「十字架につく救い主」 2022.4.10
マルコによる福音書 15章16~32節

 この世での人間の生活、あるいは人生そのものと言ってもよいですが、それには苦しみが常について回ります。その苦しみと言っても、肉体の苦しみ、精神の苦しみ、その両方による苦しみ、良心の呵責による苦しみ、等がありますが、人は体に痛みを覚えなくても、大変苦しむことがあります。また、肉体とか精神の苦しみと言っても、それが病気によるものか、怪我によるものか、或いは自分の責任で苦しんでいるのか、などでいろいろと違ってきます。しかしとにかくこの世には苦しみが満ちています。そしてこの苦しみの満ちる世に来られた救い主イエス・キリストも苦しまれました。その苦しみは、人類の歴史の中で特別な苦しみとして書かれ、記念されてきました。今日、また受難週を迎えて、私たちは聖書の示す救い主イエス・キリストの十字架の死を前にして神の御心を聞きとりたいと願っています。


  1.救い主の身に起こったこと

 マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、といった福音書記者たちが記したイエス・キリストの苦難についての記事は、世界中で読まれてきました。そして、毎年、イエス・キリストの復活を祝い記念するイースターの前には、キリストが苦しみを受けたことを覚える受難週として受け止めて世界中の主イエスを信じる人々が過ごしてきたのでした。なぜイエスという方は十字架につけられて非常に残酷な刑罰を受けなければならなかったのでしょうか。これは多くの人々が考え、議論してきたことですが、私たちはあくまでも神が私たちに与えてくださった聖書の記述を通してそれを聞きとりたいと願っています。また、そうしなければ、私たちは聖書の教える真理に達することはできません。人が考え出したイエスの十字架の死の意味について学ぶのではなく、天の父なる神がどのようにお考えになっていたのかを知らねばなりません。そうでなければ、イエス・キリストの十字架の死の意味を悟ることはできないからです。

 救い主イエス・キリストは、ユダヤ人の指導者たちの妬みを買っており、彼らはイエスを殺そうと企て、相談の上でイエスを縛って引いてゆき、ローマ総督のピラトに引き渡しました。ピラトは冷静にこの出来事を見ており、人々がイエスを引き渡したのは妬みのためと分かっていました。彼はユダヤ人の宗教上の問題だと見抜いていましたが、扇動された群衆の声に逆らうことを好まず、群衆を満足させようとしてイエスを十字架につけるために引き渡したのでした。

 そしてイエスはローマの兵隊たちに侮辱されます。紫の服は王になぞらえて着せられたものです。王のしるしである冠は茨で作られました。ここに描かれた兵士たちの姿は実に人間の醜い様子を現していると言えないでしょうか。人が人を馬鹿にして弄んだり、侮辱したりすることがありますが、笑いものにして嘲るというのがここにはよく当てはまります。人が人に対して取るこのような態度は、人間の一番醜い姿です。ましてや相手は神の御子である方です。ローマの兵士たちはそんなことは知らず、また相手が誰であれ、十字架刑に処せられるような人物を馬鹿にするのは軽い気持ちでやっていることに見えます。本当にその人がこんな侮辱に価するのかどうか、それを考えてみようとする様子は微塵もありません。まるで芝居の中で嘲られる人が描写されているかのような有様です。神の御子は私たち罪人を救うためにそれ程の侮辱を甘んじてその身にお受けになったことを私たちは忘れてはならないのです。


  2.イエスの周りを取り巻く人々  主イエスが十字架につけられるために外へ引き出された時、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、田舎から出てきて通りかかったので、兵士たちは彼に無理やり十字架を担がせました。十字架につけられる犯罪人は、処刑場まで自分で十字架を担いでいかなければなりませんでした。恐らく十字架の横木を担いだのだと言われていますが、主イエスは何度も鞭打たれた後、体力を消耗し最早自力で担げなくなっていたのではないかと思われます。

 このルフォスという人は、ローマの信徒への手紙16章13節に出てくるルフォスではないかと思われます。この人はローマの教会の信徒となっていた人です。この福音書を書いたマルコは、ローマで使徒ペトロの通訳を務めていたことがあるので、ルフォスを知っているマルコがあえて書いたということは十分考えられます。だとすればたまたま田舎から出て来たところ、イエスという人物の十字架を代わりに担ぐことになったというシモンの話を聞いた息子であるルフォスが後にそのイエスを信じるようになったということは、単なる偶然というよりも主なる神の導きによると思えるのです。このシモンは、自分ではきっと処刑される人の十字架を自分から担ごうとは思ってもいなかったことでしょう。しかし外から何らかの力や働きかけによって自分の意向とは関係なく何かがあてがわれてしまった、という経験が私たちにもあるのではないでしょうか。しかしそれは主との関係で見るならば、すべては隠された主のお導きと言うものがあって、そこから私たちは益となる意味を見出すことができるはずです。主を信じる者にとっては、主にあってはすべてのことが互いに働き合って益となるのですから(ローマ8章28節)。

