「祖先崇拝からキリスト信仰へ」2021.9.5
 創世記25:7~18

 今日は「祖先崇拝からキリスト信仰へ」という題でお話しします。今回、もともとは8月の下旬頃にお話ししようと思っていたのですが、まだ体調整わず、先週は違う主題でお話ししましたので、少し時期は遅れましたがお盆との関係で今日お話しします。

 暑さ寒さも彼岸まで、などということわざがありますが、かつて盛岡に住んでいたころ、近所の方から、盛岡はお盆を過ぎれば涼しくなる、と言われていました。実際、大抵の年はそうだったと私も覚えています。そしてそういう話に、お盆、という言葉が季節の移り変わりの節目を示すのに自然に使われている、ということにも気づき、やはりお盆、という日本の伝統的習慣は、人々の生活に根付いているのだな、と感じたものでした。

 さて、このような日本の習慣は、祖先供養と結びついています。私たち日本人であれば大抵の人がお盆の行事や、彼岸の墓参りなどを経験していますが、それはやはり先祖を供養する、先祖を尊び拝むという伝統的な習慣と考え方からきています。それを私たちイエス・キリストを信じるクリスチャンはどのように受け止めるのか。また、クリスチャンは先祖のことをどう考えるのか。聖書はどのように教えているのか。そう言ったことを神の御言葉に聞き、学びたいと思います。

 クリスチャンは仏教式の日本の伝統的宗教行事をしない、先祖を拝まず尊ばない、死者の供養をしないとは何たることか、と言われるかもしれません。クリスチャンとしては、聖書にある神の教えに従いそうするのですが、今日はまず、日本のそういう習慣について少し学びたいと思います。

 私たち日本人には、盆(盂蘭盆)、彼岸の墓参り、先祖供養、仏壇、位牌、戒名、故人の命日、などなじみのある言葉がたくさんあります。日本人が通常行う祖先祭りとして、3月の春のお彼岸、8月のお盆、9月の秋のお彼岸、そして故人の命日、これら4回の行事があります。

 その中のまずお盆は盂蘭盆会(うらぼんえ)といわれますが、これは仏陀の教えではなく、中国の僧侶が書いた盂蘭盆経によるものです。仏陀は死人のことは多くは教えなかったそうで、盂蘭盆会などの死人を祭ることは仏陀と関係ないそうです。盂蘭盆経では、地獄に落ちて苦しむ死者を救うために生きている者が仏道に精進して善行功徳を積むことが必要だと教えているそうです。しかし今日の日本の習慣では、みんなが集まって供え物をし、読経をしてもらい、それで祖先祭りをした、ということになっています。日常生活の中で仏の教えに従って生きる、ということはどうなっているでしょうか。

 地獄に落ちて苦しむ人を救おうとして行う、という点は、中世のキリスト教会の修道僧が、煉獄(地獄ではなく、殆どの人が天国に行くために浄化されるべき所)にいる親族のために献金すれば早く天国に行ける、と一般信徒たちに教えて大聖堂建築資金を集めていたことを思い出させます。

 彼岸会(ひがんえ)というのも、インドにおいて、煩悩やこの世の欲や執着に捕われている此岸(しがん。彼岸に対するこちらの世界、この世)から、悟りの境地である彼岸に入るための修行を起源としたものだということです。そのためのものなので、もともとはこの世で四苦八苦している人間のためのもので死者のためのものではないのです。ところが今日の日本では、墓参りをして、彼岸の団子を仏壇に供えたりするという祭りになっているわけです。では、現世に生きる者たちは、仏教の教えに従って修行をしているかと言えばどうなのでしょうか。

 位牌ももともとは仏教盛んな時代に仏陀の教えを守るために、ある一週間くらい、戒律を守る生活をし、それを住職に認めてもらって戒名をいただき、それを保存しておいたものですが、紙だと古びてしまうので本人が死んだ後、遺族が板に書き換えたものでこれが位牌です。だから本人が仏の教えを守り精進してこそのものであって、戒律を守らない者には何の意味もないものだということです。それが今日では誰でも死ねば戒名をもらい、しかもお金を出せば出すほど立派な戒名をもらえるようになっているわけです。それゆえ今日の位牌も、多くはその名を刻んでいる死者が生前熱心に仏の教えを守ったかどうかは関係なくなっていると言われています。

 そもそも、供養というのは死者の冥福を祈るためのものです。冥福とは死後の幸福のことですから、まだ現世で生きている人が死者に対して何らかのことをすれば、死者が死後の世界で幸福でいられる、という考えがそこにはあります。果たしてそうなのでしょうか。

 今まで見て来たように、本来の仏教の教えでも、死んだ人に対して現世の者が供え物をしたり、お金を払って戒名をつけたりすることではなく、その人が生きている間にどう生きたか、仏の教えに従って生きたかどうかが重要なことなわけです。だから私たちは、本来の仏教の教えと、今日日本で習慣的に行っている仏教的習慣とは、必ずしも同じではないということを知る必要があります。お盆や、お彼岸や故人の命日を習慣的に守るよりも、仏の教えに従って生きることの方が重要なのは言うまでもありません。では、日本の伝統的な祖先祭りについての学びではないので、このくらいにしておきます。

   聖書では何と教えているでしょうか。先ほど創世記25章を読みました。「アブラハムは長寿を全うして息を引き取り、満ち足りて死に、先祖の列に加えられた」(8節)とあります。息子のイサクとイシュマエルは、マクペラの洞穴に彼を葬りました。そしてイシュマエルも同じように死んで先祖の列に加えられました(17節)。

