「罪から救われる幸い」2021.12.19
 マタイによる福音書 1章18~25節

 主にあって、このようにしてクリスマス礼拝を皆さんと共にできることを主に感謝します。皆さんも同じように、教会の会堂に集って礼拝をできることを感謝しておられることと思います。この場に来られずに配信によって礼拝に与っている方もおられますが、その一人一人の上にも、主イエス・キリストの恵みと祝福が与えられていることを感謝します。この世で何が起ころうとも、私たちの日々の生活がどのようであろうとも、私たちの住むこの世に、救い主は来られました。人としてお生まれになり、私たちのために、私たちを罪から救うために必要なことを成し遂げてくださいました。その素晴らしい恵みを今改めて覚えつつ、同時にこれまでの歩みを振り返りながら、救い主による救いをいただいていることを感謝して共に御名をあがめましょう。救い主が世に来てくださったことを喜びましょう。


  1.一年を顧みて、自らを省みる - 人の世を思い巡らす

 年末を迎えると自然とこれまでのことを振り返り、いろいろと思い巡らすことが多くなります。一年という一つの単位で月日の流れを考える、というのは、やはり主なる神の天地創造の御業によっています。主がお造りになった太陽や月、地球の動きによって私たちは季節を感じ、年月の移り変わりを感じてきました。もし主がこのような天体の仕組みを造っておられなかったら、私たちは1日、1週間、1ヶ月、1年という単位で時間の流れを感じないで生きていたかもしれません。しかし主は、時間の流れにある区切りを与えて、それを繰り返してゆくごとに、私たちが立ち止まって過去を顧みるようにしてくださったのだと思います。日々の繰り返しの中で、私たちは主の御手によって支えられており、繰り返しつつも前に向かって進んで行く歩みに召されています。そして主には永遠の御計画があり、世界を創造され、やがて神の国を完成する最終目的に向かっています。その中で、私たちは生を与えられ、生かされています。神の創造と摂理を知らないでいれば、偶々この時代にこの国に生まれたというだけになりますが、聖書の教えは違います。

 私たちは偶々この世の今の時代、その国に生まれて来たのではなく、すべてをご存じの神の御心に従ってこの世に生まれてきたのです。それに対して、世界中のあらゆる人々の歴史や、生活状況などを見た時、差がありすぎるという声が出てくるかもしれません。格差、という言葉が使われますが、特に貧富の格差などは、生まれ育った環境や才能等に左右されており、自分の力ではどうしようもないものもあります。神は、そのような格差のある中に人間を落とし込めているのでしょうか。確かに私たちには分からないことがたくさんあります。これは不公平ではないか、という疑問も出てくるでしょう。

 しかし私たちはそれを神のせいにしてしまってはいけない、と聖書から教えられます。神は人間に知恵をくださいました。人間は神のかたちに似せて造られていますから、人間の知恵はある程度神の知恵を映し出してはいます。しかしその人間は神に背いて本来あるべき状態に留まらず、自分でそこから落ちてしまいました。これが聖書の教える堕落です。神によって造られたのに、その状態に感謝して留まらずに背伸びをし、悪の誘惑に負けて偉くなろうとしたのです。この世で私たちが見聞きする不公平、不平等、戦争、環境破壊、様々な不正、悪事全般、などのあらゆる悪いことや悲惨なこと、人為的な事故、そういったものすべてが、人間の罪に根ざしています。


  2.神の御業を知る

 このような様々な問題を古来人間は何とか解決しようとしてきました。そして、文化、学問、教育、芸術など種々の分野で良い物を産み出し、この世の生活がより快適なものになるように努めてきたのです。そして人間は堕落したとはいえ、神のくださった知恵をそれなりに良いことに用いる力を完全に失ったわけではないので、不十分とはいうものの、この世界は今の状態に保たれています。しかし人間の力ではどうにもならない面があることも思い知らされてきました。

 それで、主なる神は人間を罪から救うために救い主を世に送ることになさったのです。そしてこの御計画は、実は人間が神の前に罪を犯し始めた時には既に立てられていました。そして神はその知恵と御計画によって相応しい時代に、救い主をこの世に生まれさせてくださいました。それが先ほど朗読されたマタイによる福音書第1章に記されていたことです。救い主を産んだマリアは、ヨセフのいいなづけでした。ヨセフは、古代イスラエルの王ダビデの血統を引く家系の人ですが、当時の王家の血統は庶民の中に埋没していました。しかしその中から救い主が誕生することを神は旧約聖書で予告してこられたのです。

