「イエスは真理を語る」 2021.6.6
ヨハネによる福音書 8章39~47節
6月に入りましたが、なお、会堂に一同が集まって行う礼拝を休止しています。そういう中ですが、私たちは変わらず主を礼拝します。そして今日どのような状況の中であれ私たちは主の御言葉を聞きます。そしてこの御言葉は、単に過去に語られたものではなく、今も生きて働かれる神の御言葉として私たちに語りかけられているのです。
1.イエスを受け入れない人たち
主イエス・キリストは、御自身のことを受け入れない人々に対して、はっきりと言われました。あなたたちはわたしを殺そうとしている、と(37節)。実際、これまでもイエスを受け入れない人々がイエスを殺そうとしていたことが記されていました(5章18節、7章1節等)。そして主イエスが、自分は「父」のもとで見たことを話している、と言われたのでそれに対して人々が自分たちの父はアブラハムである、と述べたのが今日の話です。
イスラエルの人々にとってアブラハムは誇るべき先祖であり、その子孫であることを自負していました。イエスはアブラハムの子孫ならイエスを殺そうとするはずがないと言われます。アブラハムは神の御言葉をへりくだって聞き、信仰によって歩んでいたわけですから。ここでの問答は、イエスの言われる「父」と、人々が言う「父」とが、主イエスに言わせれば違う、ということに問題があります。人々は自分たちの父はアブラハム、更に言えば神だ、と主張しますが、主イエスはそのようには見ておられません。
アブラハムは「信仰の父」とよく言われます。主の約束を信じ、その信仰を義と認められたからです(創世記15章6節)。主イエスを受け入れようとしない人たちも、自分たちはアブラハムの子孫であり、神を父と仰いでいるのだ、と誇らしげに語ります。しかし主イエスは神があなたたちの父であるならば自分を(イエスを)信じるはずだと言われます。イエスがこのように言われるのは、御自分が神のもとから来た、ということを自覚しておられるからです。この点が、主イエス・キリストと他の人との大きな違いです。私たちは誰でも物心ついて気がついたらどこの国に生まれて両親は誰で、男か女か、ということを自覚してゆくようになります。生まれる前はどこにいたかなど知っている人は一人もいません。ところがイエスは、御自分がこの世に人として生まれる前のことを知っていました。そいう特別な存在としておられた方であり、確かに人間としてお生まれになったのではありますが、神の御子として父なる神のもとにおられた方です。そして神によってこの世に遣わされたのですから、このイエスに聞くことが、神について知るもっとも近道なのです。ところがユダヤの人々はそれを素直には信じられません。
2.悪魔から出た者
このような人々に対して、イエスは驚くような厳しい言葉を言われます。「あなたたちは、悪魔である父から出た者」であると(44節)。悪魔とは、その起源について聖書はそれほど詳しくは述べていませんがいくつかのことはわかります。悪魔とはあげつらう者、告げ口するものであり、人間を罪に誘い、罪を犯させ、神から引き離そうとする者です、神に敵対して逆らうのですが、神と対等の力を持っているわけではありません。悪魔とは堕落した天使とみなされますので、力関係では天使たちとかろうじて戦える存在に過ぎません。そして最初から人殺しであり、真理をよりどころとせず、本性から偽りを言う者だとイエスは言われます。
神が悪魔を最初から悪い者として造られたのではなく、もともと天使だった者が自らの意志で神に逆らい、堕落してしまい、そして人間をも堕落へと誘い、神に罪を犯させたのでした。そのようにして悪魔の誘惑に負けて罪を犯してしまった人間を罪から救うために遣わされたのが神の御子イエス・キリストです。ですから、そのイエスに聞き従わず、逆らい、却ってイエスを殺そうとするということは、悪魔と同じ業をしていることになります。悪魔は最初から人殺しである、と言われます、人殺しと言うと私たちは強盗殺人のようなことを思い浮かべてしまいがちですが、ここで言う人殺しとは、人間を罪に誘い、神から引き離し、罪の内に死に、滅びへと連れ込んでいくことです。神に逆らうことは最終的に人間を滅びに至らせることになります。それを悪魔は望んでいます。そこから神に立ち帰らせ、救おうとするイエスを殺そうとするのは、悪魔のわざに加担することであり、その業を共にすることにほかならないのです。
それで主イエスは反対する人々に、あなたたちは悪魔という父から出た者だと大変厳しいことを言われたのです。ましてや彼らは目の前で神の御子イエスを見、そのなさった御業を目の当りにしていたにも拘らず、それをあえて受け入れず、頑なに拒み続け、挙句の果てにイエスは悪霊に取りつかれているとまで言い放ちます(7章20節、8章48節)。それだからイエスの方も厳しい答えをされたのです。ですから、今日私たちの周りにいる人々がイエス・キリストを信じず、反対しているからといって、その人々にあなたたちの父は悪魔だ、などと私たちが言うことはしません。どんなに頑なな人でも、聖霊の恵みによってその心が打ち砕かれて悔い改めに至り、信仰の道に入って救われることもあるからです。