 他の箇所で、預言者ナタンはダビデ王に、「あなたが生涯を終え、先祖のもとに行くとき」(歴代誌上17章11節:旧約652頁)と言いました。人は死ぬと、先にこの世を去って死んだ先祖たちのいる所へ行くのであり、なお生きている人は死んだ人を葬る、ということがまず分かります。しかしその死んだ人に何かをすることについて次のようにあります。これは神様の前でどのように信仰を告白するべきかを神様ご自身がモーセを通して教えておられる所です。その中にこうあります。「わたしは、聖なる献げ物を残らず家から取り出し、全てあなたが命じられた戒めに従って、レビ人、寄留者、孤児、寡婦に施し、あなたの戒めからはずれたり、それを忘れたりしませんでした。それを喪中に食べたり、汚れている時に取り出したり、死者に供えたりしたことはありません」(申命記26章13、14節 :321頁)。また、死者に伺いを立てる者、口寄せや霊媒は死罪に当るものです(レビ記20章27節:旧約195頁、申命記18章11節:旧約309頁)。

 また、ダビデ王は、自分の子供が重い病気で死にそうになった時、断食までして必死に祈りました。しかし、その子が死んでしまったことがわかると、それをやめました。彼は、自分は子どもの所にいずれ行くだろうが、その子が自分の所に帰ってくることはないと知っており、その点について割り切っており、死んだ子どものために祈ることは最早しませんでした(サムエル記下12章18~23節、旧約497頁)。

   このように、神様は、死者に供え物をしたり、死者に伺いを立てたりすることを厳しく禁じています。また。お墓や仏壇や位牌に向かって拝むことは偶像崇拝につながります。これも神が禁じていることです。しかし、聖書に登場する人々はみな、死んだ人を丁寧に葬っています。丁寧に葬りますが、決して死人を拝んだり、供え物をしたり、伺いを立てたりしません。神様に見捨てられたサウル王がどうしようもなくなって口寄せを訪ねて死んだサムエルを呼びだしてもらったことがありましたが、そういうことができた理由は私たちにはわかりませんが、その行為自体は禁じられていたのです(サムエル記上28章7~19節、旧約:475頁)。

 また聖書では死んだ人や先祖を軽んじるということはありません。預言者エリヤは、疲れ果てた時、神に祈ってもう自分の命を取ってくれと頼んだ時に言いました。「わたしは先祖にまさるものではありません」(列王記上19章4節:565頁)。また、イスラエルにおいては系図をずっと残しています。それは先祖を尊重しているしるしです。歴代誌上の初めの方は系図だらけです。マタイによる福音書1章の系図や、ルカによる福音書3章に主イエスの系図があります。ルカの方など、最後は神に至る、とあります。日本では聖書の系図ほどにたどれる家系は殆どないでしょう。聖書においては、先祖は大事だけれども、先祖を与え、その先祖に恵みを与え、その子孫も祝福すると約束してくださった、神を信じ崇めることが何より大事なこととして示されているのです。

 では、私たちが先祖に対して何かをなすことができるでしょうか。もし先祖が神に仕えていたなら、その点で先祖に倣うことです(Ⅱテモテ1章3節、新約391頁)。供え物を献げ、拝むことではなく、むしろ、私たちがこの世で神様を誰よりも尊び、信じて従うことです。先祖は既にこの世を去って死後の世界におります。先祖が私たちの幸福を望むなら、私たちがこの世で神とキリストを信じて生きることを喜ぶはずです。それが人にとって最も大切なことだからです。

 またもし私たちもこの世を去って死んだとして、なおこの世に生きている人から拝んでもらいたいでしょうか。食べられもしない立派な供え物を供えられて、そして時期が過ぎればこの世の者たちで食べてしまう。形式的に先祖祭りをしても、この世の生活ではけんかばかりしていたり、財産相続で争いをしていたり、非道徳的なことをする。ということであれば、先祖は喜ばないのではないでしょうか。生きている時には何もあまり気に掛けないのに、死んだ後になってから、熱心に供え物をするよりも、生きている時に敬い、尊ぶべきであります。何百万もする立派なお墓が建てられているよりも、現世で生きている子孫が、この世でよりよく生きることの方を先祖は喜ぶのではないでしょうか。

 そして真の神様に出会い、神の恵みを知り、救い主キリストによる救いに与った人は、先祖を拝むのではなく、その先祖の先におられる、命を与えてくださった神を礼拝します。崇拝すべきは先祖ではなく、生ける真のただ一人の神様です。

 そんなことをしたら先祖はたたるのでしょうか。また、クリスチャンだからというので、お線香をあげなかったり、供え物をしなかったりしたら呪われるのでしょうか。現世に生きる私たちに何か悪いことが起こるのでしょうか。そうやって脅かして、先祖供養をさせる得体の知れない宗教団体もあるかもしれません。しかし真の神を信じ依り頼む者は、そういうものを一切恐れる必要がありません。主イエス・キリストは、天地の主、全ての霊的存在も主の支配下にあります。目に見えないものもみな、主の力によって治められていないものはありません。

 現世で自分たちが幸せに暮らすために、たたりを起こさないために、呪われないために先祖を祀って拝むとしたら、それほど先祖に対して失礼な行為はないのではないでしょうか。先祖は既に私たちの手の届かない所にいます。私たちが何かをしたからといって、死後の状態を変えることはできません。私たちにできることは、この世でどのように生きるのが最も良いのかということを求めてそれに従うことです。それは聖書を通してお語りになる神と主イエス・キリストによって私たちに与えられているものなのです。

 主キリストは、私たちを偶像礼拝や、悪しき行い、神に背く罪から救うために十字架におかかりくださって、罪の償いを代わりにしてくださいました。私たちは、この救い主キリストをあがめ、信じます。そして、私たちがキリストへの信仰をもって生涯を歩んだとしたら、それは子孫や、たとえ子供がいなくても周りの人に対して最善のものを残したことになるのです。

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