「生涯心から離すことなく」2021.12.26
 申命記 4章1~14節

 今年最後の主の日となりました。年末になると私たちは否応なく1年間を振り返ります。今日は、この申命記によって、いにしえの主の民に語られた主の御言葉を聞き、これまで主が私たちにお語りになってきたことを顧み、主がその民とこの世に対して、そして私たちになしてこられた御業を改めて思い巡らしたいと願います。今日の箇所はちょうど3つの段落に分かれており、3つの部分それぞれで教えられていることがありますので、それを見てゆきます。


  1.主の言葉に加えることも減らすこともしてはならない

 主なる神は、御自身の民としてお選びになったイスラエルに対して、掟と法を授けられました。それを忠実に行うならば、命を得られ、そして主がくださる土地を得ることができると主は言われました。この世で生き、生活する場を主が与えてくださるのです。そのためには主が命じる言葉を正しく聞き、それに何一つ加えたり減らしたりしてはならない、と命じておられます。私たち人間は、主の御言葉を聞くにしても、人の言葉を聞くにしても、往々にして自分に都合よく聞こうとする傾向があります。都合の悪い所は聞かなかったことにして削ってしまったり、拡大解釈して自分に有利なように話を広げてしまったりするのです。

 もし私たちがそれをしてしまうと、自分たちを神様と同じ高さにまで引き上げてしまうことになります。神の御言葉に付け加えて同列にしてしまったり、必要ないと思って削ったりするということは、神と同等の権威を自分に与えてしまうことです。古来、このようなことをしてきた人々は、やがて異端として退けられてきました。

 私たちは主の御言葉がいかに尊ぶべきものであるかをよくよく弁えなければなりません。ここで語っているのはモーセですが、ここでモーセが命じる言葉とは、取りも直さず主の御言葉です。モーセ自身が主の戒めを守り、主がお語りになったことだけを伝えているからです。そしてこの戒めは、旧約聖書の律法に記されている掟や法のことに限定しているのではなく、今の私たちにとっては、旧約・新約聖書に記された神の御言葉の全体を指しています。

 主がバアル・ぺオルでなさったこととは、民数記25章に書かれている出来事です。イスラエルの人々が、モアブの娘たちに従ってその神々を拝んでしまったことです。そして主からの罰として災害が起こり、大勢が死んだのでした。しかし、主につき従った者たちは、今も生きているではないか。だから主の掟を忠実に守るものは、命を得られるという掟は真実なのだ、ということをここで民は教えられているのです。


  2.知恵と良識ある民として認められる

 主の掟と法が与えられた主の民には、知恵と良識が与えられる、と6節にあります。「良識」という言葉は他の訳では分別、悟り、知識などと訳されています。知恵と良識、これはこの世で生きる人が身につけるべきもの、という一般的な理解はあると思います。社会人として、一応の常識とかマナー、作法、といったものを教える本とか教室とかあると思いますが、聖書の教える知恵と良識の特徴は何でしょうか。それは少なくとも表向きの儀礼的な作法とか単なるマナーとはもちろん違います。知恵については、箴言に「主を畏れることは知恵の初め」(1章7節)という大変有名な御言葉があります。これは覚えておきましょう。

 良識はどうでしょうか。申命記の続きを見ると、他国民が主の民の歩みを見て、「この国民は確かに知恵があり、賢明な民である」と受け止めるというのです。世の中にいろいろなマナーや作法などがあり、それぞれの場で相応しい立ち居振る舞いと言うものはあるでしょうが、主の民の知恵と良識は、神の掟に聞きながら、神を畏れ、そしていつ呼び求めても近くにおられる神を信じて生きることにその土台があります。そこには、人間は神に造られて命を与えられた者である、というへりくだった信仰の姿勢があります。それは神がお与えくださるものです。神を抜きにしてこの世の生活を考えず、神の御心によって自分の歩みを導いていただくことを求め、より頼む信仰です。

