「イエスへの信仰を公にする」2021.7.11
ヨハネによる福音書 9章13~23節

 イエス・キリストを救い主、神の御子と信じて信仰を告白し、洗礼を受けた人は、世に対して自分の信仰を公にした人で、クリスチャンと呼ばれるキリストに属する者です。今日は、生まれつき目が見えなかったのに、主イエスに目を開けていただいた人を巡り、ユダヤの人々の頑なな心が見えてきます。そして、そのユダヤ人たちを恐れる人の姿も出てきます。これらを通して、今日の私たちが信仰を公にすることを教えられています。


  1.あの方は預言者です

 生まれつき目が見えなかったけれども主イエスに目を開けていただいた人は、ファリサイ派の人々の所に連れて行かれました。ファリサイ派の人々はユダヤ人たちの中でも厳格に神の律法を守ろうとする人たちです。主イエスが盲人であった人の目を開けられたのは安息日でした。安息日にはいかなる仕事もしてはならない、と神は十戒で命じておられましたから(出エジプト記20章10節)、その点について、ユダヤの人々は大変敏感でした。目を開けて見えるようにした、というのは医療行為とみなされ、医師が医療という仕事をすることと同じですから、イエスは安息日を破っている、というわけです。だから神のもとから来た者ではないと。しかしユダヤ人の中にもそういう型通りの考え方ではなく、生まれつき目の見えない人を見えるようにした人が、そのような罪を犯しているのだろうか、と冷静に考える人もいたのでした。

 ユダヤ人たちの間でも意見が分かれましたが、盲人であった人は、目を開けてくれた人は預言者です、と断言しています。彼としてはこんなすごいことを自分にしてくれた人は、預言者以外にいない、という確信がありました。この時に言える精一杯の言葉を彼は言ったのだと思います。目の前でいろいろに議論しているけれども、自分の目が開いた、という厳然たる事実があるので、ファリサイ派の人が何と言おうと力強く断言したかったのだと思います。

 旧約聖書には多くの預言者たちが登場します。彼らは普通の人間でしたが、主なる神によって特別に務めを与えられ、特殊な力をいただいていた者もいました。特に紀元前9世紀のエリヤとその弟子であったエリシャは際立っています。列王記上の18章、列王記下の5章以下に彼らのなした業が記されていますが、どちらも死んだ子供を生き返らせるという大きな奇跡を行いました。もちろん彼らの力によってではなく、主なる神が特別に彼らを通してそのような奇跡をなさったものです。

この盲人だった人も、こういう預言者たちの話は知っているはずですから、自分の目を開けてくれた人は預言者に違いない、しかも今挙げたような大きな働きをした預言者たちの一人に違いないと思ったことでしょう。


  2.見ても信じない頑なな心

 しかしそれでもユダヤ人たちはこの人が盲人であったのに見えるようになったことを信じようとはしません。そこで両親を呼び出すのですが、彼らはいくら本人が見えるようにしていただいたと言っても信じようとはしません。ここには、自分の信念に反するようなことは何があっても受け入れられない、という人間の頑なさがあります。人が何かを拒絶しようとするときは、目の前に事実を見ていても信じないし受け入れようとしないという姿を如実に示していると言えます。見えるようになっているというけれども、もともと本当に生まれつき見えなかったのだろうか、何かからくりがあるのではないだろうか、あるいは嘘をついているのではないかと。

 それを考えてみますと、今日の私たちが目に見えない神を信じ、主イエスの御業を信じるということは、どうしてできるのでしょうか。信じた人は、それだけ何かを簡単に信じやすい人だったのでしょうか。そういうわけではないとはずです。却って使徒パウロのように頑なにイエスを拒絶して、クリスチャンたちを迫害していた人もいます。今日でもそういう人はいるはずです。自分がそうだったと思う人もいるかもしれません。しかしその人が元々どういう気質だったとか、疑り深いとか、人の言葉を信じやすいとかに関係なく、神の聖霊のお働きによって人は信仰へと導かれるのです。


