「イエスは神の子、メシアである」2021.12.12
ヨハネによる福音書 11章17~27節

 来週はクリスマス礼拝です。私たちの救い主イエス・キリストの御降誕を世界中が祝い感謝し、神の御名をほめたたえる時です。今日の箇所は、主イエスがマルタを前にして復活のことを語られた箇所で、イースターに語ることが相応しいかもしれません。しかし救い主の御降誕を覚えるにあたって、その御業を顧みる時、最も大きなことはイエス・キリストの十字架と復活によって、私たちの罪の贖いを成し遂げてくださったことですから、この待降節に当り主イエスによる復活を教える御言葉に聞くことは、大変意味あることです。そして、今日の箇所の最後にマルタが言った、イエスは「世に来られるはずの神の子、メシアである」ということ、これを私たちも同じように告白して、既に来られた救い主、メシア=キリストの恵みを今一度感謝して主の御名をほめたたえたいのです。


  1. マルタの信仰

 主イエスが親しくしておられたマルタとマリアの姉妹から、その兄弟ラザロが病気であることがイエスに伝えられた後、主イエスはあえて2日間同じ所に滞在し、その後やっとラザロの所に行かれました。イエスは、ラザロは眠っているので彼を起こしに行く、と言われました(11節)。弟子たちはそれを言葉通りに受け、眠っているだけならラザロは助かるでしょうと言いましたが、主イエスはラザロの死のことを語られたのでした。主イエスは敢えてラザロが死んでからそのもとへと向かわれたのです。

 この主イエスの行動を批判する人が世にはいるかもしれません。たとえ一時的にでも、愛する兄弟が死んでしまうという悲しみをマルタとマリアに味わわせるのは気の毒ではないか、と。もっともな言い分かもしれませんが、しかしそれはやはりイエスというお方が、人の命についてどのような権威を持っておられるかを知らないために起こる疑問です。この世に住む人間にとっては、死は最大の問題であり、その時が来たら人はそれを甘んじて受けるしかありません。しかしそれは平然と迎えられるものではなく、人にとって重大な出来事です。主イエスはそれを軽んじられたのではないことは、後でラザロの墓に行かれた時のことを見れば分かります。主イエスは人の死を軽く見るようなお方ではないのですが、ここではあえて御自身のことを周りの人々に明らかに示すためにこのようになさいました。

 イエスがマルタたちのもとに着いた時には既にラザロは墓に葬られて四日も経っていました。迎えに出たマルタは、もしイエスがここにいてくれたなら、ラザロは死ななかったでしょうに、と告げます。しかし、イエスが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、今でも自分は承知していますと言います。主イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタは、今ここでラザロを生き返らせてくださることではなく、遠い将来、終わりの日の復活の時に復活することは知っている、と答えました。ですからマルタは、死人の復活そのものは信じていても、目の前でイエスがラザロを生き返らせてくださることまでは考えていませんでした。それでもマルタは、人は死んでもやがて復活に与れることを信じていましたし、イエスが神に願うことは必ずかなえられることも信じていました。彼女はイエスと、死人の復活について、かなり深い知識を持っていたとは言えます。


  2.イエスを信じる者は、死んでも生きる

 しかし、この時点のマルタの信仰は彼女の素朴なイエスへの期待と信頼が示されている、と言えるでしょう。主イエスもマルタの信仰についてご存知であり、いちいち咎めることはなさらずに御自身の御業を見せていかれます。主イエスのなさり方は、私たちもよく覚えておきたいものです。相手の信仰が未熟で、理解不十分な面があるとしても、その人を更に力強く神の恵みのもとに引き寄せ、その足りない所を咎めるのではなく、もっと高い信仰へと引き上げられるのです。そしてそれを見たその人が自分で悟り、神の大いなる恵みと力をより深く知るようになさったのです。

 しかしそのようなことを知る由もないマルタは、信仰はあるものの、今イエスが目の前でマルタに問うていることについて、自分が知り信じている範囲で精一杯の答えをしました。それで主イエスは、終わりの日、つまり今の世が終わり、新しい神の国が完成するその時のことを信じているマルタに対して、非常に大事な真理を告げられます。

 ここで主イエスは、「生きる」ことと「死ぬ」ことについて、二つの意味で語っておられます。「わたしを信じる者は、死んでも生きる」とはたとえ肉体は死んでもやがて復活することを指しています。そして「生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」の「生きていて」は今この世で生きていてイエスを信じる者は決して永遠の命に与らずに復活の命を受けないままで滅びてしまうことはない、という意味です。主イエスはこの短い言葉の中に、大変深い命についての教えをこめて語られたのでした。マルタの返事は、主イエスの言われたことが十分にわかっていたのかどうか、良くわかりません。恐らく、先ほど言ったようには理解できていなかったと思われます。それで、とにかく彼女はイエスが世に来られるはずのメシア=キリストだと信じている、と告白したのではないかと思います。生きることと死ぬことについての二重の意味を込めたイエス様の言葉の意味は良く分からなかったかもしれないけれども、とにかくあなたは救い主、この世に来るべき方である神の御子キリストだ、と言ったのでしょう。


