「あなたの王がおいでになる」2022.2.13
 ヨハネによる福音書 12章9~19節

 私たちは、今まで自分が聞いたことのないようなことについて聞くと、それを見てみたい、聞いてみたいと思うものでしょう。そして自分の経験や知識、あるいは科学などの常識からしてあり得ないこととなると、まずそれを疑ってかかったりします。そして自分に都合が悪かったりすると、それを受け入れないこともあります。自分が主張してきたことを覆されるようなことが起こった、とされるとなおさらで、そういった場合、素直にその事実を認めるか、あくまでも受け入れないかです。今日の朗読箇所に登場する祭司たちは、主イエスがよみがえらせたラザロをも抹殺しようとしています。本来自分たちが民の宗教的指導者であるのに、多くのユダヤ人たちが自分たちから離れて行ってイエスを信じるようになったからでした。そこには妬みがあります。そのような中、主イエスは御自分の道を進んで行かれます。エルサレムに乗り込んで行かれるのです。それは、御自分を世の人々の罪から救うためです。そしてそれは御自分の民をその御手の内に導き入れるためでした。


  1. エルサレムで迎えられるイエス

 その翌日、とありますのは、主イエスが過越祭の6日前、ベタニアに行かれて夕食の席に着かれた時の翌日、ということになります。このことはマタイ、マルコ、ルカの3福音書も記していることであり、主イエスがなさったことの中でもとても大事な出来事です。エルサレムに入っていくということは、御自分が捕らえられて殺されることを意味していましたので、イエスはそれをご存じの上で入って行かれたのでした。

 イエスを迎えに出た人たちは、なつめやしの枝を持って迎えに出たとありますが、これは棕櫚の枝とも訳されます。棕櫚の枝をもって、讃美の歌で出迎えるというのは、イスラエルの人々にとっては、歴史の中ではユダヤ人の勝利を思い出させるしるしでした。勝利を飾った王が帰って来るのを喜びをもって出迎えることです。人々は詩編118編の言葉を口にしています。その25節に「どうか主よ、わたしたちに救いを」とあります。「ホサナ」とは、「今救いたまえ」という意味です。26節では「祝福あれ、主の御名によって来る人に」と歌っています。そして19節では「これは主の城門、主に従う人はここを入る」とも歌われていました。ヨハネによると、人々は「イスラエルの王に」と付け加えていますから、主イエスのことを自分たちの王とみなして迎え入れようとしているのでした。

 しかし、群衆は、奇跡を行ったイエスを捕えて王にしようとしたことすらありました(ヨハネ6章15節)。群衆は、イエスを真の意味での王として迎え入れようとしていたのではなく、単純にかつてユダヤ人を解放してくれたありがたく勇ましい王のように、戦いに勝利してくれる王を求めていたのでした。


  2.ロバの子に乗られる王

 そういう群衆に対して、主イエスは、ろばの子を見つけてお乗りになりました。これはゼカリヤ書9章9節にある預言の言葉です。ゼカリヤ書では、王が「高ぶることなく、ろばに乗って来る」とあります。王であれば通常はその権威を民に示すために威厳ある態度で振る舞うものですが、ろばの子に乗ることによって、謙遜な姿勢を持つ王であることを示しています。この王が来られることによって、「戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる」のです(同10節)。

 弟子たちには、主イエスがこのような行動をとられたことの意味が分からず、人々がイエスに対して歓呼の声を上げて迎え入れたこともわかりませんでした。しかし、主イエスが十字架にかけられて死なれ、そして三日目に復活されて栄光を受けられた後、初めてその意味を悟ったのでした。イエスは普通の王のように武力によってその国を治める王ではなくて、神の霊によって、そして御言葉によって民を治める王であられることを悟ったのでした。

 イエスがラザロをよみがえらせた時に一緒にいた群衆も、その証しをしていた、とあります。イエスが単なる王ではなく、神の霊の力によって人を死から生き返らせることのできる方であることを目撃した者として、イエスこそ真の王、高ぶることのない王であることを証ししたのでした。

 ファリサイ派の人たちは、「何をしても無駄だ」と匙を投げたようなことを言っています。群衆は後には掌を返したように、捕えられたイエスについて「十字架につけよ」と叫びます。群衆というものは勝手なもので、その時その時の情勢によって言うことを変えるものです。この時はファリサイ派の人たちがどうしようもないと思ったほどに、彼らはイエスをエルサレムに迎え入れることによって、イエスが謙遜な、神の霊の力で治める王であられることを示すために一役買ったのでした。これもまた、神の摂理のもとにあったことです。主イエスは神のもとから、私たち人間の罪を償う救い主として来られたので、旧約聖書のザカリヤ書の預言が確かなこととして実現したのです。


  3. 今日、私たちの王であられる主イエス

 このように、私たちに主イエス・キリストという王がおられるなら、今日の私たちの生活もそれに相応しいものと変えられてゆくはずです。一昨日は、この日本では建国記念の日でした。日本という国が建国されたのは歴史的に、何年何月何日ということがわからないので、建国を記念する日として「記念の」日となっているわけです。「記念日」とはできなかったけれども、天皇のもとに国をまとめたいという政府の思惑が見てとれます。天皇には、神道での祭司としての務めがありますから、天皇はその儀式を行います。そして五穀豊穣を民のために祈るのです。

 それに対する私たちクリスチャンの信仰においては、私たちのために執り成してくださるのは神と人との仲介者、人となられた神の御子イエス・キリストですから、天皇に祈ってもらう必要はありません。イエス・キリストこそ、神と人との間に立つ唯一の仲介者、執り成し手です。

 そういう方を神との間の仲介者、そして王としていただいているからには、私たちの生活もその主であり王である方によって守られ、支えられていることを覚えねばなりません。私たちは、主イエスがろばの子に乗ってエルサレムに入城されたことの傍観者ではないはずです。また傍観者であってはならないのです。高ぶらず、へりくだり、御自分を低くして十字架にかかられた王、罪を償うためには自らが辱められることも厭わなかった王。このような王こそ真に高められるべきお方です。私たちは、この王のもとに召し出されていることを知りましょう。  このへりくだられた王は、私たちの心にまず御言葉を語りかけてくださいます。その御言葉を日ごとに与えて私たちを養ってくださいます。そして召し集めた民を羊飼いとして導き、助け、守り養い、強めてくださいます。真の王であられる主イエスは、その神としての御力によって私たちを治めてくださいますが、その民を力づけ、強くしてくださる王でもあられます。羊は弱い動物ですが、しかし主イエスという羊飼いであり王である方に養われる羊の群れは、決して柔弱な、弱々しい姿を世の人々に見せているわけではありません。信仰に立ってこの世に生きる主の民は、真の王をいただく者として、この世にあって力強く立つ者であります。神の御言葉の真理を受けているからです。神でないものが神とされ、その時々で力のある者がほめそやされるようなこの世にあって、真にほめたたえるべきお方を知っています。そしてこの真の王に召し出されて仕える者としていただいた民は幸いです。この民はこの世で教会に集められ、キリストが王となられる神の国の一員として世に置かれています。私たちが主を礼拝し、そして信仰によって日々の生活を送るのは、世の人々に対して真の王であられ、救い主である方を証しすることなのです。

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