  3.イエスへの信仰を公にする

 さて、信じない人々に呼び出されて問われた両親は、ユダヤ人たちを恐れていたので当たり障りのないことしか言いませんでした。さすがに生まれつき目が見えなかったことは知っていますと答えるのですが、どうして見えるようになったのかは知らないから本人に聞くようにと言って、自分たちの考えは全く言おうとはしません。ユダヤ人たちが、イエスをメシア=キリストだと公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたからでした。会堂から追放されるということは、ユダヤ人社会から追い出してしまうことですから、これまでのような生活ができなくなってしまうことになります。盲人であった人の両親は、それを恐れて、自分たちの息子に起こったことについて何も述べず、本人任せにしたわけです。自分たちの息子に起こった大きな出来事を、神に感謝して手放しで喜ぶことをせずに、自分たちの立場を守ることに心を砕いていたのです。

このようなことは、私たちの身の周りでも、私たち自身にも、起こり易いことかもしれません。今そこで起こったことの最も大事なことは何か。それを脇へ追いやって、見栄や立場や、体裁を守ることに心が向いてしまうことがないでしょうか。特に神が私たちにしてくださったことについて、感謝や喜び讃美を控えてしまうとしたら、それは本当に主なる神に申し訳ないこととなってしまいます。

 この両親も、もしユダヤ人たちの取り決めがなかったら、素直に手放しで息子に起こったことを喜び、そして目を開けてくださった、イエスというお方を探し出してお礼を述べることにまず力を注いだのではないでしょうか。しかし彼らはそれができませんでした。神とその御子イエス・キリストへの感謝よりも、ユダヤ人たちの処置を恐れてしまいました。

 では、私たちはどうでしょうか。主イエスへの信仰を公にしたら、どうなるか。既に洗礼を受けた方はそれについて色々考えたことと思います。特に家族が未信者の方は、自分が洗礼を受けたなら、家族に何と思われるだろうか。昔なら、洗礼を受けたりしたら勘当だ、などという時代もあったかもしれません。親戚の間でも、誰かのお葬式の際に、死者を拝まないのか、故人の冥福を祈らないのか、など色々に言われるかもしれません。みんながやっている仏教式の作法に従わないのか、と。日本人ではないか、と。しかしまた今日では、キリスト教と言えば日本では少数ではあるものの世界的には歴史と伝統のある宗教として認められていますから、理解のある方はそれなりにおられると思いますが、色々でしょう。

 そういう国に生きているのが私たちです。クリスチャンも、親の恩を忘れて良いわけはありませんし、家族をないがしろにすることも良いことではありません。しかし主イエスは同時に「わたしよりも父や母を愛する者は、私にふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない」(マタイによる福音書10章38節)とも言われました。私たちは親に育てられ、世話になり、いろいろ必要なものを備えてもらい、今日に至っている、という面があります。当然個人差はあり、早くから自立して親の世話にならずに生きて来たという方もいるでしょう。しかしどれほど親に恩義を感じているとしても、自分も親の存在も結局は神の御業と恵みによらなければ存在すらしていなかったものです。神がおられなければこの世で生きていくこと自体、あり得ないことなのです。

 その神に感謝をせず、御言葉を聞きもせずにいたものが、神の恵みと御言葉を知らされ、救い主イエス・キリストを知らされ、その救いにあずからせていただいたのです。それを知ったならば神への感謝と讃美をし御言葉に従うことは、これ以上にすべきことなどないと言ってもよいくらいです。それをせずに、イエス・キリストへの信仰を公にすると、今の立場が危うくなり、反対され、追い出されるかもしれない。だからやめておく。果たしてそれでよいだろうか、ということなのです。両親はどれだけ自分のことを思ってくれているとしても、十字架にかかることはできません。罪を贖って罪の赦しを神の前に勝ち取ってくれることもできません。そこのところをどう受け止めるかです。

 そして一度信仰に入ったならば、その上で、親に対する配慮や世話などを改めて考えてゆくのです。子どもとして何ができるだろうかと。それは決して主なる神への信仰と相反することではないはずです。ですから、私たちもまた、主イエス・キリストへの信仰を公にすることを、人の目や人の声や反応、そして今後起こってくるであろう諸問題を予め予想して悩みそして足踏みしてしまうのではなく、主イエス・キリストと共に歩み出すことで、主が必要な知恵と助けと力とを与えてくださることを信じて歩み出すのです。主は必ず助け、力を与えて導いてくださいます。

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