  3. 世に来られるはずの神の御子、メシア=キリスト

 この言葉だけ見ると、マルタの信仰告白は実に立派で、イエス・キリストについての真理をそのものずばり表しています。ここでマルタが言った告白を順に見てみます。まず世に来られるはずの方であること。世に来るべきであり、世に来られることが神によって計画されていたということです。この世には来たるべき方がおられる。全ての人類が、本人が自覚してもいなくても、必要としているお方です。今、まさに私たちは待降節を過ごしておりますが、イエス・キリストという救い主が、この世に来られるはずの方、来るべきお方、世のすべての人が待ち望むべきお方なのです。

 もし私たちがこの世で生きていて、そのような方がおられないとしたらどうでしょうか。神は人を創造してこの世界に住まわせはしたけれども、人が神に背いてしまったときに、神はそのような状態に陥った人間を救う手立てを用意していなかったとしたら、どのようにしてそれを解決すべきか、神はまだ計画を立てておらず、あるいはどうしてよいか思案中だとしたらどうでしょうか。それだけではなく、もし神がそのこと、つまり神に背いて罪を犯し、神が本来考えていた状態から堕落してしまった人間の救いについて、真剣にお考えになっていなかったとしたらどうでしょうか。神は私たち人間の救いについて、あまり関心がないとしたら。何と憐れみと慈しみの乏しい神でしょうか。

 しかし真実はそうではありませんでした。神が造られた人は、その自由な意思によって神に背いてしまう可能性がありましたので、人は堕落してしまいました。しかし神は、罪を犯して堕落してしまった人間の罪を赦し、その状態から引き上げて、罪と汚れを取り除き、神と共に永遠に生きる者にしようとされたのです。そこに神の愛と憐れみと慈しみが豊かに示されています。これ以上の愛と憐れみと慈しみはありません。  そしてマルタの告白の二つ目は、イエスこそ、世に来られるはずの神の子、メシア=キリストであることです。世に来られるはずと言っても、その方が、何の権威を持ち、何ができるのかが重要です。来るには来たけれども、人間を救う力がなければ意味がありません。救う力と資格がなければ罪人を救うことなどできません。しかも全世界の古今東西のすべての人を対象として救える救い主が私たちには必要だからです。その資格は、この世界を造られた神のお墨付きであり、力は神の全能の力であり、それを見に帯びているのがイエス・キリストなのです。  今、私たちは既にこの世に来るべき方として神の御子、キリストを迎えました。そしてこの地上で救いに必要なことを成し遂げて天に帰られたそのキリストが再びこの世に来られるのを待ち望んでいます。私たちはこの地上ではまだ、罪の中に足を突っ込んでいますので、この世は天国ではありません。しかしやがては全ての罪と汚れが一掃され、新しくなる時が来るのを待っています。今この世界を見回すと、やはりこの世には人間の罪がある、ということを私たちは信仰の目ではっきり見ることができるのではないでしょうか。人が人を貶め、誹謗中傷し、死に至らしめる。不注意や不誠実によって様々な過ちや事故が起こり、誰かが被害を蒙る。そしていくら注意していても人間は過ちを犯しますし、いつ誰が被害者、加害者になるかもわからないような世の中です。自分の気持ちすらもコントロールできなくなってしまう人もいる。それは他人事だとは言い切れないかもしれません。人間の努力や注意や対策も必要ですが、もしそれだけだったら、何と頼りないことでしょう。しかしこのような罪と悲惨の世の中に、神は人の堕落後から既に働きかけてきてくださり、人が誰を信じるべきかを預言者たちを通し、ついには神の御子によって示してくださいました。そして今日も聖書を通して、語り続けておられます。この世に救いの光を掲げてくださいました。

 神の御子キリストが来られたのに、この世の罪の問題は解決していないのでしょうか。いいえそんなことはありません。人が神に立ち帰り、悔い改めてへりくだり、イエスこそ私たちの救いである、と信じ告白する人が起こされていくこと、常に神の御言葉に聞く人々がおり、聖書の御言葉の光が輝き続けることを通して、神の御業は広がっていることを信じましょう。罪の力は私たち一人の力ではどうにもならないように見えます。しかし神のキリストの前では罪の力は打ち負かされています。罪に勝利しておられる神の御子イエス・キリストに今こそより頼みましょう。

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