「信仰の戦いを学ぶ」2022.2.20
 士師記 3章1~11節

 私たちの信仰には戦いがある。これは、イエス・キリストを自分の救い主と信じて歩み始めた人は、それなりにいろいろな場面で感じさせられてきたことでしょう。信仰の戦いなど全くなしに生き、そのままこの世を去ることは、まずありません。この世に生きている限り、信仰に入ったからこその戦いがあることを私たちは経験から学びますし、聖書にもそれは記されています。今日は旧約聖書の士師記から、それを教えられています。


  1.民を試みるために

 エジプトから、モーセに率いられて脱出したイスラエルの人々は、目的地カナンを前にして死んだモーセに代わる後継者ヨシュアに導かれて、ヨルダン川を渡ってカナンの地に入りました。しかしそこには先住民がおり、簡単にその土地に入り込むことができたわけではありません。この、土地を巡る戦いは、いつの時代にも大きな問題で、長い間民族同士の遺恨の種にもなります。今でも、イスラエルの人々と、アラブの人々との間で、パレスチナの土地を巡る対立が続いています。今日私たちは、キリストを信じる者だからと言って、信仰を持たない人の土地に入り込んでその土地を奪い取るということは勿論しません。しかしこの旧約聖書の時代には、実際に人々が他の民族の土地に入って行ってそこを奪い取ることがありました。現代人から見れば、後から入って行った方が悪いということになるでしょうが、旧約聖書の話の場合、事情はそう簡単ではありません。元々土地はすべて人間のものではなく天地創造の神が、人が住むために分け与えておられるもので(イザヤ書45章18節)、通常神は人をそれぞれの地に住まわせておられますが、特にお選びになったイスラエルの民のために、特別にある土地を与えられました。旧約時代には、アブラハムもそうですが、ある目的の土地へ主が導き、その土地を与えて住まわせるということをしてこられました。

 この士師記にあるように、出エジプトをしてきたイスラエルの人々を主はカナンの地に住まわせますが、それは全地に対する主権を持つ神であるからそのように命令されるのであり、人から出たものではありません。主なる神がイスラエルを先住民の住む地に導き入れられて、そこに住まわせるのは、御自身が天地の主権者だからです。

 その民を試みるために主は他の民族をその地に留まらせたのでした。まだ戦いを知らない人々が、それを学ぶためだと言われています。かつて、年長の人々は、主に対する信仰を示さなかったことで罰を受け、それによって40年の長きにわたって荒野を放浪することになり、その世代はほとんど荒野で死んでしまいました。そしてこのカナンの地に入って来たのは、その後の世代であり、多くが戦いを経験していなかった人たちだったのです。


  2.主を忘れる民

 主なる神が、そのような人々に戦いを学ばせるためにカナンの地の民を残しておかれたのですから、主はその人々が良く学べるように配慮してくださっていたはずです。それは、人々が主に従うかどうかを知るためでした。主は御自分の民をそのようにテストされることがあります。あえて敵を残しておき、その中で主に聞き従って歩むかどうかを見ようとされます。なぜそうなさるのでしょうか。何も困難なことがなく、敵も存在しなければ、その方が民にとっては良いと思えます。そして主なる神は全地の主であり、すべての国の人々に対する権威を持っておられるのですから、それをしようと思えばできないことはありません。それにも拘らず、あえてそうなさらないのは、人々に、主に信頼して生きることがいかに喜ばしいことなのか、主の恵みと力によらなければ何もできないほどの弱い存在であることを民がよく悟るためでした。自分たちは神に選ばれたのだから、何をしていても平気だというような思い上がった態度を取らずに、自分たちの身の程を弁えて、神を畏れて生きるためでした。実際、カナンの地に入って来ようとしていたイスラエルの人々よりも、かつて奪い取ったエリコの町の方が、物質的にも文明的にも優れていました。そうであるのに、主はその御力によってエリコの城壁を破壊して、町に入れるようにしてくださいました。