ただし、忘れてならないのは、私たちすべての人間は最初の人アダムが悪魔の誘惑によって罪を犯して堕落した結果、神に対して罪人となっている、ということです。アダムだけが罪人になったのではなく、アダムの後に生まれて来た人間はみな罪がある者として生まれてきているのです。そしてその罪を取り除き、赦しを与えるために主イエスは来てくださったのですから、この救い主を拒み続け反対し続け、それを貫き通してしまうなら、自ら罪の赦しと救いの道を閉ざしてしまうことになるのです。そのことは私たちも覚えておかねばなりません。
3.イエスは真理を語り、神に属する人は神の言葉を聞く
こうして主イエスは、御自分のことを信じず受け入れない人々に対して決定的なことを言われます。「あなたたちが聞かないのは神に属していないからである」と(47節)。先ほど、全ての人は神の前に罪を犯して堕落している、と言いました。その意味では救い主としてお生まれになった神の御子イエスの他の者は皆、神に罪を犯して背を向け逆らっています。しかし主である神は、そのような全人類の中から、神の御言葉を聞き、神を呼び求める者たちを生みだすことがおできになります。それが神に属する者たちです。これは私たちのあずかり知らぬところで神がお決めになることです。
そうすると、次のような不安の声が起こってくるかもしれません。自分は神に属しているのだろうか、いないのだろうか、と。しかしそれはここで主イエスが言われたように、神に属する者は神の言葉を聞く、つまりイエスの語る御言葉を受け入れるということを思い出せばよいのです。主イエスの御言葉を聞いて、イエスによる救いをいただきたいと願う人は、神の言葉を聞く人です。だから自分は神に属している者だ、と信じてよいのです。イエスの御言葉を聞き、信じようとする人は、イエスが悪霊に取りつかれているなどと言うはずがありません。イエスのお語りになる御言葉は神の御言葉そのものであり、真理を語っていると信じます。真理の御言葉は私たちを救うことができます。
なぜなら、神の御言葉は真理であり、神について、私たちの救いについて誤りなく私たちに教え、導くからです。そしてそれは主イエスのお語りになる御言葉そのものです。この真理の御言葉は、今日この世界において聖書を通して聞くことができます。聖書を通して今日も語っておられる神は、私たちに語っておられます。この世では実に多くの言葉が語られますが、私たちに神からの直接の言葉として語るものは、聖書の御言葉のみです。そして教会はその御言葉を説き明かし世に対して告げ知らせます。信徒たちはその御言葉によって日々教えられ、強められ、励まされ、何より真理を教えられ、生きておられる神御自身を示されています。聖書で語っておられるイエス・キリストにつき従い、救われたいと願っている人は、主イエスの真理の御言葉によって確実に救いにあずからせていただけるのです。
1.イエスを受け入れない人たち
主イエス・キリストは、御自身のことを受け入れない人々に対して、はっきりと言われました。あなたたちはわたしを殺そうとしている、と(37節)。実際、これまでもイエスを受け入れない人々がイエスを殺そうとしていたことが記されていました(5章18節、7章1節等)。そして主イエスが、自分は「父」のもとで見たことを話している、と言われたのでそれに対して人々が自分たちの父はアブラハムである、と述べたのが今日の話です。
イスラエルの人々にとってアブラハムは誇るべき先祖であり、その子孫であることを自負していました。イエスはアブラハムの子孫ならイエスを殺そうとするはずがないと言われます。アブラハムは神の御言葉をへりくだって聞き、信仰によって歩んでいたわけですから。ここでの問答は、イエスの言われる「父」と、人々が言う「父」とが、主イエスに言わせれば違う、ということに問題があります。人々は自分たちの父はアブラハム、更に言えば神だ、と主張しますが、主イエスはそのようには見ておられません。
アブラハムは「信仰の父」とよく言われます。主の約束を信じ、その信仰を義と認められたからです(創世記15章6節)。主イエスを受け入れようとしない人たちも、自分たちはアブラハムの子孫であり、神を父と仰いでいるのだ、と誇らしげに語ります。しかし主イエスは神があなたたちの父であるならば自分を(イエスを)信じるはずだと言われます。イエスがこのように言われるのは、御自分が神のもとから来た、ということを自覚しておられるからです。この点が、主イエス・キリストと他の人との大きな違いです。私たちは誰でも物心ついて気がついたらどこの国に生まれて両親は誰で、男か女か、ということを自覚してゆくようになります。生まれる前はどこにいたかなど知っている人は一人もいません。ところがイエスは、御自分がこの世に人として生まれる前のことを知っていました。そいう特別な存在としておられた方であり、確かに人間としてお生まれになったのではありますが、神の御子として父なる神のもとにおられた方です。そして神によってこの世に遣わされたのですから、このイエスに聞くことが、神について知るもっとも近道なのです。ところがユダヤの人々はそれを素直には信じられません。
2.悪魔から出た者
