「聖書は決して廃れない」2021.11.14
 ヨハネによる福音書10章31~42節

 私たちは今日、主イエス・キリストを肉眼で見ることはできません。天の父なる神は、なおさら見ることができません。神から直接遣わされた預言者たちもいません。しかし、一人一人が手に取ることのできる聖書があります。これは本当に感謝すべきことです。主なる神は、この世を生きる私たちに聖書が必要であることを御存じであられ、そして聖書が私たちを導き教えるものとなるように、実にいろいろな手を打ってくださっています。聖書が廃れることはあり得ない、と言われた主イエスの御言葉を聞きましょう。


  1.自分を神とするイエス

 主イエスが「聖書が廃れることはあり得ない」と言われたのは、イエスに対して、ユダヤ人たちが「神を冒瀆したからだ。あなたは人間なのに、自分を神としているからだ」と言ってきたからでした。主イエスは、御自分は「父」すなわち神のもとから来た者であって、しかも自分と父とは一つである、と言われたわけですから、この言葉はユダヤの人にとっては聞き捨てならないものでした。そして、自分を神としている者は、石で打ち殺されるべきものだ、というのです。実際、旧約聖書には、神を冒瀆した人が石で打ち殺されたことがありました(レビ記24章19~23節)。この時には、当人はしばらく留置されており、主御自身の判決が主からモーセに伝えられたのでした。

 旧約聖書を信じるユダヤの人たちは、神と人間との大きな隔たりを知っています。天地の創造者と、塵から造られた被造物、聖なる正しい方と、神の前に罪を犯した人間とでは、天と地以上の違いと差があります。イエスを信じない人々は、イエスのことを普通の人間だと思っていますから、その人間イエスが自分と父である神とが一つである、などと言うとなれば、それは神への冒涜だと言うわけです。

 それに対する主イエスの反論は、直接的にイエスの神としての御性質についてのものではありませんでした。聖書の中で人が「神々」と呼ばれている例をまず挙げておられます。これは詩編82編6節です。ここは神から裁きをゆだねられた人たちが、神に逆らう者たちの味方をして、公正な裁きをしていないことをとがめている所です。新共同訳は「あなたたちは神々なのか」と疑問文に訳していますが、ここは大抵の翻訳が「あなたがたは神々だ」のように訳しており、疑問文にはなっていません。神から裁きをゆだねられた人々が神々だ、と言われるのは、あくまでも神からゆだねられてその裁きを正しく行う者たちが、それほどに高められている、ということです。

 それは、旧約聖書が多くの神々の存在を認めているとか、多神教を認めているということではありませんし、人間を神と同列に置いているわけでもありません。その務めの尊さゆえにこのように言っているだけです。主イエスはこの言葉を引用して、旧約時代の裁き人たちが神々と呼ばれるくらいなら、文字通り神のもとから来た神の子である自分が「わたしは神の子である」といったからとて、神への冒涜にはならない、と言われるのです。事実、イエスほど神の子、と呼ばれるのに相応しい方はいないのですから。


  2.イエスの業を信じよ

 そして、続いて主イエスは言われました。もし御自身が父なる神の業を行っているのであれば、私を信じなくてもその業を信じなさい、と(38節)。もしイエスが父なる神の業を行っていないのであれば信じるに足りませんが、そんなことはありません。それでも信じない、というのならば、まずイエスが行っている業を良く見なさい、と言われます。果たして主イエスはこれまで何を行ってきて、これから先何を行われるでしょうか。そもそもここで問題になっている論争は、主イエスが生まれつき目の見えなかった人の目を開けてあげた、ということが発端でした。

 イエスがなさったことについては、行く先々で評判となり、人々は驚いてその御業を見ておりましたが、指導的立場にある人たちほど、なかなか素直に信じようとしなかったことが描き出されています。そこには妬みがありました。自分たちを差し置いて人々からもてはやされている、と思い、要するに気に入らなかったわけです。そういうことですから、イエスのなさることに対してことごとに難癖をつけて批判し、悪霊を追い出してやっているのを見れば、それは悪霊に取りつかれているから、悪霊の親分だからそういうことができるのだ、と言うことさえあったのでした。

