「誰一人として失われない」2021.11.7
 ヨハネによる福音書10章19~30節

 救い主イエス・キリストは、国や時代を超えて御自分の羊をみもとに引き寄せられます。それはイエスというお方が、世界の中の一民族であるユダヤ人のためだけにこの世に来られた救い主ではないこと、全世界に対して、天の神が与えられた救い主であられることを示しています。ですから当然、今日の日本人にとっても同じです。


  1.イエスを巡る対立

 主イエスは、御自分がこれから十字架にかけられることをご存じでしたから、命を捨てる、と言われ、しかしそれを再び受けることになる、と言って復活を予告されました。それは父なる神から受けた掟でした。イエスはユダヤ人の知っている神のことを御自分の父と言っておられたわけですから、これを聞いたユダヤ人たちの間に対立が生じます。主イエスの御言葉を聞いて、すべてのユダヤ人が受け入れずに反対したわけではありません。ある人たちは、イエスは悪霊に取りつかれて気が変になっていると言いますが、ある人たちは悪霊に取りつかれた人に盲人の目が開けられるはずがないし、イエスの語る言葉を聞いて、それが悪霊に取りつかれた人の言葉とは思えない、と言います。

 これを考えると、主イエスその方が人々の前にその姿を現し、直接お語りになったにも拘らず、人々の間には正反対の反応があることがわかります。今日、イエス・キリストは神の御子、この世界に与えられた唯一の救い主である、と教会が告げ知らせる時、なぜそんな言葉に耳を貸すのか、と思う人もいれば、福音書に書かれていることをイエスが語り行ったのだとすれば、イエスは何か特別な存在だったのではないか、と思う人もいることは、当たり前と言えるでしょう。いつの時代でも、主イエスに対する反応は、このように極端に分かれます。それは、主イエスは誰でも受け入れられるような当たり障りのないことを語らないからです。世の中には、誰でも思いつくような道徳的な教えがあります。それは良いものではありますが、どの時代に誰が言ってもそれほど変わらないとも言えます。主イエスの言われることは、他の誰も言わなかったこと、他の人では言えないことがたくさんあります。それは、目新しい教えをただ述べたのではなく、イエスというお方がどういう存在であるか、にかかっているからです。

 ですから、イエスの言われることは、とても簡単には受け入れられない、という反応を一方で引き起こします。しかし同時に主イエスの語られることは、決して複雑なものではなく、明快な単純なものです。自分は神のもとから来たのだから、私に聞きなさい、私を信じる者には永遠の命がある、というのです。明快単純なものであるけれども、他の誰も言わなかったこと、言えなかったこと。これを語られたのが主イエス・キリストなのです。


  2.イエスの羊かそうではないか

 そして、別の時のことが22節以下に記されます。いつまで私たちに気をもませるのか、とユダヤ人たちが質問します。ここで言われている神殿奉献記念祭とは、紀元前2世紀の前半、シリアの王アンティオコス4世エピファネスがエルサレム神殿を荒らして汚したのですが、マカバイのユダがこれを回復したという紀元前165年の出来事を記念して行われてきたものです。それは旧約聖書続編のマカバイ記一に記されています。続編は、神の言葉の権威を持たないもので、私たちの信仰と生活の規準とはなりませんが、歴史的事情を知るための資料にはなるので、新約聖書に書かれている出来事の背景を知るために助けになります。

 さてユダヤの人たちは、イエスが悪霊に取りつかれて気が変になっている、と決めつけましたが、実はやはり気になっていて、自分がメシア、つまりキリストであるならはっきり言いなさい、と言います。しかしこれは質問というよりも命令です。イエスがそう言ったからと言って、信じるつもりではなく、態度をはっきりしろ、それによってこちらが判断する、と言っているわけです。こういう態度では、イエスのことを正しく認めることなどできません。

