「私は主を待ち望みます」2021.11.28
 詩編38編2~23節

 今年もクリスマスを前にして、待降節を迎えました。アドベントとも言います。救い主イエス・キリストがこの世に生まれになったこと、つまり降誕の時を待ち望む時期です。既にイエスははるか2,000年の昔にお生まれになって、30数年の地上での御生涯の中で、人々に神の御言葉を語り、神の力による御業をなさり、御自身が神の御子、救い主であられることを示されました。そして地上の生涯の終りに十字架につけられ、私たちの罪の償いのために御自身を献げてくださいました。そして十字架で死なれましたが3日目に復活され、天に昇られました。そして再びこの世に来られると約束されました。今、私たちはその時を待ち望んでいます。待降節は、救い主が降誕されたことを感謝し祝うこの時期、クリスマスに向けて備えをするという面と、再びこの世に来られるキリストを待ち臨む信仰の新たな備えをすることの両方の面を持っています。


  1.すべては主の御前にある

 今日はこの詩編38編から、主を待ち望む信仰者の姿を見て、私たちもまた、主を待ち望む信仰に生きているかどうかを顧みさせていただきます。そしてその信仰を新たに確かなものとしていただけるように祈るものです。しかしそれは、ただ私たちの信仰の姿勢を正すということではなくて、主なる神こそ、私たちが待ち望むべきお方であることをよくよく知るということに土台があります。いや、私たちが知るというよりも、主がそういうお方である、という点に私たちのより頼むべき根拠があるのです。

 ところでこの作者は、大変な状況の中に置かれています。この詩編は待降節に読まれるような詩編ではないと思われますが、ただ一点、主を待ち望む信仰に立っているということで、今日、この詩編に聞こうとしています。

 作者は主に対して罪を犯した者であることを自ら告白しています。しかも非常に重い罪であり、罪悪は頭を越えるほどであり、耐え難い重荷となっています。体も心も大変酷い状態で、骨にも肉にも、体にはまともな所がありません(4節、8節)。この描写は、苦しみを象徴的に表したものというよりは、やはり文字通り心身に受けた苦しみを表していると言えるでしょう。

 打ち砕かれて心は呻き、うなり声をあげるだけです。そんな状態に陥った経験のある人がどれだけいるでしょうか。そして先を見れば、作者が疫病にかかっていることが明らかになります(12節)。そしてその原因は、自分の過ちであり、愚かな行いであると言っています。

 この作者はこのように自分の罪深さを十分に知っているのだけれども、それでも神に対する信仰を失ってはいません。自分の願いはすべて主の御前にある、と知っており、呼び求める者に答えて下さる方であることを信じています。


  2.主を待ち望まない者たちの中で

 それが、この人の周りにいる人々との違いです。この作者は、疫病、つまり伝染病にかかって、親しい人からも遠ざけられている苦しみを味わっていますが、今日の新型コロナウイルスによる様々な影響を思い出させます。古来、伝染病はいつの時代でもかかった人を苦しめ家族を苦しめますが、今日では、感染しているわけでもないのに、その治療のために尽力している人の子どもたちに対して保育園に来ないでほしい、などという扱いを受けている、ということも以前ニュースで聞いたことがあります。この詩の作者にとって、愛する者も友も自分を避けており、近い者、恐らく家族でさえ遠く離れて立っていると言います(12節)。そういう態度は、もちろんその人に対する思いやりの気持ちがなく、自分たちさえ感染しなければよいという考え方があり、感染した人の治療のために尽力している人への感謝のかけらもないからですが、この詩に登場する人々と共通する面があります。それは、すべてを見ておられる生ける神に対する視点がないことです。しかし今日、神を信じていなくても人に対する思いやりを持ち、犠牲的な働きをしている人はいます。そういう人々にも神による、相対的な善を行わせる御力と恵みが働いているからです。

 この作者の周りにいる人々は、疫病に罹ったこの人を遠ざけるだけではなく、命を狙いさえしています。破滅させようとさえします。これもまた、今日あちらこちらで起こっているのではないでしょうか。命の主である方がおられる、という信仰からは程遠い所ではこのような行いも出てくるのです。


  3.あくまでも主を待ち望む信仰に生きる

 この詩を作者は一体いつ、どのような状況の中で書いたのでしょうか。詳しいことはわかりませんが、今、その苦しみのただ中に置かれているように見えます。また作者は、苦しみは自分の過ちと罪悪のゆえだと認めています。

