「神の栄光のためである」2021.12.5
 ヨハネによる福音書 11章1~16節

 昔も今も変わらないでしょうが、人の生き死にの「死」について語る時には、神経を使います。それ故、死について語ろうとする時、死という言葉をいろいろに言い換えて発言したり書いたりすることが日常行われています。特に日本語のように意味を表す表意文字としての漢字を使う場合、「死」という漢字はすぐに目につきます。ちなみに「死」という漢字は、その左側は「肉を削り取った骨、残骨」をかたどったものだということです。右側は人の形を表しています。人が骨だけになってしまった状態を表しているわけです。漢字を日頃使っている私たちは、なおさら、「死」という漢字をみるとそれだけで一瞬はっとして身構えるかもしれません。今日は、このような人の「死」というものを前にして、神の御子、救い主イエス・キリストがどのように御自身のことを現わされたかを教えられています。


  1. この病気は死で終わらない

 主イエスのもとに、イエスと親しくしていたマルタとマリアの姉妹から、彼女たちの兄弟であるラザロが病気であることが知らされました。主イエスはこの病気が死で終わるものではない、と言われます。この病気がラザロに対してどのような結果をもたらすかをご存知である方の言葉です。

 私たちは、人は必ず死ぬことを知っています。しかし、その時々で病気になったりすると、当然、良い治療法を求め、医療に頼ります。いつかは死ぬことはわかっているけれども、治せるものは治したいというのが普通の考えです。私たちはそういう考えに沿って通常行動します。しかし主イエスは違いました。この病気が死では終わらないと断言されました。神の御子として、人の死についてしかも誰それの具体的な死についても把握しておられるのです。そして、私たちは、この主イエスにあっては死というものが、人にとって最後に立ちはだかっている越えられない壁ではないことを教えられます。既に主イエスを信じている人は、そういう信仰に立っていることを改めて心に留めましょう。しかしこのことはもちろん、主イエスを信じる者であれば、どんな病気でも必ず癒されて健康な状態に戻れることを現わしているわけではありません。そのようなことは信者の方々も皆承知していることです。ここでは主イエスは、ラザロがこの後死んでしまうことを知っておられ、しかし死んでしまったままではなく、御自身が生き返らせることをご存知だから言われたのでした。

 私たちは、病気に対してこのように言える方がおられることを感謝すべきではないでしょうか。たとえ自分の病気がどうであろうと、神の御子キリストにあっては、いやすことのできないものはありません。ただ、主イエスは地上におられた時にあらゆる病を癒されましたが、それはこの世で御自身の神としての力を証しするために特別になさったものでした。そして、その御力を自由に用いられましたが病気の人に対する憐れみの心をもちろん示されました。


  2.あなたがたが信じるようになるためである

 今日の箇所で主イエスは、ラザロの病気を巡って二つのことを言われました。一つは、このラザロの病気が神の栄光のためである、ということ。もう一つは、ラザロが死んだときにイエスがそこに居合わせなかったことは、それによって弟子たちが信じるようになるためである、ということです。先に、弟子たちが信じるようになるためである、ということを学びます。

 もしイエスがラザロの死んだ時にそこに居合わせたとしたら、弟子たちはイエスがラザロを癒されるのを目撃することになりますが、イエスが病人をいやされることは、今までにも弟子たちは見てきました。しかし、死んだ人を生き返らせることを目撃することによって、イエスが天の父なる神のもとから来られた神の御子であることを知り、信じるようになるからです。それでも旧約聖書を知っている人は言うかもしれません。預言者のエリヤとエリシャも死んだ人を生き返らせたことがあると(列王記上17章、同下4章)。

 しかし彼らの場合は、実はイエスとは違います。旧約の預言者たちは、自分が特別な神の御子だなどとは思っていません。あくまでも神から受けた特別な力によって、預言者たちはその時その時に奇跡を行ったにすぎません。確かに行った業自体は素晴らしいものであって、人々はそれを見て驚嘆したでしょう。しかし預言者たちは自分が神の子だとは主張しません。そうではないことは自分が一番よくわかっているからです。

