「神と人との仲介者」2021.11.21
 民数記 11章1~15節

 私たちと神様とは、大きな隔たりがあります。その大きな隔たりは、どうしたら埋めることができるのでしょうか。今日の箇所では、モーセが神と人との間に立って、非常に苦しんだ姿が描き出されています。そのことを心に留めながら、私たちと神様との間を取り持つ仲介者について教えられている神の御言葉に聞きたいと思います。


  1.人は人の罪を担い得ない

 人は神から、他の動物とは区別された知恵を与えられました。しかし、神の戒めに背いて堕落したことによってその知恵を神の御心に適って、正しく適切に用いることができなくなってしまいました(創世記3章)。そのため、神に背き、自力で何でもできると思い込み、神の前に高ぶるようになったのでした。そして困ったことがあると不平不満を口にし、神にぶつけます。世の中には確かに不公平や災い、苦しみや悲しみ、困難なことが常に起こってきます。それは元をたどれば神に対する罪のために起こるのですが、それを弁えない人間は、神に文句を言います。罪のゆえに不正がはびこり、不公平が生じてきて、ある人々がより悪影響を被ることがあるのは確かです。しかしそれはあくまでも人間のもたらした罪のゆえであり、神のせいにはできません。むしろ神はそのように堕落してしまった人間にも、変わらず様々な恵みを注ぎ、この世での生活を維持できるようにしてくださっているのです。

 民数記11章には、そういう身勝手な人間の姿が描き出されています。民とは、モーセに率いられてエジプトから脱出させていただいたイスラエルの人々です。イスラエルの民はエジプトで長年にわたって虐待され、奴隷生活を送ってきました。その苦しみを主に訴え続けてきたのですが、主がその苦しみ叫ぶ民の声を聞いてくださって、モーセを立てて導き出してくださいました。そして紅海で海を二つに分けてイスラエルの人々を渡らせてくださり、エジプト軍の追撃から助けだしてくださった話は、映画にもなっているくらいの大変有名な出来事です。

 民はせっかく奴隷の地、エジプトから助け出していただいたのに、感謝することを忘れ、荒野の旅の辛さのゆえに、不平不満を口にします。荒野の旅ですから食べ物も飲み物も十分にあるわけではなかったからです。それに対する主の怒りが燃え上がったことが一節に書かれていますが、この時はモーセの祈りによって主はその怒りを治めてくださいました。しかし4節によると、民に加わっていた雑多な他国人が飢えと渇きを訴え、イスラエルの人々も再び泣き言を言いました。他国人は、イスラエルの人々とは違って神に対する信仰をどれだけ持ち合わせていたのかわかりませんが、その人たちの声に応答するようにイスラエルの人々も泣き言を言ったのですから、信仰を持つ民も、信仰を持たない人々の訴え等に動かされ易いことの一例と言えます。神への感謝より、まず不平を口にしてしまうのです。

 人々の訴えは、肉や魚、野菜、果物など、エジプトで食べていたものがここでは食べられないというものです。奴隷としてこき使われていたのですが、それでも食べるものは与えられていたのだから、今自由にはなったものの、食べ物がないこの荒野の旅よりはエジプトにいた方が良かった、と言うのです。せっかく助け出していただいたのに、既に感謝の心を失っています。「マナ」は、荒野で不平を述べた民のために主が天から降らせてくださった食べ物で、毎朝地面に露のように落ちて、それを取って食べることができたもので、日が昇ると溶けてしまいました(出エジプト記16章)。人々は毎日それをいただいていたのです。しかしそれに飽きてきてもっといろんなものが食べたいというわけです。再びこういうことが起きて、主が激しく憤られたので、モーセは苦しみました。


  2.神と人との仲介者

 モーセは何故苦しんだのでしょうか。モーセは、初めから主とやり取りをしていまして、主が民をエジプトから助け出そうとしている御心を聞いていましたし、そのために自分が特別に立てられたことも知っています。何よりも、主御自身が民を助け出そうとして熱心に働いて来られたことを知っています。そしてこの働きはモーセがやりたくて始めたことではありません。主に選ばれたモーセは、初めはこの務めに就くことを断っていました。自分は話すことが苦手なので誰か他の人にしてくれと。しかし主に説得されてモーセはこの務めを受けたのです。それにも拘らず民は主を敬わず、感謝もせず、そして主はそのような民を憤っておられる。自分に責任はないのに、神と人の間に立って、なぜ自分はこんなに苦労しなければならないのか、と言いたいわけです。

 11節から15節には、そのようなモーセの思いが語られています。自分がこの民を生んだわけではない。このような民を自分一人ではとても担いきれない、重すぎますと。ここにはモーセの偽りない気持ちが良く現れています。「わたし一人では、とてもこの民すべてを負うことはできません」というモーセの言葉を受けた主は、イスラエルの長老たちの内から70人を集めたなら、その者たちにモーセに授けてある霊の一部を取って授けると言われました。モーセが70人を集めると主はモーセに授けた霊の一部を取って70人の長老たちにも授けられました(25節)。