 主イエスはこの後、兵士たちによって十字架につけられました。その服は、詩編22編19節に描き出されているように、くじ引きで分けられました。1,000年近くも前の詩編の中に、イエスの十字架の際に起こることが描き出されていたのは、主が予めすべてをご存じで御計画されたことがイエスの身に起こっていたということです。

 イエスの十字架の上には、「ユダヤ人の王」という罪状書きが掲げてありました。「ユダヤ人の王」であることがなぜ罪状となるのでしょうか。この罪状書きはローマ総督ピラトが書いたものでした(ヨハネによる福音書19章19節)。ピラトは、先ほど言ったようにイエスが処刑されるのは、ユダヤ人たちの妬みによることを見抜いていました。そしてイエスには十字架刑に当るような罪は認められないと判断していたのです。しかし彼は自分の意に反して群衆の声に負けてしまい、また保身のためにイエスを十字架につけることを許可したのでした。彼はイエスがユダヤ人の宗教上の問題で訴えられていることを知っていましたから、政治的な意味で「ユダヤ人の王」と書いたのではなく、信仰上の問題であることを知った上で書いたのです。そしてそのことが図らずも真実を知ることになったのでした。イエスは決して政治的な王ではありませんでしたが、ユダヤ人として生まれ、単にユダヤ人だけでなく、真に神に従う人々の王となるべく十字架に架かられたからです。十字架の主イエスは、今ここにいる私たちにとっても真の王です。


  3.人間の罪が救い主を十字架につけた

 イエスの周りにいた人たちは、ローマ総督ピラトに訴えていたユダヤの指導者たち、それを許可したピラト、直接十字架につけた兵士たち、そこを通りかかった人たち、一緒に十字架についた両隣の強盗犯人たち、そして思いがけず十字架を代わりに担ぐことになったシモン。ここにはイエスに従ってきた人たちは描かれず、それは39節以下で記されます。今日朗読した箇所では、イエスは全く孤立無援、ただ一人辱めと侮辱を受け、痛みと苦しみに耐えておられます。

 ここには、人間が同じ人間の誰かを侮辱する時の醜さ、おぞましさ、軽薄さ、身の程知らず、自らを省みることをしない愚かさ、などが噴き出ています。そしてわずかながら救い主が十字架に架かるための手助けをしたシモン、自分の意志を貫けなかったけれども罪状書きの書き方で図らずも真理を表わすことになったピラトがいました。

 今ここにいる私たちは、このイエスの身に起こった十字架刑という出来事を、この受難週に当って、また福音書を通して目の前に描き出してもらっています。私のことを言えば、この主イエスの出来事を自分に関わりのあることとして受け止め始めてから、約50年が経ちました。毎年この受難週を過ごしてきたのですが、その50回はただ同じように繰り返してきたのだろうかと問い返してみます。皆さんも、御自分が主イエスに出会ってから、毎年、イエス・キリストの十字架を仰ぐ受難週を何回となく過ごして来られたことと思います。ただキリスト教会の暦でまた受難週が巡って来たからではなく、誰か他の人のためではない、この自分のために主イエスは十字架についてくださったのだということを改めて覚えましょう。主イエスから見れば、主を信じる人はいったいどれほど大勢の人になるでしょうか。それが何千万人だろうが、何億人だろうが、主からすると、名前も知らぬ多数の人々の一人として私たちがいるのではなくて、ちゃんと名前を呼んでくださる羊飼いとして私たちを十字架の下に招き、十字架を仰ぐ者へと変えてくださっています。

 何万人を集める人気アーティストの野外コンサートを見ることがありますが、ファンの一人ひとりの名前を全部把握している人などいるはずもありません。自分の音楽を好み、支持し、集まってくれる有り難い人々であって、素晴らしい音楽を提供はしていますが、その一人ひとりの人生のお世話をしているわけでもありません。そういうものと比べるのもおかしいかもしれませんが、救い主イエス・キリストはどれほど信じる者が多かろうとも、一人ひとりを知っておられ、生涯にわたって導き助け、支えてくださいます。私たちはライブコンサートに集う人々のように陶酔状態になったりせず、落ち着いて主を見上げるかもしれませんが、その思いは生涯にわたって灯し続けられる火のようであって消えてしまうことはありません。十字架につけられた救い主と私たちとの間には、もう決して切り離されない強い結びつきが神によって築かれています。それを信じて、この地上にいる限り、十字架の主イエスの下に立ち続けてゆくのです。主イエスはなお一層私たちに御自身を現して神の国へと力強く導いてくださいます。世の中にどんなことが起ころうとも、自分の身に何が起ころうとも、私たちの主である救い主イエス・キリストは、その中でも私たちが倒れてしまわないように支えていてくださるのです。これからもずっと十字架の主イエスを見上げる歩みを続ける思いを新たにしましょう。

コメント

このブログの人気の投稿

「聖なる神の子が生まれる」2023.12.3
 ルカによる福音書 1章26~38節

「神による救いの物語」 2023.11.26
?ルカによる福音書 1章1~25節

「私たちは主に立ち帰ろう」 2023.11.12
哀歌 3章34~66節