 そしてこの詩の重要な点は、作者がこれほどに自分の罪と過ちの報いを受けているのを認めつつ、それでも主の憐れみを期待して助けてください、と祈り続けていることです。それは、この人は自分の罪深さを知っているけれども、その自分の状態を神の前で見ることができているからです。この人がもし神に逆らうことに何の呵責も感じず、神に背くことを平気で行っていたのだとしたら、このような苦悩には陥らなかったでしょう。しかしこの人はなお、神の前にへりくだり、罪の赦しを求める信仰者でした。そこに希望があります。人は神の前に罪を犯してしまいます。それが本当に罪であり、神の前に、神の怒りをかうものであり、それを贖わない限り赦しは与えられないことを知る者は、ひたすら主に祈り願うしかありません。主は厳しく罪を裁く方であるけれども、同時に憐れみ深く、慈しみに満ちた方であることを旧約聖書は教えています。決して神は恐ろしい審判者であられるだけではありません。だからこの作者も主を待ち望むことができたのです。

 さて、今日の私たちはどうでしょうか。日々の暮らしの中で、待ち望むものはあるでしょうか。神を知らず、神を求めずに生きているとしたら、漠然と状況が良くなることを待ち望むのでしょうか。優れた政治指導者が登場して、世の中を明るく公平で、生きていくのが楽で、楽しくなるような社会を築いてくれるのを待つのでしょうか。しかし今の政治状況を見ていれば、そんなことは夢のまた夢のように見えてきます。だからと言ってクリスチャンは、為政者のために祈らないわけではありませんが、人への期待には程度があります。

 今、救い主の御降誕の時に備えて待ち望む時を過ごしますが、同時に再び来られる主を待ち望む時だと初めに言いました。しかし主を信じる者は、クリスマス前のこの時期だけが主を待ち望む時ではないはずです。私たちは日々主を待ち望んで歩みます。病の中にある人は、癒しと健康を求めます。クリスチャンとて同じです。仕事に良い結果を求めるなら、その結果が出るのを待ち望みます。試験の結果や検査の結果が良いものであることを願い、合格か不合格か、健康か病気か、企画の提案が採用されるか否か、など色々待ち望むことがあります。就職も結婚も、試験も検査も、特に何もなくて結果を待つわけではない、という方も、日々の生活の中で実は主を待ち望んでいるのです。

 私たちの罪の赦しは救い主イエス・キリストのご降誕と、その生涯、十字架と復活によって与えられます。既に救い主はお生まれになり、私たちの罪の赦しと救いに必要なことは成し遂げてくださったのですから、私たちはそれを受け取るだけであり、受け取れます。今こそ私たちは、この待降節に当り、私たちの重荷をすべて担い、罪を担い、償いを成し遂げ、私たちの代わりに罪の赦しを勝ち取ってくださった救い主イエスに改めてより頼む時です。その信仰を再確認する時です。そして、やがて再び世に来られて私たちの救いを完成される時を待ち望みます。私たちの弱さや罪のゆえに自分に嫌気がさしたりすることもあるかもしれません。しかし主を待ち望むなら望みはあります。主は祈り求める者に答えてくださいます。

 そして私たちが主を待ち望むという時、日々力づけ、御言葉に目と耳を向けさせて悟らせてくださる聖霊の恵みを待ち望みます。私たちの思いや考え、意志をも導いてくださり、強めてくださり、祈りに答えてくださるのを待ち望みます。私たちはこの世で日々、そのようにして待ち望むことを繰り返し、そしてやがて来るべき神の国を待ち望むのです。この作者のように、大変厳しい状況の中で自分の罪と過ちのゆえに苦悩しているわけではなくても(19節)、日常の生活で主を待ち望むのです。心から信頼して主を待ち望む者に、必ず主は伴ってくださって御自身の恵みと憐れみと慈しみを示してくださることを信じて、なお歩み続けましょう。

コメント

このブログの人気の投稿

「聖なる神の子が生まれる」2023.12.3
 ルカによる福音書 1章26~38節

「キリストの味方」2018.1.14
 マルコによる福音書 9章38~41節

「主に望みをおく人の力」 2023.9.17
イザヤ書 40章12~31節