このような人々に対して、イエスは驚くような厳しい言葉を言われます。「あなたたちは、悪魔である父から出た者」であると(44節)。悪魔とは、その起源について聖書はそれほど詳しくは述べていませんがいくつかのことはわかります。悪魔とはあげつらう者、告げ口するものであり、人間を罪に誘い、罪を犯させ、神から引き離そうとする者です、神に敵対して逆らうのですが、神と対等の力を持っているわけではありません。悪魔とは堕落した天使とみなされますので、力関係では天使たちとかろうじて戦える存在に過ぎません。そして最初から人殺しであり、真理をよりどころとせず、本性から偽りを言う者だとイエスは言われます。
神が悪魔を最初から悪い者として造られたのではなく、もともと天使だった者が自らの意志で神に逆らい、堕落してしまい、そして人間をも堕落へと誘い、神に罪を犯させたのでした。そのようにして悪魔の誘惑に負けて罪を犯してしまった人間を罪から救うために遣わされたのが神の御子イエス・キリストです。ですから、そのイエスに聞き従わず、逆らい、却ってイエスを殺そうとするということは、悪魔と同じ業をしていることになります。悪魔は最初から人殺しである、と言われます、人殺しと言うと私たちは強盗殺人のようなことを思い浮かべてしまいがちですが、ここで言う人殺しとは、人間を罪に誘い、神から引き離し、罪の内に死に、滅びへと連れ込んでいくことです。神に逆らうことは最終的に人間を滅びに至らせることになります。それを悪魔は望んでいます。そこから神に立ち帰らせ、救おうとするイエスを殺そうとするのは、悪魔のわざに加担することであり、その業を共にすることにほかならないのです。
それで主イエスは反対する人々に、あなたたちは悪魔という父から出た者だと大変厳しいことを言われたのです。ましてや彼らは目の前で神の御子イエスを見、そのなさった御業を目の当りにしていたにも拘らず、それをあえて受け入れず、頑なに拒み続け、挙句の果てにイエスは悪霊に取りつかれているとまで言い放ちます(7章20節、8章48節)。それだからイエスの方も厳しい答えをされたのです。ですから、今日私たちの周りにいる人々がイエス・キリストを信じず、反対しているからといって、その人々にあなたたちの父は悪魔だ、などと私たちが言うことはしません。どんなに頑なな人でも、聖霊の恵みによってその心が打ち砕かれて悔い改めに至り、信仰の道に入って救われることもあるからです。
ただし、忘れてならないのは、私たちすべての人間は最初の人アダムが悪魔の誘惑によって罪を犯して堕落した結果、神に対して罪人となっている、ということです。アダムだけが罪人になったのではなく、アダムの後に生まれて来た人間はみな罪がある者として生まれてきているのです。そしてその罪を取り除き、赦しを与えるために主イエスは来てくださったのですから、この救い主を拒み続け反対し続け、それを貫き通してしまうなら、自ら罪の赦しと救いの道を閉ざしてしまうことになるのです。そのことは私たちも覚えておかねばなりません。
3.イエスは真理を語り、神に属する人は神の言葉を聞く
こうして主イエスは、御自分のことを信じず受け入れない人々に対して決定的なことを言われます。「あなたたちが聞かないのは神に属していないからである」と(47節)。先ほど、全ての人は神の前に罪を犯して堕落している、と言いました。その意味では救い主としてお生まれになった神の御子イエスの他の者は皆、神に罪を犯して背を向け逆らっています。しかし主である神は、そのような全人類の中から、神の御言葉を聞き、神を呼び求める者たちを生みだすことがおできになります。それが神に属する者たちです。これは私たちのあずかり知らぬところで神がお決めになることです。
そうすると、次のような不安の声が起こってくるかもしれません。自分は神に属しているのだろうか、いないのだろうか、と。しかしそれはここで主イエスが言われたように、神に属する者は神の言葉を聞く、つまりイエスの語る御言葉を受け入れるということを思い出せばよいのです。主イエスの御言葉を聞いて、イエスによる救いをいただきたいと願う人は、神の言葉を聞く人です。だから自分は神に属している者だ、と信じてよいのです。イエスの御言葉を聞き、信じようとする人は、イエスが悪霊に取りつかれているなどと言うはずがありません。イエスのお語りになる御言葉は神の御言葉そのものであり、真理を語っていると信じます。真理の御言葉は私たちを救うことができます。
なぜなら、神の御言葉は真理であり、神について、私たちの救いについて誤りなく私たちに教え、導くからです。そしてそれは主イエスのお語りになる御言葉そのものです。この真理の御言葉は、今日この世界において聖書を通して聞くことができます。聖書を通して今日も語っておられる神は、私たちに語っておられます。この世では実に多くの言葉が語られますが、私たちに神からの直接の言葉として語るものは、聖書の御言葉のみです。そして教会はその御言葉を説き明かし世に対して告げ知らせます。信徒たちはその御言葉によって日々教えられ、強められ、励まされ、何より真理を教えられ、生きておられる神御自身を示されています。聖書で語っておられるイエス・キリストにつき従い、救われたいと願っている人は、主イエスの真理の御言葉によって確実に救いにあずからせていただけるのです。
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