「神の業がこの人に現れる」2021.7.4
 ヨハネによる福音書 9章1~12節

 イエスは何の権威をもってご自分のことを語っておられるのか。そしてイエスが「父」と呼んでおられる神と、ユダヤ人たちが父と呼んでいる神とは違うのか。この問題について、両者の問答が続いていました。イエスは御自分が神のもとから来られた方であり、アブラハムの生まれる前からいる存在で、神と同等の権威を持つ神の御子であられることをはっきりと言われました。それを信じない人々はついにイエスに石を投げつけようとします。そこで話は物別れとなり、イエスは神殿の境内から出て行かれました。せっかく神の御子がこの世に来られて、私たちの知らない神についての真理をお語りになっても、それまでの先入観、今までの知識に捕われている人々は、イエスの言われることを全く受けつけられませんでした。人々と別れた主イエスは、通りすがりに生まれつき目の見えない人を見かけられます。そしてここでもまた、イエスとはどなたであるか、という問題が起こってきたのでした。


  1.誰が罪を犯したからですか

 生まれつき目の見えない人は、いつの時代にもおられます。今日の話を見ると、この人が生まれつき目が見えないことはそのあたりに住む人々は知っていました。そして彼が物乞いをしていた人であることも人々は知っていました。そういう人の姿を見ていたから余計にでしょうか、その原因は何だろうか、と考えたのでしょう。それで弟子たちが主イエスに、この人が生まれつき目が見えないのは本人が罪を犯したからか、それとも両親が罪を犯したからか、と問いかけます。この問いは、いつの時代のどこの国でもありそうです。私たちの日本では、先祖の祟りなどということがあります。また、罰(ばち)が当たる、という言い方もしばしば聞きます。そのように、何か悪いことをしたから、本人かあるいは子孫に悪い報いが及ぶ、という考え方です。

 主イエスはこの質問に対して、どちらでもない、と言われました。もちろんこのことは、本人にも両親にも神の前に全く罪がないということを言っているわけではありません。聖書全体を通してみれば、人は神の前に罪人であることは明らかです。主イエスは当然そのことを前提として話しておられます。ここでは、この人が特に目が見えなくなっているのは、本人か両親のどちらかが何らかの特別な罪を犯したことが原因となり、その報いとして目が見えなくなっているのかということです。

 主イエスは、この人の目が見えないのは、本人や両親の犯した罪がその原因なのではなく、神の業がこの人に現れるためなのだ、と言われました。誰か人間の犯した罪の報いとして受けているのではない。人の力ではどうしようもない状態に置かれているこの人に対して、今この時に神の業が現れるのだ、という単純な事実を述べられたのです。

 主なる神は、正しく人を裁かれるお方です。時には病気という一つの報いを与えて人を罰することがあります。旧約聖書を見るとそういう例がいくつかあります。しかしだからと言って、今日目の前にいる人が病気になったからと言って、その人や両親が罪を犯したことの報いであるということにはなりません。100人の病人がいたとして、その一人一人がなぜ病気になったのか、ということは私たちには隠されています。しかし主を信じる者にとっては、なぜ病気になったのかという理由は、偶然であったり運が悪かったからだ、というだけで片付けることはできないのです。


  2.イエスは世の光である

 そして、主イエスは御自身がその神の業を行う方であることを次に明らかにされました。さらに主イエスをお遣わしになった方、つまり天の父なる神の業を「私たちは」日のあるうちに行わねばならない、と言われました。神の業は、主イエスが行うだけではなく、主に連なる者も行うことができるのです。日のあるうちに、とは今の世がまだ保たれていて、終末を迎える前のことです。誰も働くことのできない夜が来る、とは、すべてが裁かれる世の終わりの時がやがて来ることです。その後には、もはや人が何をしてもすべては神の御前に裁きがくだされるので、人は何もしようがありません。そして神の業、父なる神が遣わされた主イエスの業とは、主イエスによって救いが与えられる福音を世に向けて語り告げ証しすることです。生きておられる主なる神が人々の前に証しされ、神の存在と力と恵みが現れ、それによって罪人が救われて神の栄光が現されることです。私たち罪人もまた、主イエスの業にあずかって、神による救いの恵みを告げ知らせる働きに加えていただけるのです。

 主イエスは、そのためにこの世に来られたのであり、だから世の光である、と言われます。主イエスはこの世で姿を現して生きておられる間だけ世の光なのでしょうか。そうではなく、真の光であられる主イエスによって世の光とされたのがイエスを信じて救われた者たちです。その者たちが世の光となります。それはイエスがなお世におられるということにほかなりません。そしてそれは先ほど言ったように、この世が終わりを迎える時まで続くのです。


  3.神の業がこの人に現れるためである

 弟子たちは、この生まれつき目の見えない人について、この人自身を助けたりすることよりも、抽象的な問題に心を向けていました。そして、本人か両親か、どちらかが罪を犯したためなのだろうか、という議論をし始めていたのでした。それに対して主イエスは、そのような議論に心を向けられるのではなくて、この人に対して神の業が現れることを第一に考えておられました。そして、今主イエスの目の前に現れたこの人に、神の業をなされたのです。この目の見えない人は、イエスに出会うずっと前から盲目でした。しかし今、この日に主イエスに出会い、神の業を現していただきました。私たちも、何か大変なことが世に起きたりすると、それについて議論を始めます。なぜこんなことが起こったのか、誰が悪いのか、何のせいか、それのもたらす意味は何か、と。

 しかし主イエスはひたすら神の業を行われました。そして、生まれつき見えない人の目を開けるという大変な奇跡をなさったのですが、それをなさるにあたって、この人の目に泥を塗り、シロアム=遣わされた者、の池に行って洗うようにとお命じになりました。奇跡としての神の御力を現されるのですが、その際、人がやろうとすれば簡単にできることをやりなさい、と言われます。主イエスが言われた、「神の業」は、複数形です。諸々の神の業です。もし、この人がそんなことをして目が見えるようになるわけがない、といってシロアムの池に行かず、その場で泥をぬぐい取ってしまったら、この人は、生涯光を見ることがなかったでしょう。

 しかし、この人はそんなことはしませんでした。ただ主イエスの御言葉を信じて、単純に、シロアムの池に行って目を洗いました。「そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです」(11節)。これと同じことが今も起こっています。主イエスを信じた人の身に起こっています。主イエスを信じなさい、と神が言われる。神の御子イエス・キリスト御自身が言われる。わたしを信じなさい、と。それをその通りにしたら、救われ、見えるようになったのです。神の前での人の罪が見えるようになり、その罪から救ってくださる救い主イエス・キリストを見るようになり、神を見るようにされたのです。主イエスは言われました。「心の清い人々は幸いである。その人たちは神を見る」と(マタイ5章8節)。心が清い人とは、他の者に目を向けず、一心に神を求める人のことです。私たち人間は生まれながらには神を見ることはできません。神の前での人間の罪と悲惨という現実を見ることができません。主イエスによって目を開いていただかなければならないのは、私たちの方です。この生まれつき目の見えない人は、肉眼を開いていただいて視力を与えられると同時に、真の神とその御子、救い主イエス・キリストを見ることができるようにされました。この御業は今日もずっと続いています。主イエスを信じた者は、同じ恵みにあずかっています。

 私たちは、自分や周りの人に降りかかってきたことの原因、理由を探って議論して答えを得るために労するのではなく、そこから、神の業にあずからせていただけることに目を向けるのです。そして主がしなさい、と言われることを単純に行うことを通して、神の業を見ることができるのです。

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