 しかし主イエスは言われます。私は既に言っているがあなたがたは信じない、と。それはイエスの羊ではないからだと。ここでも、羊飼いと羊のたとえを用いられます。羊である信者たちは羊飼いであるイエスの声を聞き分けます。そして主イエスは羊たちに永遠の命を与えます。結局、ある人がイエスの羊になれるかどうかは、イエスの羊となっているかどうかの違いであり、人ではなく、神の側にかかっているのです。そうすると、次のような声が出てくるかもしれません。自分はイエスの羊になりたいのに、いくら望んでも元々イエスの羊になっていないのなら、どう頑張っても無理ではないか、いくらまじめに信じようとしても無理で、救われないのか、と。こういう理屈が出てくるかも知れませんが、実は違います。もしもある人がイエスの羊になりたいと本当に思うなら、その人はイエスの羊とされていたのです。そもそもイエスの羊でない人がイエスの羊になりたいとは思わないからです。しかし、今、イエスの羊になりたいとは思っていない人がいたとして、その人がイエスの羊ではないと、今、私たちが決めつけることはできません。そうでなければ、主イエスは福音を告げ知らせよとは言われないでしょう。福音を聞いて罪を知り、悔い改めて神に立ち帰ることを主は命じておられます。御言葉を聞いて、自分も救われたい、イエスの羊の中に入れていただきたいと心から願う人は、誰でもイエス・キリストによって招かれているのであって、イエスの羊の中に入れていただけるのです。


  3.イエスによって救われた神の民は決して失われない


 こうして主イエスは御自分の羊を知っており、羊たちはイエス・キリストに従います。それは聞いた瞬間に直ちに信じるとは限りません。むしろそうではない場合が殆どかもしれない。しかし初めて聞いた時から何か引き付けられていた、ということはあるでしょう。それは信じた方が皆知っていることです。そして羊飼いである主イエスは、羊たちに永遠の命を与えてくださいます。イエスの羊である者たちは、父なる神が御子イエスに与えられた者であり、イエスの手から誰も決して奪うことができません。

 こうしてイエスを神の御子、神から来られた救い主と信じる者たちは父なる神と御子イエス・キリストの手から奪われることは決してありません。このことを、後に使徒パウロは手紙に書きました。「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か」。「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、他のどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、私たちを引き離すことはできないのです」(ローマの信徒への手紙8章35、38節)。ここでパウロは、キリストにおいて示された神の愛、という角度から述べていますが、ヨハネ福音書の方では、父なる神が御子イエスに与えられた者は奪われないと言っており、違う角度から同じことを言っているのです。

 ヨハネ福音書の29節の翻訳は、新しい聖書協会共同訳では「私に彼らを与えてくださった父は、すべてのものより偉大であり、誰も彼らを父の手から奪うことはできない」となっています。ここの本文が重要な写本によって、ほんの少しの文字の違いがあり、新しい訳では採用した本文が異なるので、このような違いが出てきます。父なる神がすべてのものよりも偉大であることは分かり易いです。父なる神が御子イエスに与えられたものが全てのものより偉大である、というのが少ししっくりこないので、新しい訳の方が良いようにも思えますが、どちらにしても、御子イエスのものとしていただいた者、つまりイエスの羊たちを誰も奪うことはできない、という点ははっきりしています。

 そして、神の御子イエスと、父なる神とは一つであられます。お考えになること、行うこと、その目的は一つであり全く同じです。父なる神がイエスの羊としてお選びになってイエスに与えて託された羊は、決して滅びることはないし、誰かによって奪われることもない。必ず永遠の命を受けることができます。

 そして、これは私たちの力や功績にはよりません。全く神の恵みによっています。自分が救われたのは神の恵みだけれども、その恵みの内に留まっているかどうかは自分たちの心がけ次第と言われたらどうでしょうか。せっかくイエス様の十字架の贖いによって救われたはずなのに、神の御心に適うように歩まなかったので途中で神の国に入る資格を失ってしまうかもしれないのでしょうか。私たちの救いはそういうものではありません。主の民、主のイエスの羊は、決して失われないのです。私たちは主イエスを救い主と信じることと共に、この点もはっきりと信じているべきです。先ほどのローマの信徒への手紙にありましたように、この世にあるすべてのもの、目に見えるものも見えないものも、何であれ父と子と聖霊であられる神様以外の者が、私たちから永遠の命を奪うことはできません。そしてこのことを知り、信じた者は、信仰の道で怠けだすのではなく、むしろいっそう主に従って羊飼いの声を聞いて、神の国への道を力強く歩み続けるのです。

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