「魂に命を得よ」2021.6.27
 イザヤ書 55章1~13節

 今日は、主の御言葉の確かな力と、魂に命をくださる恵みを受けよ、と神である主は私たちに命じておられます。


  1.主を尋ね求めよ

 このイザヤ書は66章まである大変長い預言書ですが、その終りの方、特に40章以下などは、主の慈しみと憐れみによって主の民に与えられる祝福がいかに豊かなものであるかが描き出されています。そして、今日の55章の出だしのところにあるように、主の招きに応えてそのもとに行くなら、豊かに恵みを注いで憐れみを与え、赦しを与えてくださる、との約束が与えられています。

 初めの方では、穀物やぶどう酒と乳を得よ、と命じられており、一見すると物質的、経済的な豊かさを強調してそれを与える、と言われているようですが、7節までを見渡してみると、魂が豊かさを楽しみ、命を得ること、主が憐れみによって赦しを与えてくださることなどが言われていますから、ここでの祝福は豊かに食べたり飲んだりできるという物質的なものを指して言っているのではなく、象徴的に主の恵みの豊かさを描き出しているものです。

 神様の祝福というものは、物質的なもので与えられることもありますが、どのような形で与えられるとしても、人が主なる神との強いつながりを与えられて神の導きや助けの中で魂を受け入れていただき、神と共にある者として生かしてくださることとして与えられます。神の恵みの豊かさを味わい、楽しむのはあくまでも「魂」です(2節)。ですから、食べ物や飲み物、目に見えるものによって感覚的に楽しみ、喜ぶだけなのとは違います。物質的なものであれ、心の喜びと平安であれ、主なる神から与えられたものとして喜び楽しむことができるのです。

 私たちのするべきことはひたすら主に求めることです。「主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに」(6節)。見いだしうる時、近くにいますうち、とはどんな状態のことでしょうか。主は全てを治め支配しておられる方です。そしてその御力と恵みによって私たちに働きかけることがおできになります。様々なすべてのことを通して御自身の存在と、導きと、助けとを示してくださいます。そういったものを見過ごさない、見逃さない、見落とさないようにすることです。既に信じた人は、主を見いだしうる機会を与えられて、その時に尋ね求めた人です。主が近くに来てくださったときに呼び求めた人です。

 しかし生まれながらの私たち罪人は、そのように神を見いだしうる機会を見逃したり、せっかく近くにいてくださるのに素通りしてしまう鈍い者になっています。ですから、このような呼びかけを聞いて耳を向けたり、呼び求めたりすることができるとしたらそれもまた主の大きな恵みです。なぜ私は主の呼びかけに応えて信仰の道に入ってきたのだろうか、と顧みて見た時に、どうしても理屈ではわからない所があるはずです。なぜ目に見えない神を信じ、主イエスの十字架と復活を信じることができたのだろうかと考えてみると、それは大きな神の御力に包まれて自分がそこへ導かれた、としか言えないことがわかるのです。それが悔い改めと信仰を与えてくださる聖霊の恵みです。


  2.とこしえの契約のゆえに

 私たちが主なる神を信じて生きることができるのは、主が私たちと確かな契約を結んでくださるからです。「ダビデに約束した真実の慈しみのゆえに」(3節)と言われていますが、ダビデへの神の約束とは、ダビデの子孫から神の王国を立てる王が出ること、その王座はとこしえに続き、固く立てられることです。そしてそれは神の真実の慈しみによっています。神の慈しみは真実なものですから必ず実行され、取り消されることも中止されることもありません。そして、とこしえの契約であるということは、今から後いつまでもその契約が保ち続けられることを表します。

 私たち人間は、この世にほんの限られた時間現れて生きて生活し、過ごし、年を重ねてゆきます。そして必ずこの世を去る時がきます。また、私たちは永遠からいたわけではありません。あるとき、命の主である神によって命を与えられました。そして限りある命を生きてゆきます。しかし、そのような限りあるはずの私たちに、とこしえの命を与えてくださるのが主なる神です。とこしえにおられるからこそ、私たちととこしえの契約を結び、私たちがとこしえに生きることができるようにしてくださるのです。

