「主がこの場所におられる」2021.6.20
 創世記 28章10~22節

 旧約聖書の各書物から一ヶ所ずつほぼ毎月お話ししてきましたが、旧約聖書が一巡しましたので今日は創世記から神の御言葉に聞きます。この創世記には、非常に重要な記事がたくさんありますので、皆さんも、通読に励んでください。そして大きな物語の中に、一人の真の神の大きな御心と確かな御計画、恵みと慈しみが示されていますから、それを知り味わうことで、主であられる神様のことを一層よく知ることができるようになります。その同じ神様が、私たちに御子イエス・キリストを遣わしてくださり、現代に生きる私たちにも今日、語りかけておられます。


  1.主の約束を信じて生きる

 ヤコブは、アブラハムの子であるイサクの子です。双子の兄エサウから父親の祝福を横取りしたことでエサウの怒りを買い、エサウから逃れるために生まれ故郷と両親のもとを去り、母親のリベカの親戚を頼って旅に出ました。ヤコブはベエル・シェバからパダン・アラムへと向かいますが、この距離は直線でも700㎞以上ありそうです。尾張旭あたりからですと、直線で青森県くらいまでの距離です。新幹線なら数時間ですが、歩いて旅をしたヤコブは、一体何日間歩き続けたことでしょう。今日のこの場所は「とある場所」とありますが、「ベテル」と名づけられたその場所は、ベエル・シェバからは100㎞以上離れています。長い旅の初めの方のことです。

 石を枕にして一夜を過ごしたヤコブの夢に主が現れて言われます。この主の御言葉は、アブラハム、イサクに語られた祝福の約束でした。ヤコブが横たわる土地をヤコブと子孫に与えること、それにより地上の氏族のすべてが祝福に入るという約束はアブラハムとイサクに示されたものと同じです。しかし15節の「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る」という約束は、特にヤコブに与えられたものです。ヤコブは長い旅をして遠い国へ向かいます。その旅の初めに当り、恐らく大変心細い思いをしていたでしょう。しかし主は力強く彼を励ましてくださいました。どこへ行っても共にいてくださることと、必ず元の土地に連れ帰ってくださること、この二つの約束は、旅に出る者に対するこれ以上ない強い支えとなるものです。

 約束したことを果たすまで決して見捨てない、という主の約束は何という力強いものでしょう。このような約束は、主から直接言われたら、私たちはとても心強いと思います。今日の私たちもこのような約束をいただいています。主が私たちに約束を伝える手段は旧約聖書の時代以来、じつにいろいろです。このヤコブに対するように夢、または幻、天使が現れて語ること、預言者が伝える言葉、など様々ですが直接主が語られることもありました。そしてその最高の形が神の御子イエス・キリストがお語りになることでした。

 その神の御子が私たちに与えてくださったのは、「わたしは世の終わりまでいつもあなたがたと共にいる」(マタイ28章20節)という約束です。ヤコブに、「あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない」と言われた同じ主が神の御子としてこの世にお生まれになり、今度はヤコブに限らず世の終わりまで信じる者たちと共にいる、と言われたのです。これ以上に力強い約束はありません。


  2.まことに主がこの場所におられる

 こうして約束をいただいたヤコブは、旅の空で眠りから覚めた時、「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった」(16節)と正直に言いました。両親のもとで暮らしていた時には、共に神への祈りを献げていたことでしょう。しかし孤独な旅の中で、そこに主がおられることを知らずにいたのでした。そしてそこを神の家、即ちベテルと名づけました。ここでヤコブは恐れおののいて言ったとあります。彼は父親のイサクから、主のことを何度も聞いてきたはずです。主のことはいろいろ聞かされてきたのですが、今、父親のイサクを経てではなく、孤独な自分に直接お語りくださる主を改めて知って、恐れを抱いたのでした。本当に主が生きておられて、父親経由ではなくて、自分にお語りになるお方だと知って、畏れ多い気持ちを抱いたのです。

 私たちと天地の主なる神との間には無限の隔たりがあります。しかしその隔たりを自ら埋めて近づいてくださるのが主ですが、やはり時に人間は自分の小ささに気づく時があり、それに対する主の偉大さを知った時、どうしても畏れの心を抱くことでしょう。主は人に親しくお語りになりますが、人は神と対等ではないことを覚えねばなりません。


