「信仰と職業」2021.9.12
Ⅱテサロニケ3:6~18

 今日は、信仰と職業についてお話しします。ただ、職業というと例えば家庭の主婦の方、無職の方についてはどうなのか、ということも出て来るかと思います。今日お話ししようと思っているのは、この世の生活において、何にせよ労働をする、働く、何らかの仕事をすることについて、そしてこの世の社会において行なわれている生産活動等そのものについてです。それを神の御言葉から聞きます。ですから、今どんな職業についているかということで、そこに関心を向けるというだけでなく、この世界における生活を成り立たせている様々な仕事、職業、労働、働き、様々なことをどのように受け止めて行くか、という点から御言葉に聞きたいと思います。

 先ほど朗読したテサロニケの信徒への手紙二3章6節以下によると、当時の教会の中に、働こうとしない者たちがいました。そういう人々の生活態度は、この手紙一、手紙二の両方で取り上げられているように、キリストが再び来られる時を待ち望む信仰に関係があります。キリストが天に昇られた後、再びこの世に来られることを約束されましたが、その日その時が何時になるのかわからないので、目を覚まして祈っていなさい、と主イエスも使徒たちも命じています。

 ところが、それを聞いた者たちの中に、もうじき主イエスが来られてこの世の終わりを迎えるのなら、もう真面目にこの世で働かなくてもいいではないか、と考えるようになって、自分の仕事に身を入れず、働こうとしない者たちが出て来たというわけです。そして、余計なことをしているのでした。その余計なことが具体的にどんなことかはよくわかりませんが、他の訳では、余計なお節介と訳しているものもあるので、他人のことに首を突っ込んで要らぬ世話を焼いていたのかもしれません。要するに、日頃の生活を支えるために必要な働きをしないでいたのでしょう。そして自分で日々の生活に必要なものを得ないで、他人のやっかいになっていたのでしょう。それで、「自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい」と命じている訳です(12節)。

 さて、このパウロの手紙からもわかりますように、クリスチャンになったからといって、この世の仕事から離れられるわけではありませんし、世を捨てて、社会と隔絶された所で生きるわけでもありません。信者になった人がそれ以前にしていた仕事も、そのまま続けることが殆どです。殆どというのは、反社会的な仕事をしていた人が信仰に入ってそれを悔い改め、仕事を変えるということがありうるからです。そういう特別な場合を除いては、この世での仕事は継続してゆきます。そして、信者であれそうでない人であれ、この世で生きてゆくにあたり、それなりの労働をしてその対価として金銭を得て、そして社会の中で暮らしてゆきます。もちろん、自給自足で食料を買わなくても調達できるという場合もあります。しかしそれでも、黙って座っていれば魚や野菜や米が天から降って来る訳ではないので、畑を耕し、魚を釣り、苗を植えねばなりません。

 それは、神様がこの世界をお造りになった時から、人間に与えられていた役割であり務めであり、仕事でした。創世記4章を見ますと、人間が神様に対して罪を犯して堕落してしまった後の話があります。人間の堕落以前の創造されたままの状態の話が2章に出てきますが、その15節にあるように、人間にはエデンの園でそこを耕し守る働きが与えられていました。

 ですから、もともと神様がお造りになったエデンの園においては、人間の為に始めから仕事があったのです。しかし創世記3章にあるように、人間が神様に罪を犯して堕落してしまったことにより、それが歪められてしまいました。そして人間の仕事、働きは、労苦と厳しさ、空しさも時には覚えなければならないものとなってしまいました。3章17節にあるように、土は呪われたものとなり、食べ物を得るためには苦しみが伴うのです。そして土は茨とあざみを生じさせ、人間の仕事を妨げたり、思うように実が実らなかったりするようになりました。そして時には自然災害も起こり、せっかく苦労して積み上げたものが水の泡になるということも起こってきたのです。

 堕落後の世界はそのようになってしまいました。そして、そのような世界の中でも、様々な生産技術が発達してきました。そして様々な働きが分化してゆくようにもなりました。創世記4章19節以下に殺人を犯したカインの子孫のことが書いてあります。ヤバルは家畜を飼う者の先祖となり、ユバルという人は竪琴や笛を奏でる者すべての先祖となりました。トバル・カインという人は青銅や鉄で様々の道具を作る者となりました。つまりここには牧畜業、音楽家、鍛冶屋とか製鉄業の先祖が示されていると言えるわけです。しかし、この3人の父親であるレメクという人は、人を人とも思わないような、人殺しを平気でするような男でした。この世界においては、このような非道徳的な人物を先祖として様々な職業が起こって来たと言えるのです。では、悪い先祖を持っているこれらの職業が他のものに比べて悪いものなのか、というとそういうわけではありません。むしろ一般的な職業はみな、すべて罪のある人間が生み出してきたものであるので、およそこの世に存在しているあらゆる仕事は、それ自体はよいとしても、それを行う人間が悪いことにも用いてしまうのです。

 牧畜も音楽も製鉄も、それを生み出し用いる人間によって善悪どちらにも使われます。鉄で作られた道具は、人の生活の為にもなれば、人を傷つける道具にもなります。極悪非道の行いをする者も、音楽を楽しみ、肉を食べてその生活を楽しむのです。

