「光のあるうちに信じなさい」2022.3.13
ヨハネによる福音書12章27~36節

 私たちは、自分のこの世での成り行きをすべて予め知っているわけではありません。もちろん、ある職業についていて、ある土地と環境の中で生活し、そこにいる限りはどのようなことが起こってくるかをある程度予測して備え、また自らの計画と努力によって切り開いてゆくこともそれなりにできるのは確かです。しかし、いくら用意周到に計画しても想定外のことは起こり、あるいは願った結果が与えられても、それが本当に自分の益になっているかどうかが疑わしくなることすらあり得ます。それに対して、主イエスは、御自身がこれからどのような道を辿ってゆくのかをご存じでした。天の父なる神によってこの世に遣わされた主イエスは、御自分に与えられた重大な務めを自覚しておられましたので、その重みが肩にのしかかっていました。人間の罪をその身に背負って十字架に架かり、御自分が死ぬことによって償いを成し遂げるということです。


  1.天からの声を聞く

 主イエスはそれを自覚しておられましたので、自分がどれほどの苦しみを受けることになるかを知っていました。それで、「今、わたしは心騒ぐ」と言われます。これはこの後起こってくることについて、人間としての恐ろしさを感じられたということです。神の御子なのだから超然としているということは主イエスにはありませんでした。神の御子でありながら、人としての御性質を取られたということは、人間が感じる様々な情感を主イエスも持っておられるのです。それゆえ、一度は「父よ、わたしをこの時から救ってください」という率直な願いを口にされました。

 しかしすぐに御自身がこの世に来られたことの目的に立ち戻り、まさにこの時、つまり十字架に架かって殺され、多くの人の罪の贖いとなるために来られたのですから、その使命を全うすべきであるという点に立ち帰られたのでした。そもそも、心が騒ぐ経験をしたことのない人などいないことでしょう。何かを前にして不安感を抱く、漠然とした恐れを抱く、落ち着いていられない、という経験を誰もがします。それはこの世で生きている限りはなくならないことでしょう。主なる神を信じて生きているとしても、私たちはこの世ではそれを味わわなければなりません。この世において、誰よりも天の父なる神と力強く結びついておられた主イエスでさえ、このような心の動揺を覚えたのですから、私たちはなおさらです。そして私たちのためにこの苦しみを味わわれたことを覚えます。私たちもこの世で通り抜けなければならない困難な道が必ずあります。しかし、天の父なる神は、すべての時をご存じです。この時から救い出されて逃れることを第一に願うよりも、主イエスが祈られたように、その中で神の栄光を現していただくことを求める。これは簡単なことではないかもしれません。私たちは主イエスより大変弱い者ですが、そういう私たちの歩みそのものにおいても主なる神は御自身の栄光を現してくださることを信じて進むことができるのです。


  2.すべての人を自分のもとへ引き寄せよう

 主イエスの祈りに答える形で天から父なる神の御声が聞こえました。しかし側にいた群衆は、それは雷だ、と言い、他の人たちは天使が話しかけたのだ、と言いました。同じように神の声が聞こえても、ある人はそれを聞き分け、ある人は全く別のものと聞き違えてしまうのです。これは今の時代も私たちの周りで起こっていることです。

 主なる神は今日、聖書を通して、そして教会でなされるその聖書の説き明かしを通して世に向けて語っておられます。同じ聖書の言葉を聞き、同じ聖書の説き明かしを聞いても、ある人にはさっぱり心に届かない。またある人には反発心をもたらす。また別の人には、一寸面白い話だな、という感想をもたらす、といった具合です。そういう人たちにとっては、天の神からの御言葉としては響いて来ないわけです。しかし、必ず神の御言葉として聞く人もいます。そして、教会から、世に対して神の御言葉が語り続けられている以上、それは神から世に対しての語りかけです。主イエスが「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ」と言われたように、いつの時代でも、神は世の人々に対して御自身の御心を語り続けておられます。

