「人の誕生と一生」2021.9.19
 ヤコブの手紙4章13~17節、(詩編90編)

 私たちはだれ一人として、自分の意志でこの世に生まれて来た人はいません。物心ついたときには、自分が男か女であり、どこかの国の人間であることを知ったわけです。そして、自分には誕生日というものがある、ということも知ります。気がついた時には今の自分という存在を自覚したのです。では、私たちのこの世での一生とは一体何でしょうか。

 例年はこの時期、敬老の日に合わせて記念の礼拝を行ってきましたが、今年は皆が集まっての礼拝を休止しているので集まることができません。それでもそれを主題に神の御言葉に聞こうとしています。高齢の方も、壮年の方も、若い方も、ともに人の誕生と一生について、主の御言葉に聞きましょう。

 まず、今日の題としました「人の誕生と一生」を旧約聖書の中に見てみます。創世記5章にはアダムから始まる系図が記されています。それは、「誰それが何歳の時に息子や娘をもうけた、そして何年生き、そして死んだ」。こういう形式の書き方で一人一人書き連ねていきます。生まれたこと、子どもをもうけたこと、生きたこと、死んだこと。この4つのことだけが次々書かれていきます。この系図では、アダムとノアのように別に物語として書かれている人以外は、それだけです(21節のエノクのみ例外)。この世に生まれて、子どもをもうけ、生きてそして死んだ。これらの人々も、その一生の中にはいろいろなことがあったはずですが、それは特に書き留められていません。

 聖書の中に系図が記されているだけでも特別なことかもしれませんが、他のことは何一つわかりません。今日の私たちはなおさらです。後の時代の人々にその生涯のことが語り伝えられる人など、ほんの一握りの人にすぎません。この世で非常に有名で、立派な業績を残し、歴史の教科書等にもその名前が必ず記されるような人も、逆にそうではないほとんどの人も、神の前では皆同じ一人の人間にすぎません。生まれて、生きてそして死ぬ。その間に子どもをもうける人もいればもうけない人もいます。どちらにしてもそうやって、一生を過ごしてゆきます。

 こういうことに一体何の意味があるのでしょうか。聖書には神が人間をお造りになり、命の息を吹き込まれて人を生きたものとされた、と書かれています(創世記2章7節)。そして、「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」というご命令が与えられていました(創世記1章28節)。だから、人が次々生まれ、増えてゆくことは神の御心です。ですから、この世で人が生まれ、増えてゆくこと自体は神のお考えによっていることです。

 このことは、先ほど読みましたヤコブの手紙4章15節にあります、「主の御心であれば、生き永らえて、あの事やこのことをしよう」と言う信仰の姿勢に立つことにつながります。自分が生まれてきたのも、ある状況のもとで一生を送っていくことも、主なる神の御心であると信じ、そこで生きることが主の御心ならば、生きてあれこれのことをしようと考えるのです。これは神の前での謙遜を教える御言葉です。人によっては、今置かれている場所や、生まれ育った環境から逃れたいと願う人もいるかもしれません。もしその人が本当に神の前にへりくだって、祈り求める中で、その環境から抜け出すこともまた主の御心であると信じるようになることはあるかもしれません。それで、「主の御心であれば」ということを見極めるためには、信仰と祈りが欠かせません。そして私たちは信仰によって選びとって道を進んでゆくのです。

 ここではヤコブは、自分の考えや力でいろいろ切り開いていけると過信している人への警告として語っています。神の前でのへりくだりを教えていることを弁えねばなりません。何をするにしても、どこにいるにしても、主の御心を尋ね求め、それに従って、今その時に与えられていることをする。そういう姿勢で一日一日を、主にゆだねつつ過ごしてゆくことを教えています。

  さて、次に詩編90編を見てみます。「あなたは人を塵に返し『人の子よ、帰れ』と仰せになります。」と詩人は神に向かって語ります。人は塵から造られたので、塵に帰る。このことは、私たち人間にとって当たり前のことのように思えますが、実はこれは当たり前のことではありませんでした。人が死ぬということと、死んだら塵に帰るということは、創世記第3章に書かれているように、人が神の戒めに背いて罪を犯してしまってから後のことです。罪の刑罰として死ぬ、ということが人に科せられました。それで詩編90編3節のような神の人間に対する御言葉があるわけです。

 さらにこの詩では人間の現実を示します。人は朝を迎え、夕べを過ごし、その姿は草のように移ろいゆき、そしてやがて衰えてゆきます(5、6節)。また、人の寿命は70~80年であり、瞬く間に飛び去ります。

 こういう言葉を見ると、人間の生涯は何かむなしい、つまらない、あっという間に過ぎ去るもので、残るのは労苦ばかりという感じです。人生に対して悲観的な見方のように見えます。しかしこの詩では、実はそればかりではありません。人間の一生がはかないものであるのは事実かもしれません。しかし、主なる神がその人間の人生に伴ってくださっているなら、そこには喜びがあるし、人間の働きも確かなものとされるというのです(14、17節)。

