。 その薄い信仰のままでは、神よりも人間の影響を受けやすくなってしまいます。議員たちは、特に世間体を気にしていたことでしょう。人々の評判を常に気にしていたでしょう。およそ国の中で議員という名の付く立場にある人は人々の評判を気にするはずです。そして人々から誉れを得たいと願います。人々から見放されれば議員としての立場を保てなくなるからです。そのことは、別に国会議員でもない普通の市民であっても見たようなものです。
私たちはこの世では人々のつながりの中で生きており、そのつながりが経たれることを恐れたりします。もし自分がイエス・キリストを信じるクリスチャンであることが周りの人に知られたら困るということがあるでしょうか。それが自分の仕事上、不利になるとしたらどうでしょうか。取引先の人が熱心な他の宗教の信者で、キリスト教を毛嫌いしている人だったらどうでしょうか。キリストへの信仰を伏せておく方が仕事を有利に進められるかもしれません。しかしそれでは、ここに出てくる議員たちと何ら変わりはありません。では、私たちはどうするべきでしょうか。
まずすべきことは、私たちの中には、ここに書かれているように、神からの誉れよりも、人からの誉れを好む、という性質がもともとあることを認めることです。そして、それこそ神の前にある罪である、と認めることです。そして、それは神を悲しませるものであり、その罪を赦し、取り除くためにこそ救い主イエス・キリストが来てくださったのだと信じることです。そのために十字架にまでかかってくださったイエス・キリストを仰ぐことです。その神を脇へ押しやって、人からの誉れを求めることなどできるでしょうか。たとえ人からの誉れを受けたとしても、それは一時的なものに過ぎません。人は一時ほめそやすかも知れませんが、時が経つと忘れ去ります。 それに対して、神からの誉れを求める人は、神に喜ばれることを求めます。人からの誉れや自分の誉れを求めるのではなく、神があがめられることを、つまり神の栄光を求めます。人の目をはばかるよりも、神の御旨に適うことを求めます。そのような者へと造り変えてくださる主の恵みに信頼して、私たちは主イエスの御名を公に言い表しましょう。議員たちは会堂からの追放を恐れて、イエスに対する信仰をはっきりと言い表しませんでした。しかし主イエスは言われました。「父が私にお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない」(ヨハネによる福音書6章37節)。私たちもこの主のもとに行くのです。
1.不信仰の原因
それはいったいなぜなのでしょうか。主イエスが多くのしるしを人々の目の前で行っても人々が信じなかった理由を、この福音書を書いたヨハネが記しています。今日の朗読箇所は、イエス御自身の御言葉はなく、福音書記者のヨハネは、旧約聖書の預言者イザヤの言葉を引いてこのことを説き明かしています。
ヨハネが初めに挙げているイザヤの預言は、53章1節です。ここでは、神によって立てられた神の僕が、苦しみを受け、そして死ぬことを描き出しているのですが、この僕の姿があまりにも惨めなものであり、その上、今まで誰も聞いた事も見たこともないようなことがこの僕を通して起こったので、人々も王たちも彼を見て口を閉ざしてしまう、ということをイザヤは語っておりました。そしてここで描き出されている神のしもべこそ、今ヨハネが書いているイエス・キリストでした。イザヤは、このことを人々の中で誰が信じることができようかと語ります。
さらにイザヤは、人々が信じることのできなかった理由まで述べているとヨハネは記します。2番目の引用は、イザヤ書6章10節からのものです。これは、人がなぜ神を信じないかということの究極の理由を述べている預言です。人の心が頑なになるのは、神御自身がそのようになさっているからだ、というのです。これには少し説明が必要です。人を創造し命を与えておられるのはすべてを造られた主なる神です。その神の前に、すべての人間は罪を犯しています。その意味では、誰一人神の御心に適う者はいないのであり、生まれながらに神に対しては頑なな心を持っていて、自分の力で神に立ち帰ることができません。
しかし、この世の中には神を信じる人は、たとえ少数でもいます。それは、神ご自身がその人たちの心に働きかけ、神の御業を認め、神に立ち帰って信じるように導かれるからです。その働きかけがない限り、人は神に立ち帰ることができません。そのことをこのイザヤの預言は表しているのです。不信仰の原因は、実は神に背いて堕落した人間にあるのですが、神が働きかけてくださらない限り神に立ち帰ることはできないのでこのように言われているのです。
2.預言者はイエスの栄光を見た
