「主の救いを語り聞かせる」2021.7.18
 出エジプト記 18章1~12節

 旧約聖書の2番目の書物、出エジプト記には、モーセの誕生とその後の歩み、特に主に立てられてイスラエルの人々をエジプトから導き出す務めを与えられてからの働きが書かれています。今日のところは、イスラエルの人々がエジプト軍の追撃を主の大いなる御業によって退けていただいた後、荒野の旅を続けてゆき、アマレク人との戦いに勝利した後のことです。モーセのしゅうとエトロの訪問の際に2人の間でなされた話です。


  1.主の御業を聞いてモーセを訪ねるエトロ

 モーセは、自身がエジプトを逃れてミディアンの地に来た時、エトロの娘を妻として暮らしていました。その後主に召し出されてエジプト王のファラオのもとに姿を現して神の御言葉を告げ知らせたのでした。モーセがここにまで至るには、大変長い年月がかかっており、モーセの生涯は大きな変化を遂げていました。エジプトを出てから40年が経っています。エジプトの王女に育てられて何不自由なく成長し、エジプト人のあらゆる教育を受けていました。それが一転してエジプトを逃れることとなり、ミディアンの地に逃れました。ミディアンは、エジプトからは、シナイ半島を挟んで東側にある、今のアラビア半島の北西側に当ります。モーセはエトロのもとに身を寄せて羊飼いとなって40年間過ごしてきました。

 モーセはそういうこれまでの経緯を考えればエトロに対して大変恩義を感じていたことでしょう。もっとも、モーセがエトロの所に身を寄せることになったきっかけは、エトロの娘たちが井戸端で羊たちに水を飲ませようとしていたところ、羊飼いの男たちが来て邪魔をしたことがあり、そこに居合わせたモーセが娘たちを助けたことでした。それでモーセはエトロのもとに留まることにして、エトロの娘ツィポラと結婚しました。異教の地でモーセは、安住の地を得たのです。そしてモーセはそれ以来、しゅうとであるエトロの羊の群れを飼って40年間過ごしてきたわけです。

 井戸端というのは、日本でも井戸端会議などと言いましたが、何かが起こる出逢いの場所として聖書ではしばしばお話の舞台となります。アブラハムの僕がイサクの妻となる女性を捜しに来た時にリベカに出会ったのは井戸の傍らでした(創世記24章11~15節)。時には争いのもとになりましたが(同26章15節以下)、最も印象深いのは、ヤコブの井戸のそばで主イエスがサマリア人の女性と出会い、御自身を救い主キリストであると証しされたお話です(ヨハネ福音書4章)。


  2.主の御業を語り聞かせるモーセ

 このようにしてモーセはしゅうとのエトロと良い関係を持ってきたのでした。そしてモーセが主に召し出されたので、妻と子どもたちをエトロのもとに残しておきました。そしてエジプトからイスラエルの人々を導き出した後に、エトロ自ら自分の娘と2人の孫、つまりモーセの妻子を連れて来てくれたのでした。

 彼らの再会の場面では、まず互いに安否を尋ね合ったとあります。ごく普通のことかもしれません。それでも、この二人の関係性の良さが伺えるような印象を受けます。そしてモーセは早速、これまでのことを語り始めます。主がイスラエルのためにエジプト王ファラオとエジプトに対してなされたこと、すなわち主が彼らを救い出されたことです。ただし、注意すべきは、イスラエルの人々は途中であらゆる困難に遭遇したという点です。主なる神がイスラエルに対してこれまでなしてきてくださったことを振り返ると、全能の神の大いなる御力によってイスラエルを救い出されたことがわかります。特に、紅海を渡ろうとしたイスラエルの人々をエジプト軍から守ってくださった時には、海を二つに分けてイスラエルの人々を歩いて渡らせ、人々が渡り終えたところで追跡してきたエジプト軍の上に海の水を再び戻されたために、エジプト軍は1人も残らなかったのでした(同14章28節)。このような奇跡を行われたのですが、それでもあらゆる困難に遭遇させられたのです。これは、主なる神がご自分の民を選び出して救おうとされる時、この世では必ずそのようにされると言ってもよいことです。主は御自分の民を導くときに、何も問題なく、何の困難もなく、立ちふさがる敵もなく、何の災いもないようにして守られる、という仕方ではなさらないのです。私たちはこのことをよくよく覚えておきたいものです。

 そして、その困難を体験した主の民が、それを語り聞かせるということにつながります。神がその民を守られるのなら、何も困難などないようにされるはずではないか、というのは全く間違っているのです。私たちも、主である神のことを語ろうとする時、神は全能であって慈しみ深く、憐れみと恵みに満ちておられるお方である、ということを語ることができます。しかしそのような、聞いた人が良い印象を持つようなことだけを語るのではなく、自分あるいは自分たちが遭遇したあらゆる困難の中から主が救い出されたことを語る、ということを改めて覚えておきたいと思います。しかしその困難というものも、大きな災いや病いなどのはっきりした出来事というものに限らず、自分の心の内に抱えていた問題や悩み、恐れや不安、そういったものから救い出された、ということもあるはずです。聖書から自分の罪を示され、自分のこれまでの歩みの中で自らのしてきた恥ずかしいことや過ち、人に迷惑をかけたこと、人に嫌な思いをさせたことなどを自覚するようになったこともあるかもしれません。そういう自分の弱さや罪から救い出してくださるのもまた主の恵みだからです。


  3.主の御業を共に喜び讃美する

 こうしてモーセから、イスラエルに対してなされた主なる神の恵みを聞かされたエトロは、第三者的な目で見てはいますけれども、自分の口で神への賛美の言葉を語り始めます。しかも喜んでです。エトロにとってはモーセの属するイスラエル人たちは、単なる異民族というだけではない存在となっていました。自分の娘の婿であり、長年自分の下で働いて来てくれた頼もしい存在でした。そのモーセの属するイスラエル人の神が、エジプトという大国で苦しんでいた人々を救い出されたことは、エトロにとって本当に喜びとなったのでした。

 そしてエトロはこれまでに神がイスラエルをエジプトから導き出されたことを聞いてはいたのですが、今、モーセの口からそれを改めて聞いて、今、主が全ての神々にまさって偉大であることを知ったのでした。全ての神々と言っても、現実にそれらの神々が存在していたというのではなく、あちらこちらの民族がそれぞれに拝んでいる神々がいるけれども、イスラエルの神こそ真の神である、ということです。

 そしてエトロは、風の便りに聞いていた神の御業ではなく、実際に人々を導いてきたモーセの話により、多くの困難と苦しみを味わってきたイスラエルの救い主の恵みを思い知ったのでした。私たちも、聖書の中にある神の御業と救いの物語を誰かに語り聞かせることはまずとても大事なことですが、それだけではなく、やはり自分に対してなしてくださった主の御業と恵みと救いを語るということを今一度思い巡らし、語れる者とさせていただきましょう。

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