「キリストは復活した」イースター2022.4.17
 コリントの信徒への手紙一 15章1~11節

 主イエス・キリストを救い主と信じるキリスト教会では、キリストの復活を記念する日をイースターとして記念し続けてきました。歴史的な経緯はともかく、古代の教会は、春分の日の後に来る最初の満月の次の日曜日をその年のイースターとすると決めて、全世界で救い主キリストの復活を祝ってきました。日本でも最近では、一般にもイースターが知られてきているようです。私たちクリスチャンにとって、主イエスの復活は、大事な記念すべき祝いの時です。今日は、キリストは復活した、という非常に素朴な題を付けました。この題に対しては、だからどうしたのだ、それが現代に生きる我々とどんな関係があるのだ、それにどれほどの意味があるのか、という問いを想定することができます。それについて主なる神が聖書を通して教えておられることを聞くときに、私たちはそれらの問いから出てくる大事な教えを知ることになります。


  1.生活のより所となる福音

 この手紙を書いた使徒パウロは、生粋のユダヤ人であり、厳格なファリサイ派という一つの派に属していて旧約聖書の律法を固く守って生きている人でした。そして一時は熱心にキリスト教を迫害していました。ところが復活して天に昇られた主イエスが、迫害者であるパウロに天から語りかけ、パウロを回心させて180度方向転換をさせ、新たにキリストの福音の宣教者としてお立てになりました。そして初代教会において他の誰にもまさるような多くの働きをし、各地に教会を築いてゆきました。その一端が書かれているのが8、9節です。

 パウロは、自分がコリントの教会の信徒たちに告げ知らせた福音を、ここで改めて知らせると言っています。14章までで彼は教会の様々な問題について、質問に答える仕方で語ってきました。直前の14章の終りの所では、集会の秩序について教えていました。そのように教会の中に起こって来る様々な問題を前にして、一つ一つ彼は具体的に指示を与え、なすべきことを教え示してきたのですが、ここからは、キリスト教信仰にとって最も大切なことを語り始めます。いろいろな問題に、正しい信仰に基づく判断を下して、問題を解決してゆくこと自体は良いことなのですが、時に、最も大切なことは何であるかを立ち止まって考えてみることは有益であり、有益どころか、ぜひとも必要です。なぜなら、福音そのものは、信じた者にとっては、生活の拠り所となるからです。生活の拠り所、というと、何となくこの世の生活を成り立たせている経済の問題とか、衣食住の問題のように聞こえなくもありませんが、ここで言っているのは、そういう次元のものではなくて、私たちがこの世で生きていることそのもの、人生そのものと言えるものです。ここの翻訳は、拠り所としている福音、その福音によって立っている、それによって立ってきたあの福音、それに基づいて生活しているあの福音、というように訳されています。それがなければこの世で立ち続けられないほどの重要なものなのです。経済的に余裕があれば生活はそれなりにできますが、それ以上のもの、神の前で救われるかどうかというものです。


  2.最も大切なこと

 ところが、その「福音」として告げ知らされ、信じられていることが、ここでパウロが上げようとしている最も大切なことを正しく告げ知らせているかどうか。これが重要な問題です。何が伝えられているか、その内容を再確認させようとしてパウロは語り始めます。その理由は、コリントの教会内に、キリストの復活を信じない人たちがいて、死者の復活などない、と言っているからでした。このことを抜きにしたキリスト信仰などあり得ないのです。

 パウロは、大変厳しくコリントの信徒たちに語っています。これから語ろうとしている最も大切なことをしっかり守っていないなら、救いに与れないというのですから。いろいろ問題のあったコリント教会に対してパウロがこれだけ厳しく言うのは、ある面、コリント教会を奮起させたいということもあったでしょう。そして、パウロは自分のことに重ねて、神の恵みによって自分が今日を得ていることを示し、その神の恵みは決して無駄にならなかったと述べるのです。

 パウロがここで最も大切なこととして挙げているのは、
①キリストが私たちの罪のために死んだこと、
②葬られたこと、
③3日目に復活したこと、
④弟子たちに現れたことです。
 そしてそれらはみな、聖書に書いてある通りになったのでした。なぜそれらのことが最も大切なのでしょうか。はじめの2つはキリストの死に関わることですが、その理由は私たちの罪のため、つまり私たちの罪の償いのためであり、そのために確かに死んだということ。後の2つは十字架の死後3日目に復活して弟子たちに現れたことです。私たちの罪の償いのためにキリストが死なれたのは、確かな事実であり、それによってだけ、私たちの罪が赦されて救いにあずかれるから、だから最も大切なことなのです。このためにキリスト教会はこの世に存在しており、そのためにあるのであって、他の目的のためではないのです。


