「喜びも悲しみも」2021.5.9
 詩編126編1~6節

 「喜びも悲しみも」という題を聞くと、世代によっては「喜びも悲しみも幾年月」というドラマを思い出される方があるかもしれません。実は私はその内容は知らなくて、題だけ耳にしたことがあります。調べたら、私の生まれる前に作られたもので、戦前から戦後に至る灯台守の夫婦の25年間を描いた長編ドラマなのだそうです。25年間という期間は、果たして長いでしょうか、短いでしょうか。人の一生の長さはもちろん一人一人違いますが、今の日本人の平均寿命からすると、三分の一程度ということになります。それなりの長さですがたとえ10年でも、人の歩みの中には喜びも悲しみもあると思います。大抵の場合、その両方が入れ替わり立ち代わり現れてくるでしょうが、そもそも、私たち人間にとっての最大の喜びは何でしょうか。また、最大の悲しみは何でしょうか。これもまた人によって違ってくるでしょうが、単純に分けてみると、喜びとは何かを得ることであり、悲しみとは何かを失うこと、と言えるのではないでしょうか。その何かは、人や物だけではなく、関係、機会、場所、立場、資格、将来の道や希望などでしょうか。私たちはそういったものを得ては喜び、失っては悲しむ、ということを繰り返しています。それがこの世の人生だということも言えます。

 今日は、この詩編126編に書かれていることから、聖書で語っておられる主である神は私たちの喜びや悲しみといったものをどのように私たちに教えているのかを聞きたいと思っています。そして、そのことによって、喜びも悲しみも常に私たちにつきまとうこの世の歩みを、より良いものへと主なる神によって導いていただけるようになりたい、と願っています。そして私たちが主なる神につながっているなら、喜びも悲しみも共に受け止め方が違ってくるということも教えられているのです。


  1.主の御業を喜ぶ

 この詩編126編は短いものですが、主である神によって喜びを与えられた人の作です。捕われ人、とありますが、イスラエルの人々は紀元前6世紀にバビロンという大帝国によって侵略され、都は廃墟とされてしまいました。そして国の主だった人たちはバビロンへ捕囚として連れ去られ、故郷を離れて暮らさなければならなかったのです。しかし時代が移り、ペルシア帝国の支配になるとイスラエルの人々に、故郷へ帰って国を再建してよい、という勅令がペルシアの王から与えられたのでした。それを聞いた人たちは、それは主が自分たちを故郷へ戻してくださるのだ、と信じて喜んだのです。国が廃墟となって異国に連れ去られたことも実は神の裁きと懲らしめによるものだと人々は理解していました。だから、捕囚になっても、それは神が弱いからではなくて、自分たちの罪のゆえであると心得ていたのです。歴史の動きもすべて神の御手の中にあることを信じているからです。

 そして、主に背いた自分たちと先祖の罪を思いながらも、その主が赦してくださって故郷へ帰る道を備えてくださいました。それをこの作者は喜び、人々は喜ぶのです。それは主である神の御業、主が自分たちにしてくださったことであり、主のなさることが自分たちに向かってなされている、と確信できたから、それを喜んでいるのです。ここに、主である神がもたらす喜びがどんな種類のものか、それが示されています。主が自分たちに対して働きかけてくださっていると確信できるなら、それが喜びとなるのです。


  2.悲しみをも味わう

 しかし、このような喜びを味わう前には人々は辛苦を味わっていましたし、悲しみも味わいました。故郷を遠く離れていたのですから当然と言えば当然です。「涙と共に種子を蒔く人は 喜びの歌と共に刈り入れる」(5節)と歌われているのはそのことを表しています。

 特に神を信じていない人でも、嬉しいこともあれば悲しいこともある、雨の日ばかりではない、必ず晴れる時も来る。夜は必ず開けて朝が来る、というようなことを考えるでしょうし、実際そういう言葉も聞きますし。それはある面現実を現してもいます。ただし、その喜びと悲しみがどのような意味を持っているかが大事なのではないでしょうか。例えば宝くじに当って大金を受け取った人は、運が良かったと思うでしょう。逆に投資をしていたが損をしてしまったとすると運が悪かったと思うか、見通しが甘かったと思うかでしょうか。