 そのようにして、主なる神の恵みと力とをまざまざと見せていただいたのに、イスラエルの人々はカナンの地に入ってきて、その町々のいろいろな人々と接触する中で姻戚関係を持つようになり、その上カナンの地の人々が信じている神々に仕えるようにさえなってしまいました。そのようなイスラエルの人々のことを、「主を忘れ」たと士師記は記しています。人々は、敵の手に落ちると主に助けを求めて叫んだとありますから、当然、主なる神の存在を忘れたわけではありません。しかし主を忘れていた。主という方を知っており、自分たちの先祖をエジプトから救い出してくださったことも知っているにも拘らず、その主など恰もいないかのように、その神によって今日があることを本当は知っており、その神に信頼して感謝して日々生きるべきなのにそうしない。そのように、主の恩を忘れた状態ですから他の神々に仕えることも平気でしてしまいます。私たちもこういうイスラエルの態度を決して他人事と見るのではなく、本当に主を忘れてはいないかどうか、自分の信仰を吟味することも時に必要です。使徒パウロは書いています。「信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい」と(Ⅱコリント13章5節)。


  3.信仰の戦いを学ぶ

 人がこんなにも神の恵みと御業を忘れてしまいやすいので、主は時に御自分の民に苦難をお与えになります。主により頼んでいないとしっかり立てないこと、主を忘れているなら、困難が押し寄せて来た時に、簡単に押し流されてしまうことを悟らせようとしておられます。バアルは、パレスチナやシリア地方で崇拝されていた農耕を司るとされていた神で、土地や家畜の生産力を支配する神として拝まれていました。アシェラは、海の女神、肥沃の女神として拝まれていました。どちらも神々の中で重要な位置を占めていました。日本でもそうですが、特にある分野について幸いや豊かさをもたらす神々に人は惹かれるのでしょうか。目の前の農作物の収穫が増えること、家畜が良く育つことなど、こういうことをもたらしてくれるとされる神々をすぐに拝みたくなるのが人間の常かもしれません。

 イスラエルの神、主は、天地の主ですから、イスラエルに自然の恵みを与えることができます。従うなら祝福を、従わないなら災いをもたらす、と言われて実際そのように実行することができます。しかし、主に従うということは、主が求める十戒に代表される戒めを守ることです。しかも心から喜んで仕えることです。献げ物を沢山すればそれに見合う分だけ幸いが与えられるというものではありません。特にイスラエルに対して主は、主に対する忠実な心を求めておられます。ところがその主に仕えることを喜ばず、主を忘れて他の神々に従うなら、他の民に仕えなければならなくなるという懲らしめが与えられます(8節)。真の神ではなく、異国の王に仕えねばならなくなります。そうなると、真の神のような慈しみと憐れみ、それを実行する全能の力を持たない人間に仕えるのは、苦しいものであることを思い知らされるようになるのです。それで人々は助けを求めて叫び、その結果主が救助者として士師を遣わしてくださって、人々は救われたのでした。このような信仰の戦い、つまり自分たちの不信仰、主の目に悪とされることを行ってしまう罪深さ、そういうものとの戦いを経て自らの罪深さを知り、そして救われたのでした。

 今日の私たちも、信仰の戦いを続けていきます。その相手は、何も表立って迫害してくる異教徒や国家権力だけではありません。そういう時代も常にありましたが、私たちはそれに対する戦いと共に、内から起こって来る罪深さとの戦いに目を覚ましていなければなりません。主イエスも言われました。「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い」(マタイ26章41節)。これは、本当に私たち人間の弱さをよく表している御言葉です。気持ちはあっても、この世の生活に時間も体力も奪われ、それで精一杯になってしまう。そして心が燃えていればまだいいのですが、心も挫けてきたり、怠けてしまったりして主に仕えることを後回しにしてしまう。そういう私たちですから、主は時に信仰の戦いに直面させて私たちの目を覚まそうとされることもあるわけです。この戦いは競争にもたとえられています。「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか」(ヘブライ12章1節)。今、冬季五輪も終わりに近づきました。選手たちは他の選手たちと競い、戦いますが、自分との戦いだともよく聞きます。信仰者の戦いも同じです。しかし、信仰者の戦いの場合、主は私たちの信仰をテストして、ふるい落とそうとしているのではないことを知っておきましょう。

 「今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです」(Ⅰペトロ1章6、7節)。この信仰の戦いには勝利が約束されているのです。既に主イエスは勝利しておられ、天上で王座に着き、私たちに必要な助けを与えようとしておられます。この主イエスを信じて救われた者には、主は天の御国という最高の報いを用意してくださっています。

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