  3.キリストの復活と私たち

 初めに話しましたが、「キリストが復活した」という題に対して、それが現代の我々とどんな関係があるのだ、それにどれほどの意味があるのか、という問いを想定することができると言いました。現代人として、一度死んだ人がよみがえるなどということは、それこそ最も信じ難いことです。しかし聖書が示すキリストの福音の最も大切なことがそこにある、というのです。人が最も信じにくいことを最も大切だというのがキリスト教の告げ知らせていることです。

 それよりも、人は皆神の前に罪を犯している罪人だから、それを弁えて、皆が悔い改めてそして互いに受け入れてお互いの過ちは赦し、平和にこの世で暮らすこと、キリストの犠牲的精神に倣って、人のために奉仕し、皆が赦し合い助け合って、この社会をより良いものにして貧しい人がいなくなり、平等で暮らし易い世の中を築くこと、これが最も大切なことだ、としたらどうでしょうか。もしかするともっと多くの人がキリスト教に関心を持ち、もっと信じ易くなるかも知れません。信徒ももっと増えるかも知れません。しかしそれでは、神がこの世にもたらされた救いの福音を薄めてしまい、更には真の福音ではなくしてしまうことになります。それでは人の罪を償えず、神の前の罪は永久に残ります。ただこの世の中を少しでも良くすることを最も大切なこととしてキリスト教会が存在しているなら、それは無駄になり何の益ももたらしません。

 今起こっている戦争も、お互いに譲り合ってゆけば必ず解決できるのだ、というような程度の話ではないということです。キリストが私たちの罪のために死んだ、そして復活した。そうまでしていただかなければ取り除かれないのが人間の罪なのだ、ということです。それ程深刻な罪が人間の中にあって、それ故、この世界には様々な悪がはびこるのだというのが聖書の示す真実です。そして神は、そのような人間の罪を赦して取り除くために、福音宣教によって一人一人の心の内に復活したキリストを示し、そのキリストを信じた一人一人が罪の赦しをいただいて救いに入れていただくことが最も大切なことなのです。個人の救いよりも世界の平和が優先されるべきだ、という主張があるとしましょう。しかし、キリストによる一人一人の罪の赦しの道が開かれていないとしたら、いくら世界平和を唱えても、何も変わらず、人は結局誰一人救われません。

 この15章では、パウロは何度も「無駄になるかならないか」という点について語っています。キリストの復活がなければ宣教も信仰も無駄である。福音を正しく信じているのでなければ、信じているように見えても無駄になってしまう、と強調します(2節、14節)。最も大切なことを大切なこととしないでいたら、この世でキリストを信じているように見えても、その信仰は無駄になってしまいます。何とつまらない、無益なことでしょうか。つまりキリストの復活などどうでもよい、皆が平和に暮らせればそれが善いではないか、と言っているだけだとしたら、そしてもしそれが真実で、実際キリストの復活などなかったのだ、としたら、私たちはすべての人の中で最も惨めな者なのです(19節)。

 しかし、キリストの私たちのための死と復活を信じているなら、神の恵みは無駄になりません(10節)。そしてそのキリストに結ばれているなら、この世でどれほど苦労しようとも、それは決して無駄にはならないのです(58節)。なぜなら、キリストは確かに復活されました。多くの目撃証人がいます。目撃した人は皆信じました。そして今日の私たちは肉眼での目撃証人ではないのですが、神の恵みによって心の内に復活のキリストを示されて信仰が与えられ、信仰によるキリストの復活の証人とされます。現代人であれば特に、最も信じがたいことを堂々と信じている、と言える信仰が与えられます。そしてそれがこの世で生きていることのよりどころである。キリストが復活したように、信じる者も復活の恵みに与らせていただけます。キリストの復活は、罪の結果もたらされた「死」に打ち勝ったしるしであり、信じる者にも与えられる勝利で。キリストの復活はその確かなしるしです。

 イースターは、そのキリストの復活を確かな神の恵みとして受け止め信じ、祝い、記念する時です。そしてそれによって私たちが生かされていることを感謝する時です。真の平和はそこからのみ始まり、広がっていきます。私たちが人と平和に暮らせるとしたら、私たちのためのキリストの十字架の死と、復活があるからです。しかしまた、キリストの復活を信じるがゆえに、信じない人から受け入れられないことがあります。それでも、この福音にこそ依り所、つまり私たちが生きることの確かな根拠があります。改めて、最も大切なことを受け入れ、信じ、決して無駄にはならない信仰の道を共に歩みましょう。キリストは確かに復活して私たちの罪の赦しの道を開いてくださったのです。

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