 また、この世には喜びも悲しみも必ずついて回るものだということも、どこの世界でも人々は人生経験の中で味わってきたものでしょう。だからこそ、「喜びも悲しみも幾年月」というようなドラマも作られ、人々の共感も得られるわけです。そして、人間は悲しいことや逆境の中でも、それに耐えて生きてきたと言えます。「笑う門には福来る」ということわざがありますが、つらい状況でも割って過ごしている人には幸福がやって来るという考え方です。要するに気持ちの持ちようで変わってくるというわけです。確かにそのような気持ちの持ちようである程度変わってくるということはあるかもしれません。

 世の中にはいろいろな信仰がありますから、その中には人間の幸不幸は神々の手に握られている、という考え方はあるわけです。それで自分たちの神々に供え物や犠牲を献げて、その報いとして幸福を与えてもらいたいと願うのです。いわば神々に機嫌良くしていてもらいたい、というわけです。それが人間にとって都合が良いのです。神々の怒りに触れてたたられてはたまらないからです。

    また、先ほど言いましたように、気の持ちようで悲しみも受け止めやすくなることはあるかもしれません。しかしそうではなくてすべてのことを見ておられる生ける真の神の御力を信じる者は、たとえ悲しみであってもそれを受け止めていくことができるのです。

  3.喜びも悲しみも共に受け入れて生きる

 では、どうしてそれができるのでしょうか。主なる神のもとでは、悲しみであってもそれなりに意味があるからです。すべてのことを見通しておられる神は、人間から見れば不幸な出来事も、良い方向へと変えることができるからです。六節にありますように、「種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は 束ねた種を背負い 喜びの歌をうたいながら帰ってくる」ことができるのです。

 偶然そうなるように見えることは、この世に生きていればあるかもしれません。しかし喜びも悲しみも大体半々で入れ替わり立ち代わりやって来るものだ、というような見方とは違います。神は御自身の民のために、大きな御業を成し遂げてくださるお方であり、なし遂げることができるお方です。

 この作者は、「わたしたちの捕われ人を連れ帰ってください」願っています。実は、主がその民を連れ帰られるということを聞いているのですが(1節)、今まさにそれが実現しようとしているところでこの歌を歌っているようです。異国に捕われていたということは悲しいことでしたが、主である神はそのような状態から人々を救い出すことができるので、悲しみは喜びに変わる。生きておられる神を信じる者は、そのような信仰に立つことができます。

 ここで言われている主である神は、今日の私たちに対しても、同じように力を発揮することができます。私たちも実はこの世にあっては捕われ人だからです。私たちはこの世に生まれた時から既に何かに捕われています。この世にあって、主に対する罪と悲惨に捕われています。それゆえ私たちの人生には常に悲しみがつきまとうのです。しかし主はそれを取り除くために主なる神の独り子である主イエス・キリストを遣わしてくださいました。この御子キリストによって、私たちを罪と死と滅びから救い出してくださいます。キリストにつながるならば、この世でどれだけ悲しみを味わおうとも、最後には大きな喜びがもたらされるのです。

 救い主をこの世に遣わされた、ということそれ自体、主が私たちのためになしてくださった大きな業です。すでに大きな業を主は成し遂げてくださいました。そして今もなお、私たちがその主の大きな業に結び付くようにと導いてくださっています。主を信じる者には主によって必ず大きな業がその人のためになされます。主にあっては、悲しみは悲しみのままで終わらないこと、主は必ずその御業によって確かな救いの喜びをもたらしてくださることを信じる者はまことに幸いなのです。この主は恐ろしいたたりをもたらす神ではなく、救い主イエス・キリストにあって私たちに慈しみを注いでくださる恵みと憐れみに満ちた主です。

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