「イエスは真に人を生かす」 2021.6.13
ヨハネによる福音書 8章48~59節

 イエスとは一体誰で何者なのか。結局、この問題を中心としてヨハネによる福音書は全体を記しています。今日キリスト教会が世界中に立てられており、イエス・キリストを信じる人々がいることは、イエスとは一体誰で、私たちに何をしてくれるのか、このことにかかっています。今日もイエスとユダヤ人との問答が続きますが、人々は、自分たちの信じている神とイエスとの関係が分からない、だから受け入れたくない、認めたくない、というのがその言い分です。それは、今日に置き換えればこの現代で、なぜ大昔のイエスの言葉や行いを知る必要があるのか、そして現代人がなぜイエスについて聞かされねばならないのか、ということになるでしょう。イエスというお方は時代を超え、場所を超え、全ての人に対してその存在と御言葉と、御業とを示しておられ、「私に聞きなさい」と聖書を通し、それを説き明かす教会を通して語り続けておられます。このイエスの御言葉を退けずに聞く私たちは真に幸いです。


  1.イエスの言葉を守るなら

 主イエスを信じようとしない人々は、イエスはサマリア人で悪霊に取りつかれている、と言います。サマリア人である、というのはユダヤ人からすると相手に対する侮辱の言葉です。サマリア人は神の民であるユダヤ人たちとは歩みを別にしている民で、神に背く者、律法に従わない者とみなされていました。しかも悪霊に取りつかれていると。これは、神の御心を人々に伝え、神の御言葉を直接語る神の御子イエスに対する最大級の侮辱です。

 主イエスはこれに対して、御自分は悪霊に取りつかれてはいないと言われました。そして神の栄光を求めて業を行っている、と証しされます。そして非常に重要な御言葉を語られます。「わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことはない」と(51節)。この御言葉がここでの鍵になります。聞いていたユダヤ人たちは、この言葉をとらえて、イエスが悪霊に取りつかれていることがはっきりしたと言います。つまりアブラハムも預言者たちも死んだのにイエスの言葉を守る人が死なない、などと言うことは全くあり得ない、そんな言葉を聞いていられるか、と言いたいわけです。とにかく、彼らはイエスを認めたくないので、何でも言葉尻を捉えては挙げ足を取るようなことをしてイエスを否定したいのです。しかしイエスは御自分が神からの権威を授かっている者として厳然と語られます。「自分の言葉を守るならその人は決して死ぬことがない」という宣言は確かに普通ではありません。こんなことを言える人は誰一人いません。今まで登場してきた預言者たちはすべて神の戒めと御言葉を守るなら神の祝福に与れる、という趣旨のことを言ってきたわけですから、全く違います。イエスの言われることは他の人とは次元が違うのです。

 そしてイエスの言葉を守るとは、語られた言葉を受け入れ従い、行うことを意味します。しかしそれはただすぐれた教師の言うことを信頼してその通りにするというだけではなく、イエスの内に神の権威を認めて従うことを含みます。ただ人の言うことを守るということではありません。それに、イエスが単に普通の人間にすぎないなら、その言葉を守ったからと言って人に命を与え、死なないようにすることなどできるはずもありません。主イエスの御言葉には神の権威があります。語られたことはその通り実行できるのです。


  2.偉大な先祖アブラハムの生まれる前から

 このように権威ある言葉を語られる主イエスに対して、人々は「あなたは自分を何者だと思っているのか」と問い詰めてきます。この問いに対しての主イエスの答えは、すぐには与えられません。しかし御自身が神を知っており、その神を父と呼んでいること、その御言葉を守っていることを明らかにされます。そして、イスラエルの人々にとっては最重要な人物であるアブラハムを引き合いに出して、とても意味深いことを言われます。アブラハムはイエスがこの世に来られ、そして神の御業をなさる日を心待ちにしていたと。しかもそれを見て喜んだとまで言われます。

   アブラハムは主イエスがこの世にお生まれになる1900年ほど前の人です。そのアブラハムがイエスの日を見て喜んだ、とはどういう意味でしょうか。アブラハムは、主なる神から「あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように」。そして「地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」と約束されました。そして星の数ほど子孫を与える、との主の約束をアブラハムは信じました(創世記15章7、8節)。アブラハムは、自分を通して世界中の人々が神の祝福を受けることを信じました。それは、後に多くの人々がアブラハムと同じように主を信じる信仰によって祝福に入れていただけるようになることを信じたということです。