  3.神は私の旅路をお守りくださる

 まことに主がこの場所におられることを悟ったヤコブは、そこに記念碑を立て、誓願を立てました。このヤコブの言葉は、一見すると条件付きで神に語り、もし約束をその通りに適えてくださるなら、その際にはこの記念碑を神の家として、主が与えてくださるものの10分の1を献げます、と言っているように見えます。ヤコブの気持ちはどういうものでしょうか。主の言われることを半信半疑で受け取り、もし本当にかなえてくださるなら、その時には献げましょう、ということでしょうか。やはりここは、そのようなヤコブの半信半疑の心から出ている言葉ではなくて、主の約束を単純に信じている者が、その約束が実現した際には、感謝のしるしとして、主が与えてくださったものの中から喜んで献げます、という信仰と服従の告白をしているに過ぎないのだと思います。

 ヤコブは神こそ自分の旅路を守ってくださる方であることを信じていました。今日の私たちは、主イエス・キリストから、次のように教えられています。「『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が節に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものが皆あなたがたに必要なことをご存じである」と(マタイ6章31、32節)。

 私たちのこの世での旅路は限られたものであり、主が私たち一人一人に分け与えてくださっているものです。主はヤコブに対して必ずこの土地に連れ帰る、と言われました。私たちにも、帰るべきところがあります。ヤコブは主が夢に現れてくださった場所を「神の家」(ベテル)と名付け、「そうだここは天の門だ」とも言いました(17節)。今日、キリストの教会は神の家と呼ばれます(Ⅰテモテ3章15節)。神の家である教会は、天の門でもあります。天につながるところです。そして私たちは最終的には文字通り天の門を通らせていただき、神の国、という神の家に帰らせていただくものです。そこに至るまではこの世にて、神の家として地上に姿を現している教会に属し、その一員として過ごします。そして私たちが生きているこの世では、私たちが主を礼拝し、その約束を信じて生きる場所に、主がまことにおられます。そのことを信じて私たちは主がお与えくださったこの世の旅路を歩み続けるのです。

 では、主がまことにこの場所、つまり今自分のいる場所に共におられることは、一体何によって知ることができるでしょうか。肉眼では主を見ることはなく、主の肉声を聞くこともない私たちに与えられているしるしはあるのでしょうか。もちろん、主が祝福してくださっていろいろ目に見える恵みを示して共におられることを証しされることもあるでしょう。しかし特に、このヤコブがそうであったように、孤独な旅の途上に、不安を覚える中に、先行きが見えないけれども進まなければならない時に、そういった中でこそ知ることができます。ヤコブには特別に夢で主が現れてくださいましたが今日の私たちには、目で読み、耳で聞ける神の御言葉とその説き明かし、そしてそれを信じる兄弟姉妹たちの姿、その祈りと賛美と、励ましの言葉、そして様々な出来事を導かれる見えない主の御手を感じ取る信仰。そういったものによって私たちは十分に主がここにおられることを確信できるのです。

 そしてそれはどうしても信仰によって受け取るものです。信仰によらなければそれらは受け取ることができません。その信仰もまた主からの賜物です。そしてヤコブと同じように「まことに主がこの場所におられるのにわたしは知らなかった」と告白せざるを得ない状況に至るかも知れません。しかしその告白ができることは、実に幸いなことです。

 こんな孤独な旅をしなければならないなんて、神の助けはどこにあるのだ、と不平を漏らさずにおられないような状況の中でこそ、ヤコブに信仰告白の時が与えられたことを覚えておきましょう。私たちが弱さの中に陥ったと思う時こそ、主の力を味わうべき恵みの時です。主がこの場所におられることを確信させていただけることを期待して信頼し続けましょう。主の約束は、必ず確かに私たちの身に、周りの人々に実現してゆくことを信じる信仰の道を、主イエスのあとについて歩み続けましょう。

コメント

このブログの人気の投稿

「聖なる神の子が生まれる」2023.12.3
 ルカによる福音書 1章26~38節

「神による救いの物語」 2023.11.26
?ルカによる福音書 1章1~25節

「私たちは主に立ち帰ろう」 2023.11.12
哀歌 3章34~66節