 こうして、モーセの訴えによって主は他に長老たちを立ててくださいましたが、そもそもモーセが選ばれたのはなぜでしょうか。それは、人と神との間には大きな隔たりがあって、人は簡単には神に近づくことはできないからです。それで、主がお選びになったモーセにまず主がお語りになり、その上でモーセが人々に語るという方法を主が取られたのでした。また、モーセのような仲介者が立てられることによって、まず主の御言葉が正しく伝えられます。仲介者がいないと、みながてんでに自分勝手なことを言い出します。そしてどうすることが主の御心に適うことなのかが分からなくなってしまう。それを避けることができます。そして、特に賜物を授けられた人が、選び出されてモーセと共に重荷を担うことになりました。やはり、共に重荷を担う人は、誰でもよいわけではなく、その務めに合う人を立てる必要があります。主は必要に応じて各種の賜物を人々に分けてお授けになりますが、それは今日も同じです。


  3.恵みによって仲介者とされる

 さて、モーセの訴えによって主は70人の長老たちを立ててくださいましたが、では、彼らが負うことのできる重荷とは何でしょうか。それは民の不平や不満を聞いてそれに対して対処し、主の御心を正しく教え、必要ならば民を正して、過ちを認めさせ、主の御心に従って歩めるように教え導くことです。これだけでも大変な仕事です。それが十分にできたとしても、モーセや長老たちは、やはり人間であり出来ることには限度があります。霊を分け与えられた長老たちは預言状態になりました。預言とはこの場合は神の御心を告げ知らせることのできる特別な状態ですが、続くことはありませんでした(25節)。永続的なものではなかったのです。それでも、人々の訴えをきっかけにして、主はモーセと共に民の重荷を担う長老たちを起こしてくださいました。このことは、この世においては、主の民の中に、選ばれて民の声を聞き重荷を担う役割を当てられる者が立てられることを教えています。そして同時に、選ばれた人たちは務めを行うために霊の働きを授けられたのですが、それには限界があったことも示されています。

 初めに一人で立てられていたモーセは、旧約聖書の中の最大の預言者であり、主イエス当時のユダヤの指導者たちは、自分たちはモーセの弟子だ、というほどでした。しかしモーセも一人では民を担うことはできませんでした。このことは、私たちにはもっと優れた、十分に私たちの重荷を担ってくださる仲介者が必要であることを教えています。そのような仲介者こそ、モーセよりもはるか後の時代にこの世にお生まれになった救い主イエス・キリストです。この仲介者は、神の御子、という神の身分を持ちながら人となって、神と人との間に立ち、仲介者となってくださいました。

 主イエスは、民の訴えを聞いて神にとりなすだけではなく、民の最大の重荷である罪を担ってくださいました。イスラエルの民が荒れ野で不平不満をつぶやいたのも、人の内に罪があるからです。それゆえ人は神に対してつぶやき、本来感謝しても仕切れないはずのものをいただいているのに感謝せず、今目の前にないものを求めて文句を言うのです。そのように神の恵みを悟らず、感謝せず、神に不平をぶつけること、それが民の罪であり、民の重荷です。それは仲介者である神の御子イエス・キリストが罪の償いをするという仕方で取り除かれることとなりました。

 今日、このイエス・キリストを神と人の唯一の真の仲介者としていただいているのが、主イエスを信じる主の民です。そしてこの仲介者をいただいた者も、今度は他の人々のために。仲介者の一端を担う務めを授かります。もちろん他の人の罪を償うことはできません。ただ、真の仲介者イエス・キリストのもとへと導くために祈り働きかけ、訴えを聞くことです。つまりモーセをはじめとして立てられた70人の長老たちのような立場です。私たちも欠け多いものであり、限られた知識と力しかありませんが、主イエス・キリストにゆだねることができます。

 今日、主イエスを信じる者は、特に自分が心にかけている人、重荷と感じる人、その重荷を担うべく備えられている人のために祈り、神への執り成しの祈りを献げることができます。モーセは「わたしは、主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望しているのだ」(29節)と言いました。これは紀元1世紀の初代教会で起こった聖霊降臨で実現しました。賜物の違いはもちろんありますが、主イエスを信じる者には聖霊が与えられています。そうであれば、神の御言葉を他の人に取り次ぐ働きもさせていただけます。罪の償いという最大の重荷は主イエスが担ってくださいました。今日の私たちには、その主イエスのもとへと人々を導く役目が与えられているのです。それはモーセが嘆いたように、一人では負いきれません、重すぎます、と言う必要はありません。モーセはその務めが重すぎて苦しみましたが、もはや人の罪は主イエスが担ってくださいました。私たちにもそれぞれの重荷は確かに与えられますが、主がくださる聖霊によって私たち自身を担ってくださいます。このことを信じて、今日私たちは神と人との真の仲介者なるイエス・キリストの恵みによって、他の人のために仲介者の役目の一端を担わせていただくことができるのです。

コメント

このブログの人気の投稿

「聖なる神の子が生まれる」2023.12.3
 ルカによる福音書 1章26~38節

「キリストの味方」2018.1.14
 マルコによる福音書 9章38~41節

「主に望みをおく人の力」 2023.9.17
イザヤ書 40章12~31節