 そしてその通り時至って、ヨセフの婚約者マリアから救い主は生まれました。ヨセフもマリアも一般庶民で、当時のユダヤを支配していた領主たちとは無関係でしたが、救い主の誕生は神の御計画によるものでしたから、マリアとヨセフは守られ、無事にイエスは生まれました。しかし、この誕生は普通の人の出生とは違って、夫ヨセフにはよらずに神の聖霊によってマリアはみごもったのでした。真の神の御子である方が、真の人となり、この世に生を受けたのです。そしてこの子はイエスと名付けられました。御自分の民を罪から救うからです。

 神は、このように救い主を御自身の計画に沿って生まれさせてくださいました。たまたま生まれたイエスという男の子を、後から神が選んだのではなくて、マリアによって生まれるこの男の子は、初めから神の御計画の中にありました。そして赤ちゃんとして生まれる前から神の御子として存在しておられた方が、この世に降ってきてくださったのです。

 このすべてのことが起こったのは、主が預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためでした。イザヤは紀元前8世紀の預言者です。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」(イザヤ書7章14節)。「インマヌエル」とは、「神は我々と共におられる」という意味です。神は我々と共におられる、という信仰は、実は旧約聖書の時代のイスラエルの人々にとっては、当たり前のことでした。しかし、ここに一人の男の子が生まれる、という出来事を通して、この事実が大変明らかになることを言っています。男の子が生まれることが、その大きなしるしである、とイザヤは預言していたのでした。そしてイエスの誕生によってそれが実現したのです。


  3.主の民としていただき罪から救われる幸い

 神は、人を造り、命を与え、この地上に生かしておられます。しかしその人間は神の御心にきちんと従って歩み続けることができませんでした。それで、人はこの世でさ迷い歩くこととなったのです。しかし神は、神に背いた人間をそのまま見捨てることはなさいませんでした。時を定めて、人の救いを完成する時を御計画なさいました。そして、神は人と共にいてくださるのだ、ということを時至って示されたのです。それがイエス・キリストの御降誕です。ですから、イエスが救い主として誕生したということは、それだけで神が人を顧みて救うことを望んでいることの証しです。

 イエスは救い主としてお生まれになりました。「イエス」とは、「主は救い」という意味です。そしてイエスの誕生は私たちを罪から救うためである、と天使はヨセフに告げました(21節)。「自分の民を罪から救う」とあります。イエスの民とは、別にユダヤ人のことだけではありません。イエス・キリストという救い主は全世界のあらゆる時代の人を対象にしている救い主です。そのあらゆる人々の中から、イエスを信じ、求め、救いをいただこうとして近づいてくる民がいつの時代にもいます。そのような人々は自分がイエスの民であることを自ら表しているのです。

 そして、罪から救うということには、いくつかの面があります。まず罪の結果、神から受けねばならない罰を免れるということです。神は正しく聖なるお方ですから、その裁きにおいて間違うことはありません。神はすべてのことを見ておられます。そして私たちは神の前に出たならば、自分の罪を神の前に言い繕うことは不可能です。ですから、私たちは神の前では自分の正しさなど主張しても無駄です。神の前に自分が罪人だとまず認めること。これが罪から救われるための第一歩です。そして主イエスを自分の救い主と信じ受け入れること。これが最も大事な点です。それによって神から罪の赦しをいただけます。イエスという救い主が私たちの代わりに神の罰を十字架で受けてくださったからです。

 そして罪からの救いは、その人のこの世での生活においても希望を持って歩ませてくれます。この世には人の罪のゆえに様々な悲惨なことが起こってきます。私たちの身の周りに常にそれがあります。しかし、救い主による救いをいただいた者は、そこからも救われています。この世で様々な悲惨に飲み込まれて希望を失ってしまうことがないように守られているのです。しかし、とある人は言うかもしれません。信じている者でも、この世で打ちひしがれて倒れそうになることがあるではないか、と。確かにそうかもしれません。確かに主はこの世に生きる私たちに様々な試練や困難に直面する時を与えられます。しかし、およそあらゆる苦しみを最も受けたのではないか、と思われる使徒パウロでさえ言いました。「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」と(Ⅱコリント4章8、9節)。

 パウロほど福音宣教のために労した人はいないかもしれませんが、主はパウロに非常に多くの苦しみを経験させられました。しかし彼は確かに主イエスによる、罪からの救いを受けていました。もし救われていなかったら、苦しいだけの人生だったでしょう。しかし彼は救われていました。私たちも今、この世に生かされている者として、救い主によって罪から救っていただき、その上でこの世の様々なことの中で主の民として生きることができます。そこには困難も伴いますが、決して失望には終わりません。罪と悲惨はなおこの世にあっても、それに飲み込まれてしまうことはありません。イエスは既に罪に勝利しておられるからです。それを信じ、私たちも今日改めて主イエスを信じ、救いにあずかった民として幸いな道を歩ませていただきましょう。

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