 そして、この世が裁かれて、この世の支配者が追放される、と主イエスは言われます。これはどういうことでしょう。実際、主イエスがこのように言われたからと言って、この世の支配者は追放されているとは見えないのがこの世の現実のように見えます。例えば今、隣国に侵攻している大国の支配者はどうでしょうか。しかしここで主イエスが言っておられるのは、あの国、この国の支配者たちのことではありません。どんな大国の大統領でも、この世を支配しているわけではありません。ここで言われているのは、見えない霊の世界において、この世の人々を罪に誘い、神から引き離そうとする悪魔、サタンのことを指しているのです。つまり、人が創造されてから、ほどなくしてアダムとエバが蛇(サタン)の誘惑によって罪を犯してしまったわけで、それ以来人は神に逆らって自分の進みたい方へさ迷い出るようになってしまいました。サタンはまんまと自分と同じように、人を神に逆らう道へと誘うことに成功したように見えます。しかしそのようなこの世にも、神の御言葉に耳を傾ける人々は常に起こされていました。しかしそれは部分的なものであり、そういう意味でこの世はサタンの支配下にあると言えたのでした。

 ところが、神の御子にして、救い主であられるイエス・キリストが世に来られ、十字架で人の罪を償い、罪と死と滅びから救ってくださる道を備えてくださったからには、サタンの企みは打ち破られ始めたのでした。そしてやがて救い主キリストがこの世にもたらされた神の国は完成されます。その神の国には、悪魔、サタンの入る余地はまったくありません。そういう意味で、この世の支配者は追放される、というのです。

 さらに、地上から上げられる時すべての人を御自分のもとへ引き寄せると言われます。主イエスは十字架の死と復活の後天に上げられましたが、ここで言う地上から上げられるというのは、十字架に上げられることを指しています。どのような死を遂げるかを示そうとして言われたわけですから(33節。3章14節参照)。このすべての人とは、全人類というよりも、あらゆる国々のあらゆる時代の人々を対象として神の御子、主イエス・キリストによる救いの福音が及んでゆくことを言っているのだと思われます。つまり、主イエスの十字架の出来事は、この世に対して、そしてこの世に生まれてくるすべての人に対して唯一の救いをもたらす出来事となったのです。この「すべて」という言葉は、主イエスに属する者、主イエスの羊たちすべて、という意味に解することもできます。とにかく、主イエスの十字架は、全世界に対してただ一度だけの決定的な出来事です。

  3.光のあるうちに信じなさい

 このように主イエスが語られると群衆は、自分たちは律法によってメシアは永遠にいつもおられると聞いていました、と言います。この「律法」とは「旧約聖書」というくらいの意味です。直接的にこのように書いてある箇所はないのですが、ダビデの王座を代々に備える(詩編89編5節)、という詩編の記事などが念頭にあるかと思います。群衆は、イエスが十字架に上げられることの意味を、まだ全く理解できていませんでした。

 主イエスは、世を照らす光として、今しばらく人々の間にあると言われました。今日では、この世で救いの光を掲げて語っておられる救い主イエス、神からの救いの福音を告げ知らせ、永遠の命をもたらす救い主としての御自身を、今の内に信じなさい、と強く勧めておられます。なぜなら、この世は暗闇であり、神からの光によらねば、自分がどこへ行くのかもわかりません。しかし世の光なるイエスを信じる者は、はっきりと自分たちの行先を示されます。それは自分の正しさや信仰深さによるのではなく、あくまでも主イエスの十字架と復活の恵みによってです。

 そして、今の時代に生きている私たちは、福音によって、主イエスによる罪からの救いを知らされて、光のうちに招かれました。私たちも、この世で、この光が輝いている間に、つまり自分が主の御言葉を聞き、福音に触れている間に、光なる主イエスを信じてその後に従い、光の子としていただけます。そうでないと暗闇に追いつかれてしまいます。私たちは闇に追いつかれ易い、ということを主はご存じなので、このように警告してくださるのです。

 それ程に、この世には私たちを闇の中に留めようとする力がまだ働いています。先ほど言いましたように、主イエスの十字架によって、サタンの企みは打ち破られて、サタンは神の国から締め出されてはいるのですが、なおこの世では私たちに絡みついてくる罪があります。だから私たちは教会につながって主にある兄弟姉妹たちと共に支え合って歩んでゆく必要があるのです。天からの神の御言葉を聞きとらずに反発するだけだったり、少々役に立つ教えくらいにしか思わなかったり、心に留めていつもその御言葉に目を留めているのを怠ったりしてしまうのがこの世に生きる人間の罪深さです。そのような状態に陥らないように警告しておられる主イエスは、私たちを御自身のもとに引き寄せてくださったのですから、私たちは何をおいても、主イエスの十字架のもとに留まり続けるのです。

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