「今、主に何を献げるか」2022.2.6
 ヨハネによる福音書 12章1~8節

 主イエスは、御自身が生き返らせたラザロのいるベタニアに行かれました。食事の席に着いた主イエスのもとにマリアが来てイエスの足に香油を塗ったことをきっかけに、一つのことが起こりました。マリアと弟子のユダ、この2人のしたことが対照的に示されています。今日、私たちもまた、主イエス・キリストに対して何を献げるのか、何をするのか、改めて問われています。


  1. 香油をふりかけたマリア

 ラザロの姉妹マリアが持ってきた純粋で非常に高価なナルドの香油は、インドのヒマラヤ原産植物の根から取った高価なものです。1リトラとは、約326グラムですから、丁度牛乳の1リットルパック3分の1くらいの分量でしょうか。ユダヤでは、貴賓客によく香油を注いだということです。

 ところで、福音書にはこれと似たお話があります。ルカによる福音書の7章36節以下の話に登場する女性は、このヨハネによる福音書のマリアとは別人であろうと思われます。他に、マタイによる福音書26章6節以下とマルコによる福音書14章3節以下のお話があります。マタイとマルコのお話は明らかに同じものです。ヨハネが記す話も、これと同じではないかと思われます。ヨハネの記事では、誰の家かは書いておらず、シモンの家であったかもしれません。共通点として、マリアの行動を咎めた人が、この香油を300デナリオンで打って貧しい人に施せたのに、と言ったことと、それに対して主イエスが、貧しい人はいつもあなたがたと一緒にいると言われたこと、そしてそれはイエスの埋葬のためであったこと、などがあります。

 マタイとマルコでは、香油をイエスの頭に注ぎかけたのに、ヨハネでは足に塗ったとあります。マルコはその壺を壊した、とまで書いています。先ほど言ったように、香油1リトラは、牛乳パック3分の1ほどですから、それほどの量の香油を頭から注ぎかけたとすると、恐らく体を伝わって足までも流れたことは考えられます。福音書は、イエスのなさったことをそれぞれの著者の角度から書いているので、一つの記事が多様性を帯びて記されているように見えることがあるわけです。それで、ヨハネの記事を見てゆきます。

 マリアがこのようなことをイエスに対してしたのは、主イエスの言葉によると、イエス御自身の葬りの日のためでした。マリアがどこまで自覚していたのかはともかく、彼女がイエスのために香油を塗ったということ自体が、葬りのためだったのでした。私たちの罪のために十字架で死なれ、そして葬られることです。イエスはまだ捕まってもいないので、弟子たちはこのお話がピンとこなかったでしょう。しかし、主イエスにとっては、御自分が十字架に架かって殺されることは、父なる神の定められたことであって、神の御子であるイエス御自身も父なる神と全く御心を一つにしておられました。人としてイエスが十字架に架かることは、私たちの罪が神の前に償われるか否か、という重大な問題です。イエスは人として、確かに死なれたのだということ。葬られるのは、そのことの確かなしるしです。マリアは、単に大事な招待客としてではなく、私たち罪人のために御自分を献げて死んでくださる主イエスのために香油を注いでいたのでした。それ程に重要なこととして主イエスのために献げたのです。


  2.何を心にかけているか  しかしこの行為に対して、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが、「なぜこの香油を300デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」と言います。300デナリオンと言えば、普通の日給300日分ですから相当な金額になります。ユダの言葉は、これだけ聞くといかにも貧しい人のことを考えているようですが、実は貧しい人のことを心にかけていたのではありませんでした。金入れを預かっていながらその中身をごまかしていた、とヨハネは記します。つまり、高価な香油を売って得たお金をこちらに回してくれていれば、それをくすねて自分のごまかしを隠せると思ったのでしょうか。いずれにしても、貧しい人を心にかけてはいないのに、いかにもという発言をしたのでした。このように自分をある者に見せかけるということは、何もユダに限ったことではないと言えます。ユダのようにお金をごまかしているようなことはないとしても、このことは私たち罪人の心の内に常に巣くっていて、自分をよく見せたいという気持ちがどこかに潜んでいるかもしれません。私たちは心の底からそれを心にかけていなくても、建前ではもっともらしいことをいくらでも言えますが、本当に言葉と行いが一致していることはあまりないかもしれません。

 それに対して、マリアはこの時、自分の愛する主イエスのことだけを心にかけていました。その結果、ユダの発言を招いたのですが、主イエスは彼女の行いを受け入れておられます。相当の金額を貧しい人に施さず、別のことに用いたからと言って、咎められなければならないことはないのです。主イエスは、今は彼女がイエスの葬りのために用いたことを良しとされて、無駄遣いとは思われませんでした。


  3. 私たちが今、主に献げるもの

 マリアは、高価な香油をイエスに塗るために用いましたので、その香油はそれでなくなります。このように私たちが何かを用いるとき、その時だけでなくなってしまうものはいろいろあります。伝道のためにお金を使って、案内を配っても、多くは読まれずに捨てられてしまうかもしれません。では、もったいないから形の残る会堂維持管理のために残しておくべきでしょうか。やはりそうではなくて、形で残らなくても今その時にある役目を果たすために用いられるものはあるわけです。主イエスは、貧しい人はいつもあなたがたと一緒にいる、と言われました。ですから、そのことはそのことで忘れずに心にかけるべきことです。しかし、私たちはお金のことが関係してくると、どうしてもどれだけ有効に使えたか、を気にします。確かにお金は無駄にすべきではなく、主からいただいたものとしてより良く、無駄なく用いるべきです。それでも、いつも算盤をはじいて目に見える収益や利益や実質的な効果ばかりを求めていればよいわけではありません。将来を見据えて、教育のために使うのは、特に当てはまります。

 では、今、自分としては何を主に献げようとしているでしょうか。今日の話で忘れてならないことは、マリアは、全世界の歴史の中でも、たった一度、この時しかないことをして主に献げました。救い主が私たちの罪のために死んで葬られるのは、後にも先にもこの時だけです。そのただ一度きりのこの時にマリアは献げました。だから、日頃であれば大事なこととしてないがしろにできないこと、日常的に行うべきこと、ここでは貧しい人々に施すこと。こういったことを脇へ置いておいてでも主に献げるものとしてマリアは献げました。そしてそれを主は良しとして受け入れてくださったのです。だから、このような特別な行為であることを忘れて、教会がいつも自分たちのためにだけお金を用いて、例えば豪華な装飾で飾り立て、必要以上に建物に莫大なお金をかけることがどうであるかをよく弁えねばなりません。これは主のためだから、主のために献げて用いるのだから、マリアの模範に倣って行うのだ、というのは、無理があります。主イエスが、貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいると言われたのは、それはそれで大事なこととして覚えねばならないということです。

 小さな群れにとっては、必要最低限のことで精一杯であり、華美な装飾や必要以上の設備拡充など考えてもいないかもしれませんが、この世に置かれている者として、地の塩、世の光とされている者として、教会も各個人も、今何を主に献げるのか、人々のために何をどう用いるのか。それは常に主イエスの御前で問われているのです。

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