「実を結ぶ一粒の麦」2022.3.6
 ヨハネによる福音書 12章20~26節

 主イエスは御自身のなさることをいろいろなたとえで示されましたが、今日の箇所で語られた一粒の麦のたとえは、印象深いものであり、特に誌的な表現でもあります。私たちが普通に持っている感覚からすると反対のことを主イエスはしばしば言われましたが、ここでもそのように語られます。死ぬことが命に通じる、死ななければ命に至らない、そう言われます。それを理解するためには、命と死、その言葉の意味を知る必要があります。そして今日のたとえでは、主イエス御自身のことだけではなく、主イエスを信じて従うものにもそのたとえが当てはめられています。


  1.訪ねて来たギリシア人たち

 過越しの祭りにエルサレムに来ていたギリシア人たちが主イエスに会いたがっている、と主イエスに伝えられました。それをきっかけにして主イエスは今日の教えをお語りになります。イエスにお目にかかりたい、とギリシア人たちは願ったのですが、それに対するイエスのお答えは、一見すると全然関係ないように見えます。確かに直接関係ないように見えますが、異邦人であるギリシア人がやってきたこと、そしてイエスが一粒の麦のたとえを話されたこと、この2つのことをヨハネは記すことで、これから十字架で殺されようとしているイエスの死こそ、多くの異邦人たちをも救い、その御業の実を結ぶことを示していると言えます。

ユダヤ人の指導者たちは、イエスを捉えて殺そうと考えていました。そしてその通りになってゆきますが、その死は、単に反対者たちに殺されるという単純なことではなくて、自ら命を捨て、死ぬことによって却って命を多くの人にもたらします。いくらユダヤの指導者たちがイエスを抹殺しようとしても、形として殺されはしても、その死こそが逆にユダヤ人たちの思惑に反してイエスによる救いを広めてゆくことになるのです。


  2.イエスが栄光を受ける時が来た

 主イエスは、「人の子が栄光を受ける時が来た」といきなり言われます。ここにはまだギリシア人たちは来ていなかったように見えますから、ここでは主イエスは、ギリシア人の願いをきっかけにして、弟子たちに御自身の死の意味について教え始められたのです。

 主イエスは御自身の死を、一粒の麦が死に落ちて死ぬことにたとえられました。麦の粒は、ただ袋に入れられて倉庫にしまってあるだけだったら、何の変化もなく、そのままです。しかし地に蒔かれて土の中に埋められるなら、恰も人が葬られたように見えます。人の目からも隠されてしまいます。しかし麦の粒はそこから芽を出し、成長して実を結びます。地に落ちて死に、実を結ぶ。主イエスが十字架にかけられて殺されることがそれにたとえられます。

 主イエスは永遠の神の御子であられます。天におられる父なる神、聖霊なる神と共に三位一体の神です。栄光の御座に着いておられます。このヨハネによる福音書の後の方に、主イエスが天と父なる神に向かって祈られた祈りの御言葉があります。「父よ、今、御前で私に栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を」(17章5節)。その栄光の御座におられた神の御子が、自らを低くして人となられ、地上での30数年を歩まれました。それだけでも神の御子として、大変なへりくだりを示されたのです。しかし、もしも主イエスが神としての御力を常に発揮されて、御自身が捕われるようなことなく、御言葉を語り奇跡を行うだけだったとしたら、どうだったでしょうか。地に落ちて死ぬことなく、ずっと天の倉の中の麦のままだということになります。そうだとすると、実を結ぶ一粒の麦にはならず、ただ一粒のままでした。

 しかし神の御子イエスは、そうではありませんでした。御自身を低くされ、神の御子であられ、永遠から天と父なる神のみもとで栄光の内におられたのに、その身分を捨てて地に降られたばかりでなく、捕えられ、殺されることを通して、地に落ちて蒔かれた一粒の麦になりました。

 そして、その救いの御業を通してユダヤから始まって、異邦人たちの世界へと広がり、全世界にわたって救いの福音が広がり始めました。それが今日にまで至っています。主イエスのもとを訪ねて来たギリシア人たちのように、今では誰でも、何も憚ることなく、救い主イエス・キリストにお目にかかることができます。もちろんそれは肉眼で姿を見て、耳で肉声を聞くということではありませんが、今日の私たちがそうであるように、聖書の御言葉を通し、教会の礼拝を通して、十字架の死と復活の後、天に昇られた神の御子イエス・キリストにお目にかかっているのです。


  3. 死ぬことで多くの実を結び、永遠の命に至る

 こうして救い主イエスは、御自身をまず地に落ちて死に、実を結ぶ一粒の麦にたとえられましたが、今度は、主イエスを信じる者たちのことをお語りになりました。

 この世で自分の命を愛する者と、この世で自分の命を憎む者とが対比されています。どんな人でも自分の命を愛しているのではないかと思われます。確かにそうであって、誰でも自分の命を愛するがゆえに生きており、それだからこそ自分を愛するように隣人を愛しなさい、と神の律法も命じています。また、自分を憎むということも、自分の性格や容姿や、生まれ育ってきた環境によってできて来た自分という存在自体が嫌である、とにかく自分が嫌いであるとか、自分を大事にしないで投げやりに生きている、ということとは違います。

 ここで自分の命を愛すると言われているのは、あまりにも強くこの世の生、命、生活などに執着し、自分の命を守り楽しみ、喜ばせるために力を費やし、とにかくこの世での命が全てであるかのように生きていることです。

 逆に自分の命を憎むとは、この世での命が全てではないことを知っており、この世では生まれながらに神の前に罪があることを認め、自分もその罪の汚れを持っていることを知って、そこから救われたいと心から願っていることです。だから、自分の命を憎む人がそれを保って永遠の命に至る、というのは嫌いな自分のままで永遠に生きるということではありません。もしそうなら、それは嬉しくもないことになってしまいます。もちろんそのようなことはないわけです。罪人である自分を喜んでいないこと。この罪の中から救われたいと願っていること。そのような人は、救い主イエス・キリストによって永遠の命に至ることができます。

 その人は、自分を救ってくださった主イエスに従い、仕えます。そうすれば主イエスが共にいてくださる。そして父なる神がその者を大切にしてくださるとは、何という光栄なことでしょう。この、大切にしてくださる、という言葉は、尊ぶ、敬う、尊敬する、重んじるなどと訳されます。いずれにしても父なる神が私たちを尊んで、大事なものとしてくださるのです。わたしに仕える者がいれば、と主イエスは言われますが、実は私たちが主イエスを信じて従い、仕える前から、父なる神の方が私たちを尊んでくださっているからこそ、私たちは主イエスに出会うこともできたのです。神は、私たちの内に御自身の形を似せて造ってくださったわけですから、御自身に似たものとして尊んでくださいます。その上で、自分の罪を憎み、罪から救われようとして御子イエスの下に来る人を大切にしてくださいます。罪の内に生まれてきて、自分ではその罪を清めることも償うこともできない者を憐れみ、愛し、大切にしてくださる神の恵みを感謝して受けるしかありません。それを受ける人は幸いです。その幸いを感謝し、一粒の麦として御自身を献げてくださった救い主イエス・キリストと、その主をお遣わしくださった父なる神に感謝して聖霊の恵みを信頼して歩み続けましょう。それにより、主に仕える者を大切にしてくださっている神を知ることになるのです。

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