この預言をしたイザヤは、イエスの栄光を見たのでした。この2つの箇所でイザヤが預言したことは、イエス・キリストについて語ったのです。イエスがどれほど多くの奇跡を人々の前で行おうと、人々が信じなかったことをイザヤははるか昔に語っていたのでした。そして、先ほど、すべての人は生まれながらに神に背いて罪を犯していると言ったのですが、イザヤが語っているこのイエスその方は、唯一の例外です。イエスは人々が信じるべき対象であって、イエスには罪はありません。
こうして、イエスがこの世にお生まれになるはるか昔、紀元前8世紀の預言者イザヤが救い主イエス・キリストのことを予め語っておりました。これが聖書の教えの非常に優れた驚くべき点です。何百年隔たっていようと、イエス・キリストを巡る出来事は、一人の神が御計画なさったことであって、そこには一貫した、人々を救おうとする神の御計画があります。そのために定められた時に神はその独り子イエスをこの世に送られました。そしてイエスによって罪ある人間を救おうとされたのですが、生まれながらの人間は自力で信じることができません。ですから、イエスの御業を見て信仰に至る人は、その背後に神の御手の働きがあり、信じるように導いていただいたのです。ですから、この後にヨハネが記しているように、議員の中にもイエスを信じる者はいたのでした。
3.神からの誉れを求める
ところが、イエスを信じるものは多かった、と言われてはいるのですが、その人々の信仰はまだ浅いものでした。議員というのはユダヤの国において、今の日本で言う国会議員のような立場にある人たちであり、社会的地位の高い人たちでした。ファリサイ派の人たちはイエスを信じる者を会堂から追放すると決めていたので、彼らをはばかってイエスに対する信仰を公には言い表さなかったのでした。
ということは、彼らはイエスを信じた、とヨハネは記してはいるのですが、その信仰は浅いもの、薄いものであったと言わざるを得ません。イエスの弟子たちでさえ、目の前にイエスを見ており、その様々な御業を目の当りにしていたにも拘らず、イエスにすっかりより頼むということがなかなかできなかったのでした。それで信仰はどこに行ったのだ、どうして信仰が薄いのだ、果てはどうして信仰がないのだ、とまで叱責されたことがあるほどでした。ですから、人は一見信仰があるように見えることもありますし、やがて強い信仰に至る人も、最初は頼りない信仰で、人の目を気にして、はっきりと信仰を表明できない場合もあるということなのです。 その薄い信仰のままでは、神よりも人間の影響を受けやすくなってしまいます。議員たちは、特に世間体を気にしていたことでしょう。人々の評判を常に気にしていたでしょう。およそ国の中で議員という名の付く立場にある人は人々の評判を気にするはずです。そして人々から誉れを得たいと願います。人々から見放されれば議員としての立場を保てなくなるからです。そのことは、別に国会議員でもない普通の市民であっても見たようなものです。
私たちはこの世では人々のつながりの中で生きており、そのつながりが経たれることを恐れたりします。もし自分がイエス・キリストを信じるクリスチャンであることが周りの人に知られたら困るということがあるでしょうか。それが自分の仕事上、不利になるとしたらどうでしょうか。取引先の人が熱心な他の宗教の信者で、キリスト教を毛嫌いしている人だったらどうでしょうか。キリストへの信仰を伏せておく方が仕事を有利に進められるかもしれません。しかしそれでは、ここに出てくる議員たちと何ら変わりはありません。では、私たちはどうするべきでしょうか。
まずすべきことは、私たちの中には、ここに書かれているように、神からの誉れよりも、人からの誉れを好む、という性質がもともとあることを認めることです。そして、それこそ神の前にある罪である、と認めることです。そして、それは神を悲しませるものであり、その罪を赦し、取り除くためにこそ救い主イエス・キリストが来てくださったのだと信じることです。そのために十字架にまでかかってくださったイエス・キリストを仰ぐことです。その神を脇へ押しやって、人からの誉れを求めることなどできるでしょうか。たとえ人からの誉れを受けたとしても、それは一時的なものに過ぎません。人は一時ほめそやすかも知れませんが、時が経つと忘れ去ります。 それに対して、神からの誉れを求める人は、神に喜ばれることを求めます。人からの誉れや自分の誉れを求めるのではなく、神があがめられることを、つまり神の栄光を求めます。人の目をはばかるよりも、神の御旨に適うことを求めます。そのような者へと造り変えてくださる主の恵みに信頼して、私たちは主イエスの御名を公に言い表しましょう。議員たちは会堂からの追放を恐れて、イエスに対する信仰をはっきりと言い表しませんでした。しかし主イエスは言われました。「父が私にお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない」(ヨハネによる福音書6章37節)。私たちもこの主のもとに行くのです。
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