 この正しい掟と法は、十戒に代表される戒めに示されています(申命記4章13節)。今日の私たちは、旧約聖書の儀式的な律法は行いません。なぜなら、罪の償いのための動物などの犠牲の献げ物は、既にイエス・キリストが御自身を献げてくださったので、もう必要なくなりました。しかし、道徳的倫理的な掟は、依然として私たちにとっても主の御心を示すもので、従うべきものです。それは神を愛することと隣人を愛すること、という二つの掟にまとめられます。主イエスも、聖書全体がこの2つの掟に基づいている、と言われました(ルカ22章37~40節)。

 この2つを行うことが神の御心に適うことであり、神は人がそれを行うことを望んでおられます。これを誰よりも完全に行ったのが主イエスです。神の掟は、人を創造され、人がどのように生きることが最も幸いであり、最も相応しいことなのかを誰よりもよくご存じの方が与えられたものですから、最も優れたものです。世界中にはいろいろな倫理的道徳的な教えがありますが、聖書の教えに共通する内容も当然あります。神が人に与えられた理性や道徳感覚は、堕落して歪んではいるものの、世界中の人間の中に、ある程度働いているからです。

 私たちは、はっきりと文字にされた神の掟を聖書によって持っています。私たちはこれを完全に行う力を失ってはいますが、主を知る信仰に導いていただいた者は、その尊い戒めを行う者へと新しくされている途上にあります。だから私たちは、世にある様々なマナーとか作法とか、そういうものに従うべき時ももちろんあるとは思いますが、私たちの行いの根柢、根っこには、人を造られた主の御心を示す戒めがあることを覚えましょう。それに基づいて歩む者とされているからです。神への愛と隣人への愛。これを行うことは簡単なことではありませんが、人間の限られた知識や経験ではなく、生ける神の教えに生きる者とされているのです。


  3.生涯心から離すことなく

 このような優れた掟、戒め、道徳の基準を与えられている者は、それを後の世代にも伝える義務が与えられています。「生涯心から離すことなく、子や孫たちにも語り伝えなさい」と。更に言われています。「それを子らに教えることができるようにしよう」と。民は神の御言葉を聞き、主を畏れることを学び、次世代に教えることができる。このことはとても大事です。主がそのように取り計らってくださるのです。人が行うべきこと、これは十戒に示されています。生涯心から離すことなく、語り伝える。この働きの原動力はどこにあるのでしょうか。掟の内容の素晴らしさに感銘を受けた者が熱心に努めるのですが、その力はどこからくるのでしょうか。

 今、私たちは救い主としてこの世に来られたイエス・キリストを主と仰ぎ、その救いに与ることができます。主イエスが十字架にかかり、私たちの罪の贖いを成し遂げてくださったので、今や私たちは種々の献げ物や犠牲の動物を献げる必要はありません。申命記の段階では旧約(旧い契約)の中にありますが、今の私たちは新約(新しい契約)の民とされています。新約の中にある民の言葉として使徒パウロの言葉を聞きます。彼は、その手紙に書いています。救いの完成に達したくて、それを捉えようとして努めている、と(フィリピ3章12節)。

 それはちょうど申命記で掟を生涯心から離すことなく守り、伝えよ、と言われているのと共通しています。パウロも主の救いの約束を信じ、御言葉を守るべく生涯務め、心から離すことなく歩み続けています。しかしパウロが努めているのは、自分の努力に救いがかかっているからではなく、キリストに捕えられているからだ、と12節で続けて書いています。自分としては懸命に捕らえようとして、生涯離さずに努めているのですが、実はキリストに捕えられていたからなのだ、と。

 だからこそ、聞く力も、学ぶ力も、教える力も与えられます。私たちも、古い掟の遵守から解放されてはいますが、新約の民も、ひたすら注意して自分自身に気をつける必要はあります。見たことを忘れないようにすべきです。心から生涯離すことのないようにすべきです。そのためには、地味な努力も必要です、主はそれを用いられるからです。それが恵みの手段としての御言葉と祈りと礼典です。改めて私たちはこれを努めましょう。これらのことは突然天から降ってくるのではなく、地道な努力と共に主が与えてくださるものです。御言葉には力があり、それを読み、聞こうとし、覚えようとする者の内で働き、力を発揮してくれます。今年の教会の標語「主の御言葉の力により頼む」をこれからも続けてゆきましょう。主がわたしたちを捕えていてくださるから私たちはゆだねてゆけばよいのです。

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