 このような主の約束は、主の御言葉の確かさによって実現してゆきます。ひとたび主の口から出た御言葉は空しく戻ることはなく、必ず語ったことを実現します。そして、それが実現して行く際、私たちの思いを高く超えていることを思い知らされます。私たちは、人の心や行動、また考えを支配することはできませんから、思った通りにすべてのことを実現させることなどできはしません。あるとしたら、ドラマや映画や小説の中で、作者が登場人物やすべてのことを結末に向けて収斂させてゆくことくらいでしょう。現実では無理だから、創作の世界で人間はそれを行います。しかしまた人間がそのような力を持っているのも主なる神の御力を映し出す、「神のかたち=イメージ」を担う人間だからこそと言えましょう。しかし神は現実の世界でそれをなしたもうお方です。そのような方だからこそ、とこしえの契約をむすぶこともできるのです。


  3.魂に命を得よ

 このように主である神が私たちに呼びかけ、招き、主御自身に良いものを求めよ、と言われるのは何故でしょうか。とこしえの契約を与えてくださるのは何故でしょうか。それは、私たちの魂に命を与えるためです。こういうと、いや魂は生きているからこそ魂なので、そこには初めから命があるのではないか、という声が聞こえてくるかもしれません。確かに魂は生きているものであり、魂がなければそれは死んでいる、と言えるでしょう。では聖書で神が言われる「魂に命を得よ」とはどういう意味でしょう。

 それは、生まれながらの人間が持っている魂が、神によって新しく生かされ、新しい命を与えられて生きるようになることです。生まれながらの人間はそのままでは神との生きたつながりを失っています。聖書はそれを人間の罪と呼びます。それでも人間には神から与えられた知恵とか判断力とか、優れた手先の器用さなどがありますから、この世で様々な物を作り出し、技術を発展させ、この世の社会を進展させ、文化文明を発展させてきました。実はそれもまた神の恵みなのですが、残念ながら人間はそのこともまた悟ってはいません。罪のゆえです。動物とは違って言葉を聞き分け、ものを考え、命と死について考えることができるのが人間です。それでも、神によって新たに生まれなければならない。神に聞き従うことによって魂に新たに命をいただかなければならない。それが世に生きる人間だと。これを、神は聖書によって教えておられます。

 この預言者イザヤの時代より何百年も後にこの世にお生まれになった救い主、神の御子イエス・キリストは、私たちに永遠の命を与えるために神の御言葉を語り、救い主として私たちの罪を償い、十字架で御自分を献げてくださいました。イザヤが語った、「聞き従って、魂に命を得よ」という御命令は、救い主イエス・キリストによって、よりはっきりと鮮やかになりました。神の御子、救い主イエス・キリストを信じて、聞き従い、魂に永遠の命を得よ、と今私たちは呼びかけられています。主イエスは言われました。「誰でも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」(ルカ11章10節)。これは、財産でもお金でも家でも何でも、欲しいものは求めれば何でも手に入れられると言っているわけではありません。人間にとって最も大事な命、しかも魂に新しく与えられる命、決して朽ちることのない永遠の命、それを神に求めるなら与えられる、と言っているのです。そして特に神がくださる良いものは「聖霊」である、と明らかにしておられます(同13節)。聖霊なる神が与えられて初めて私たちは神に聞き従う者とされ、魂に命を得ることができます。主を尋ね求める人の内には、実は聖霊が働きかけてくださっていて、主を尋ね求めるように導かれて行ったのです。

 だから、私たちは主イエス・キリストに聞き従い、新しい命、永遠の命を得なさい、と強く勧められています。この神の呼びかけを自分に向けられている神の招きとして聞き、受け入れる人は本当に幸いな人です。私たちの神である主は、その愛する独り子を私たちのために遣わしてくださいました。それ程の御心を、私たちは無にすることはできません。本当に良いものを受けたいと願うなら、真の神に聞き従うしかありません。神である主は、聞き従う者に真実な慈しみをもって共にいてくださいます。僅かの時間見いだしうるようにしてくださるとか、少しの時間近くにいてくださるとかではなく、ずっと、永遠に私たちと共にいてくださるのです、それは主イエス・キリストの約束です。主イエスがいつも近くにおられるなら、私たちは何も恐れることはありません。死にさえも打ち勝たれた方なのですから、この主イエスに従う者にも死に対する勝利が保証されており、永遠の命が約束されているのです。

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