 ところが主イエスは、アブラハムのように主を信じて祝福に入れていただけることは、御自分のこの世での業によって実現すると語られました。アブラハムに与えられた祝福の約束は、主イエスという救い主によって実現するのです。ですからアブラハムは、主イエスの日を見るのを楽しみにしており、それを信仰によって見てと喜んだ、と言われたのでした。ですから主イエスは、長い年月を超えて神のアブラハムに対する約束は御自分を通して実現することを知っておられ、御自分とアブラハムを結びつけることを当然のように言われたのです。人々は「あなたはまだ50歳にもならないのに、アブラハムを見たのか」と言います(57節)。30歳前半の若さで何がわかるのかと。それに対し主イエスは最後に決定的なことを言われます。「アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』」(58節)。

 これは、旧約聖書の出エジプト記で主なる神が御自身のことを自己紹介された時の言葉と共通するもので、主イエスの神性、つまり神としての御性質を持っておられることを自ら明らかにされたのです。アブラハムは先ほど言いましたように、イエスの時代よりも1900年くらい前の人です。それほど前に生きていた人よりも前から自分は存在している。こういうことを言う人は、全くのありもしないことを言っているだけか、本当にそうか、どちらかです。イエスはただ口から出まかせを言っているのではなくて、御自身がどういう者であるかをいろいろな業をもって示しておられましたから、それらを見て来た人が素直に受け止めれば、イエスという方はアブラハムの生まれる前からおられ、神から遣わされてこの世に来られ、神と共におられた神と等しいお方であると言わざるを得ないのです。


  3.イエスの言葉を守るならその人は死なない

 こういうお方である主イエスの御言葉にもう一度目を向けましょう。「わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことはない」(51節)。イエスの言葉を守るとは、その権威を認めて信じ、受け入れ、その教えに従って生きることです。では、そういう人は死ぬことはない。これは本当でしょうか。それは確かめることができるのでしょうか。イエスの言葉を守る人はクリスチャンです。ではクリスチャンになった人は誰一人死ななかったかと言うと、もちろんそうではなく、使徒ペトロもパウロも、歴史上の有名な信徒たちも皆、死にました。ではこのイエスの御言葉は誰にも実現していないのかと言うとそうではありません。ここでは「死ぬ」という言葉の意味が違います。人の死には二種類あり、一つは普通に私たちの知る、寿命が尽きたらこの世を去るという意味での死です。もう一つは、神との親しい喜ばしい関係、交わりが断たれてしまうことです。そもそもすべての人間は、生まれながら神に対して罪を犯していますので、その意味では神に対して死んでおり、本来あるべき神との親しい、良い交わりを自ら壊してしまっています。それでも神の憐れみによって神の御言葉は語りかけられ、神の御心が示されています。それに聞き従う者には神によって命を与えられる道が残されています。そしてその命の道をもたらしてくださったのが神の御子イエス・キリストなのです。しかし、もしそのまま神との関係が壊れているままでいるなら、その行き着く先は、完全に神との交わりが断たれてしまう「死」です。しかしイエス・キリストは、私たちをそこから救い出し、その最期に来る決定的な死を迎えなくて済むようにしてくださるのです。だからイエス・キリストは救い主と呼ばれます。

 私たちは誰でもこの世に生きて日々の生活をしていると、それだけで生きていると思っています。そんなのは当たり前だ、と多くの人は思うでしょう。確かにこの世で日々生活をし、働き、学び、食べ、眠り、時には遊び、自然や芸術やスポーツを楽しみ、旅をし、何かを築いてゆく。こういった営みを続けている人間は、その生活が充実していれば、ああ、自分は生きている、と実感することでしょう。そして生きていさえすれば何とかなるとか思うかもしれません。そして災害に会ったり、大病をしたりすると、平穏な日常や忙しくても動き回り働けることは幸せでありがたいことだと思うでしょう。しかし救い主イエスはそういう私たちに対して鋭く問いかけて来られます。神との交わりを回復しなさい、神の御言葉に聞きなさい、良きものをくださる神を喜び、感謝し、神をあがめ、より頼みゆだねて生き、それを喜びとしなさい、と。それこそ真に生きることだと神は言われるのです。そのように御自身のもとへと招いておられます。この救い主の尊い招きに応え、その御言葉を守ることへ心を向ける人は幸いです。そこにこそ、人間の真の幸いがあります。神の権威を持って語られる主イエス・キリストを信じ、自分をゆだねましょう。

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