 それに対してイエスの場合は、御自分は神のもとから来たものであって、神と共にあり、神の御心をいつも行っているのだと主張されました(8章29節)。弟子たちは、これまでに主イエスが行って来られた業を見て、既にイエスが特別な方であり、神の聖者であると信じていました(6章69節)。しかし今度はもっとはっきりと神の御子であることを信じるようになるのです。このことについてはまた後で改めて語られることになります。


  3. 神の栄光のためである

 もう一つの点、神の栄光のためである、と言われたことについて聞きましょう。それはどういう意味でしょうか。神の栄光とは、神御自身の聖なること、また慈しみと憐れみに満ちておられること、御業の素晴らしいことなど、それらのことを通して神の御名があがめられることです。天地創造の前から神の栄光は輝いていたのですが、天地創造により天使たちが創造され、神の御名がほめたたえられるようになります。そして人間が創造されたことによって、さらに神への賛美がなされるようになりました。神の栄光は、

    ただそこに輝いているだけではなくて、人が神をほめたたえることによって現わされるものです。

 主イエスは、ラザロの病気が死で終わらない、と言われました。それによって、神の御名がほめたたえられるようになる。主イエスはそのことをここで言われました。ここで主イエスが言われたのは、病気と神の栄光とを天秤にかけて、神の栄光のためなら病気の苦しみを忍ぶべきだとか、病気による死に直面しても、それによって神の栄光が現されるのなら我慢すべきである、というようなことを言われたわけではありません。神の栄光のためなら死をも甘んじて受けるべきであるということではなく、あくまでもこのラザロの場合、ラザロがイエスのおられない時に病気になったことを通して、神の栄光が現されることになると言われただけです。

 この場にいてイエスの言葉を聞いていた弟子たちは、イエスの言おうとしていたことが良く分からなかったかもしれません。しかもイエスはなお二日間そこに滞在されたわけですから、イエスの行動の意味が飲み込めなかったでしょう。しかしすべてはイエスのお考えの中で運ばれていました。私たちも、神のなさること、今、自分やその周りで起こっていることの意味を直ちには理解できないこともあります。しかし事柄がどのように運んでいくかをじっと信仰を持って見ていなければならない時があります。主を信頼する者はそのような時を経験することになるのです。

 この後主イエスは昼間歩くこと、この世の光を見ていることについて話されますが、これは、イエスこそ世の光であることを昼と夜のたとえで話されたものです。弟子たちにも、また私たちにも、イエスの御心が良くわからないことはあるけれども、光であるイエスの御手にゆだねて、信仰によって歩き続けることが大事である、ということです。なお二日間同じ所に滞在されて、すぐにラザロを治しにいかなくても、光であるイエスから目をそらさないでその後についてゆくことを止めてはならないのです。その光を見ることをやめ、目を他にそらして好きに進んでゆくとしたら、その時には私たちは必ずつまずいてしまいます。だから私たちは、今すぐにはわからなくとも、また出来事の意味が全て理解できなくても、光である神の導きを信じて、主を信じる道を歩み続けるのです。それを続けることによって神の栄光を見ることができます。  この世では、神の栄光は信仰がなければ見ることはできません。偶然とか、運任せの生き方では、神の栄光を認めることはできません。信仰によって初めて認めることができるものです。ですから、信仰による歩みを続ける中で、主なる神は、これから先どのようにして私に御自身の栄光を見せてくださるのであろうかと期待し、神の栄光を仰がせてください、という祈りをもって主について行くのです。そうすることによって、主イエスに従って行く者に神の栄光を現してくださることを信じましょう。そしてそのようにして私たちもまた神の栄光を仰ぎ、御名をあがめ、さらに神の栄光を現す者とされて行くのです。

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