 今一度創世記をみます。人はエデンの園で土地を耕し、守る務めを与えられましたが、神様は人を創造された時に、「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」(創世記1章28節)と人間にお命じになっていました。つまりこの世界の管理人とでもいうべき役割を与えられたわけです。このご命令は、改革派神学では普通、神様の人間に対する文化命令と呼ばれます。人間の堕落前に神様が人間に与えられた御言葉であり、この御命令は、アダムとエバが罪を犯した後も有効です。ノアの時の大洪水の後、創世記の9章で再び神様はノアたちの同じことをお命じになっているからです。地のすべての生き物は人間の手にゆだねられました(1、2節)。それは、この大地が存在して人間が地上で生きて生活し様々な活動をしてゆく限り、続いてゆきます(創世記8章22節)。

 神様を信じていようがいまいが、人間がこの世界において、知恵を用い、技術を生み出してそれによって土地を開墾し、整え、家を建て町を築き、科学技術を発達させ、支配してゆくことは、神様から命じられた事を無意識の内にも行っていることだからです。

 しかし、堕落してしまったので、神様からゆだねられた働きをいつも善い仕方で、神様の御心に十分適った仕方で果たすことができなくなってしまいました。ですから、この世界には人間が生み出してしまったものによって悪影響ももたらされているのです。その最たるものが、殺人兵器や、人を殺すために用いられる毒物などと言えましょう。物理学は大いに人間の役に立っていますが、それが原子爆弾をも生み出していることは周知の通りです。しかしだからと言って物理学そのものが悪い学問だとは言えないわけです。神様から頂いた知恵を、神様の御心に適うようにだけ用いることができなくなっているので、私利私欲のために、自国の利益のために用いるようになってしまうのです。しかし神様は、人間の堕落後のこの世界においても、ある歯止めを与えてくださっているので、この世界は暴虐だけ、悪事だけが満ちているわけではないわけです。医療技術が発展し、人が助け合う社会が築かれ、国家が立てられ、弱い者を保護する働きがなされています。悪事を取り閉まる警察もあります。人がより便利に生活できるように知恵を尽くしています。環境破壊が行き過ぎるとその反動であるかのように、環境保護が謳われます。これは、この世において神様はその御力を働かせて、この世をある程度の状態で保ってくださっているからです。そして人間は相変わらず様々な社会的活動、生産活動を続けています。この世の中でより良く働き生きて行けるために教育に熱心になります。ですから、この世にある様々な職業は、たとえ人間が自覚していなくても、神様から命じられた、「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」というご命令を実行しようとして営んでいるのです。

 主の大いなる憐れみと恵みによって神様のこの御心を教えていただいた者は、この世の中に一見埋没しているかのように見えます。この世の職業の中で、社会の一つの歯車のように見えるかもしれません。しかし一人の神に心を向け、その御心を教えていただいた者は、より一層、神様の御命令に対して自覚的にそれを行うことができます。与えられた仕事に励むことは、神様の栄光を現わすことにつながります。もし自分が無職なら、回りにいる職業を持つ人の為に祈ることができます。その仕事が神様の御心に適うように、そしてその人も労働の価値と意味を与えてくださった神様を知ることができるように。

 家庭を守る働きも、神様からゆだねられた立派な務めです。家庭で子育てをすることも、極めて重要な働きです。会社の重役を務めている人も、家庭に入って自分の子育てに専念している人も、何ら違いはありません。私たちはこのような視点でこの世界を見ることができます。そして人間の歴史を学ぶとき、人類の歩みの中に、知らず知らずの内にも神様の文化命令に従ってそれを行ってきた人間の姿と、罪あるゆえに、悪しき業のために知恵や技術を用いてしまう人間の姿と、両方を見ます。そして神様は人間が神様を見上げるようにと福音宣教を通して招いておられます。救い主イエス・キリストによって、私たちの罪を赦し、神様の御心に適う者へと造り変えようとしておられます。それが完成するのは世の終わり、神の国の完成の時です。そこに至るまでは私たちは産みの苦しみを続けます。しかしまたその歩みの中に、つまりこの世での様々な仕事、職業、働き、営みに召してくださっている神の恵みを認め、その栄光を現してゆくことができるのです。

 どんな職業に就くとしても、また無職だとしても、給料が発生しなくても、どのような働きであろうと、この世界の中では神がお造りになった秩序の中ですべてものが関係し合って様々な生産活動や、文化的活動などが成り立っています。世界を見回してみると、ある程度の偏りはあるでしょうが、多くの職業があるこの世界の中で、それぞれの職業に就く人々が備えられていることは、大変興味深いことのように思います。その背後に、あらゆる人々を創造主なる神が用いておられて、配分をしておられるようにすら見えます。私たちの思いを超えたところで、主なる神の御手のお働きによって様々な仕事や人々の役割が分散して行われています。農業、工業、商業、教育、医療、文化、娯楽、運輸、土木建築、サービス業、政治家等々。そして大きな目で見た時に、非常につり合いが取れているように見えます。天地の主なる神を信じる者は、それらすべてのことの中に信仰によって御自身の知恵を現しておられる神の御手の業を見ることができます。すべてのものに秩序を与えてあらゆるものを築いておられる神の御業をあがめて、その御業に加わらせていただいているのです。

 主なる神は、世界中に恵みを注いで人の働きの実りを与えてくださいますが、特に主イエスは、十字架の救いの御業を通して罪人を罪から救い、神の恵みを自覚して良く用いる者へと造り変えてくださり、神の栄光を求める者としてくださるのです。

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