 ただしそのためには、12節にありますように、主なる神に教えてもらわなければならないことがあります。人は自分の一生を、正しく見極めて、数えなければなりません(12節)。正しく数えるとは、結局人生の意味を見誤らないということです。人生ははかないかもしれないが、神によって与えられている人生であることを認め、神の御前に罪があることを認めて悔改め、神を畏れ敬うことが、人の人生の日々を正しく数えることになります(11、12節)。人生は自分の力だけで切り開くものではなく、主なる神を信じ、畏れ敬うことを通して、その御言葉によって教えられて過ごすべきものであり、その中でこそ真の喜びを持つことができるのです。

 人の誕生について、イエス・キリストはこう言われました。「女は子ども産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのためにもはやその苦痛を思い出さない」(ヨハネ16章21節)。実はこの産みの苦しみは、先ほど言ったように最初の人間が神様に対して罪を犯したがゆえに、すべての人に与えられた罰の一つでした。女は苦しんで子供を産み、男は汗水たらして労働しなければならない。人の一生について回る労苦です。しかし、主イエスは、その産みの苦しみにまさるのが、人の誕生そのものだと言われます。罪の罰として与えられた苦しみにまさるのが人の誕生なのです。人が、誰かの誕生を祝い、自分や他の人の誕生日を祝うのは、本来それが喜ばしいものだからです。主イエスがこのように言われたのは、とにかく人は人の誕生をただ喜んでいるという事実を言われただけではなく、人の誕生は神様の御心に適うものであり、それが喜びであるのは真実だからです。

 しかし、そうやって喜びの内に生まれてきた人間は、生まれた時から死に向かって進み始める、というのもまた真実です。先ほど言ったように、罪の罰として死ななければなりません。それは誰も逃れることができません。

 ところで、人が死ぬということについて、日本語での通常の表現がいくつかあります。死ぬ、亡くなる、死去する、逝去する、永眠する、没する、 ( みまか ) る(罷る=やめる)、崩御する(天皇などが亡くなる)などと言います。このうち、キリスト教的に相応しい言葉とそうでない言葉があります。死ぬという言葉は日本語訳聖書でも普通に用いられる、ごく一般的な言葉です。あるいは死去するというのも、意味としては聖書の教えにかなうものです。死んでどこかへ去るのであり、死後の世界があります。死という文字を避けるために、色々な言葉に言い換えるのかもしれませんが、永眠という言葉があります。永遠の眠りに入ったということですが、これは聖書の教えからは外れています。使徒言行録に、ステファノというキリスト教会最初の殉教者の話が出てきますが、彼が死んだ時、「眠りについた」と言われました(使徒言行録7章60節)。ですから、死を眠りと表現することはありますが、永遠の眠りではありません。なぜなら、死はそれが永久に続くべきものではなく、神のもとでは一つの通過点に過ぎなくなるからです。イエス・キリストが死んでから3日目に復活されたのは、人の罪の贖いを成し遂げて、人を死から救うためでした。このキリストを信じ、キリストに結びつくなら、死の向こう側に復活と永遠の命という希望があります。

 それを信じて生きることは、この世の人生というものについての見方を大きく変えてしまいます。しかし、誕生と死の間にある何十年かの生涯は、決して無駄な、空しいものではなく、神を信じ、神を仰いで崇め、感謝を献げて日々を送るならば、それは決してむなしいものではありません。この世で何らかの業績を上げて記念を残して人々に語り継いでもらっても、それはやがて忘れられます。しかし、イエス・キリストにより、神に結びつけていただいた人は、どんなに小さな、目立たない地味な一生でも、神に覚えられています。ただ塵に帰るのではなく、永遠に滅びない神の御国で、その栄光に与れます。だから、私たちは人の誕生を、神様がお造りになった人間が神の御命令に従って誕生したのだ、という視点でまず見るべきです。

 そして人の死は、厳粛に、人の罪のゆえにどんな人でも死なねばならなくなったことを悟って、死が刑罰であることの意味を味わわねばなりません。しかし人の誕生が喜びであるように、神に結びついているならば、悲しみであるはずの死すらも、ただ悲嘆にくれるべきものではなくなるのです。この世で積み上げた成果や業績はそのまま死後の世界へ持って行くことはできません。しかし、目に見えない価値あるものが残ります。残るというより滅びずに続きます。それは生ける神との生きた交わりです。働きの実りは形として残らなくとも、主に従って働いたことは主に覚えられています。

 そうして、私たちは詩編90編14節で歌われていることを自分のものにしてゆくことができるのです。神の慈しみを毎朝味わい、生涯喜び歌い、祝うことができます。真の神を知らされその力により力づけていただくなら、その一生は、確かな喜べるものとなります。一人一人の誕生とその一生、それは決して偶然の産物ではなくて測り知れない神様の大きな御計画と御心の中にあることを知りましょう。そして自分の生涯を主にゆだねましょう。

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