「恵みによって受けた賜物」2022.2.27
 ローマの信徒への手紙 12章1~8節

 今年の標語は、「恵みの善い管理者として」としました。「何々として」の次にはどんな言葉が入るでしょうか。ペトロの手紙一の4章10節では、「仕えなさい」「語りなさい」「奉仕しなさい」という言葉がそれぞれのための勧めの言葉と共に語られています。今日の箇所は、同じような主題について使徒パウロが語っています。パウロは、他にもコリントの信徒への手紙一の12章などでもこのことを詳しく語っておりますが、今日はこのローマの信徒への手紙から学びます。ここでパウロは、教会とはどういうものであるか、という点から始めて私たちの賜物について教えています。そして教会がそのようなものである、ということを通して、この世に対して存在し、実はキリストの光を照らし出している、ということも示しているところです。


  1.神の御心を尋ね求めること

 12章の1、2節は、キリストを信じる者にとって大変大事なことを教えている所で、キリストの救いをいただいたならば、日々どのような心で生きるべきかを教えています。この世に倣うのではなく、神に喜ばれることを求め、神の御心を尋ね求めるように勧めています。ここでは、神に対して自分を聖なる献げ物として献げるようにと命じておりますが、そのようなことが私たちにできるのでしょうか。いけにえとして献げられた者は、もはや神のものです。しかしそれは、まず初めに神の御子イエス・キリストが私たちのために御自分を献げてくださったからこそ成り立つものです。私たちの罪を赦す権威を持っておられる神が、御子の贖いによって私たちを死と滅びから救ってくださったから、私たちの方でも、感謝のしるしとして自分をささげなさいと言われます。しかし自分を献げるといっても、生涯伝道のために自分を献げて生きる、ということだけを言っているわけではありません。自分の体も魂もすべては主である神のものであることを自覚して、神の御名、キリストの御名の内に入れていただいた者としてそれに相応しく生きなさい、という意味です。神がキリストによって、私たちの救いのために最大のことをしてくださったのですから、私たちの側でも、感謝してそのように神に従う道を歩むのです。


  2.自分を過大に評価しない

 そのような、最もクリスチャン(=キリストに属する者、キリスト者)として基本的に大事なことをまずパウロは語ります。その上でまず自分自身を正しく弁えることを私たちは覚えるべきです。自分を過大に評価してしまう。これは私たちがついしてしまうことではないでしょうか。人の前では謙遜な言葉を発していても、心の底では自分の方が優れている、と思ってしまう。これは誰でも経験があるかもしれません。私たちは自分という存在を他者に認めてもらいたいし、存在だけではなく、能力も認めてほしいという潜在的な欲求があるのでしょうか。そうやって自分を保っている、ということもあるかもしれません。

 しかし、それは神様、という方が自分の中心になってくると、変わってきます。私たちは、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いというものに応じて慎み深く自分を評価すべきです。パウロは教会を人の体にたとえます。体にはそれぞれの働きがあり、皆それぞれの役割があって違う働きをしているのですが、全体として一つの体になっています。そして頭があってそこからの指令によって体全体が動くようになっています。教会の場合は、キリストが頭(かしら)であって、一人一人はそれぞれの部分を構成し、キリストというかしらによってまとまっています。キリストを信じ、キリストに結びついていますが、それぞれの部分は異なった賜物をいただいている。そしてそれは神の恵みによっています。

  3.賜物は恵みによって与えられている

 神の恵みですから、神がその御心に従って分け与えておられるものです。神は人の心の内を見ておられ、人に種々の賜物を振り分けられます。そしてそれぞれ異なっていて、2人の人が全く同じ賜物を受けているということはないのです。ここでは、預言の賜物、信仰、奉仕、教える人、勧める人、施しをする人、指導する人等が挙げられており、教える人と指導する人は同じように見えますが、指導する人というのは、前に立つとか治める、という意味がありますので、例えば長老のような立場で会員を治める、という立場にある人を指しているかと思われます。

 さらに、同じように教える賜物を受けていても、やはり主が分け与えられた分があって、それぞれに異なっていると言えます。ですから、受ける側の私たちは、教会においてそれぞれの分に応じた働きがあることをまず信じます。そこには、自分の力を大きく見積もって過大評価してしまうこともなければ、自分を卑下しすぎて、自分には何の力も賜物も才能もないからと言って引っ込んでしまうということもないはずです。そしてその賜物がどんなものであるかは、私たちには即断できません。例えばある人が自分には全く乏しいと思っていた賜物が、ある務めについている中で表に出てくるようになり、自分も他の人も気がつかなかったような働きをし始めるということもあり得ます。だから、私たちは初めから自分の賜物を自分で見切り過ぎてはいけないのです。

 そして、主がこのようにして教会の中でいろいろな賜物をその民に振り分けられるのは、主に連なる民を育て、成長させ、強め、この世にあって教会が力強く立ち、主の栄光を現してゆけるようにという御心があるからです。この後で歌う讃美歌191番の歌詞に、「いともとうとき 主はくだりて、血のあたいもて 民をすくい、きよきすまいを つくりたてて、そのいしずえと なりたまえり」とあります。「血のあたいをもって」とはもちろん十字架で御自分の体を献げ、その死によって民の罪を償い、罪と死と滅びから救い出してくださったことです。そうしてまで私たちを御自分の民として召し集め、清き神の教会、神の民の住まいとしてお立てになろうとされたからです。そのためにみもとに召し出した者たちに恵みによって賜物を与え、真理の柱であり、神の家である教会を築いてこられたのでした。

 今日、教会に足を運び、その礼拝に出席するようになった方は、2,000年もの間、続いてきたそのような神と、教会のかしらなるキリストの御業に加えていただいていることを覚えましょう。私たちは、目の前のことにばかり目が向きがちですが、目の前のことを忠実にやることはもちろん大事であって、主イエスも小さなことに忠実であれば、更に大きなことを任せられると、たとえ話で教えられました(マタイ25章21節)。主がそれぞれに与えられた賜物をまず自覚するように努め、それを、神の家を建てるために用いていただくように備えるのです。

 そして、他の兄弟姉妹たちが行っている奉仕の業を見て、そのために祈ること、働き人が続けて起こされることを祈り求めることが必要です。今、教会においてそれぞれの役割を努めている兄弟姉妹たちが何十年も務められるはずもありません。主がその時々に必要な賜物を受けた奉仕者を備えてくださるように祈りましょう。そして、主が自分に何らかの務めに着くための賜物を備えてくださることをも信じ、キリストの体なる教会を共に築いてゆけるように、お互いをキリストの体の一部分として尊重し、助け合うことを努めてまいりましょう。

 一人ですべての賜物を受けている人など当たり前ですがいません。それはお互いがお互いの助けと協力を必要としていることを私たちが忘れないためでもあります。利き腕の右手があるから左手はいらないなどということができず、案外左手の上手な支えがあるから右手は十分に作業ができるということもあります。また、はじめから習熟した賜物をいただいていて、何の訓練も練習も見習いも必要がない人もいません。ある奉仕に着くということは、そのための祈りと決意と時間と忍耐が必要です。それは当人も周りの人にもです。そのことを覚えて、これから先の私たちの教会の歩みを主にゆだねて、主がそれぞれ必要な賜物を恵みによって分け与え、神の国を目指す地上の教会に力を増し加えてくださるように祈ります

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