 そうではなく、イエスのなさっていることを素直に見て、素直に受け止めていれば、イエスの内には神の力が働いていることがわかるだろう、と言われるわけです。それにしても主イエスは人々に対して大きく譲歩しておられるように見えます。まずは行っている業を見てそれを信じよ、私のことを信じるのは後回しにしてもよい、と言っておられるわけですから。けれども、イエスの業を信じるなら、結局はイエスその方を信じざるを得なくなるなります。素直にイエスの御業を見るなら、21節である人々が言っていたように、悪霊に取りつかれた人にそういうことができようか、と思うはずだからです。そして、イエスの内には神がおられる、確かにこの人は人間としてこの世に生まれて、人間として人々の前にいるが、確かにこの人は神の子ではないか、と悟るようになるでしょう。

 このように言われると人々は再びイエスを捕えようとしたのでした。やはり素直には受け入れない、ということを直ちに態度で表したわけです。


  3.聖書が廃れることはあり得ない  こうして、やはりイエスを受け入れず、捕えようとした人々がいたのですが、他方、イエスを信じた人々も多くいたのでした(42節)。洗礼者ヨハネの言葉も良く覚えていて、ヨハネの言葉と、イエスの業とを突き合わせてみた時に、ヨハネの言葉は本当だったと悟ったのでした。ヨハネはイエスのことを「世の罪を取り除く神の小羊だ」と言いました(1章29節)。また、霊が天から降ってイエスの上に留まるのを見た、とも言いました(1章32節)。神が特別にこの世に送られた方だ、と言っていたのです。

 イエス・キリストと同時代の人には、このように、洗礼者ヨハネという非常に重要なイエスについての証言をする人が立てられておりました。直接大きな声で語り、人々に迫ってくる仕方でヨハネは力強く語っていました。では、今日はどうでしょうか。洗礼者ヨハネのように直接イエスのことを目で見て、耳で御言葉を聞いた者たちや、イエスの弟子たちも既にこの世にはいません。しかし、彼ら以上に力強く語る神の御言葉があります。聖書があります。そしてこの聖書が廃ることはあり得ません。なぜかと言えば、 

    聖書はそこで神が語っておられるからです。もちろん神が直接語られた言葉だけが記録されているわけではなく、そこには人間の言葉も、場合によっては悪人や悪魔の言った言葉さえも記されています。それでも、聖書の全体は神がその息を持って吹き出されたものなのです。それは神様が呼吸をしているということではなく、神の霊が、このような形をとって聖書としてこの世に姿を現すようになさったということなのです。非常に多くの人々を用いて、様々な種類の形式を用いて聖書は記されています。

 今日の箇所では主イエスは直接的には旧約聖書のことを指して言っておられますが、後にこうして福音書としてイエスの言動が記録されることになり、これもまた新約聖書として私たちに残されました。先ほど見たように、イエスが御自分のことを神の子であると主張された時に引用された詩編82編のほんの一節の言葉も、聖書全体の中でイエスというお方との関係で見るならば、それが神の御心を示す神からの御言葉であることがわかるのです。

 聖書はイエスがキリストであること、この世界に住むすべての人々に対する唯一の救い主であり、神の御子であられることを証言しています。神からの御言葉です。神御自身がイエスは神の子であり、世に来たるべき救い主キリストである、と証ししているものです。このような書物が、今もこうして手に取ることのできるようにして与えられているのは、実に神の恵み以外の何物でもありません。この世界の中で、私たちが真の命を求め、人生の意味を求め、本当の生きがいを見つけたいならば、イエスの横を通り過ぎることはせずに、立ち止まってイエスの御言葉を聞き、そのなさったことに目を留めなければなりません。その業と言葉に心を留める時、私たちは、この方により頼めば大丈夫だ、という安心と確信を与えていただけます。聖書は神の語り掛けであり、呼びかけであり、そこに神の愛と憐れみと愛が込められています。私たちの内に、この世の内に、なおいっそう神の御言葉である聖書が力強く働いて、へりくだった人々が聖書の御言葉を聞き、救い主イエスのもとに立ち帰ることができるように祈りましょう。

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