「命にもまさる恵み」2021.5.30
 詩編 63編2~12節

 人一人の命は大変重く、地球よりも重いのだ、というような言い回しをしばしば聞くような時代もありました。人は多くのものを作りだしてきましたが、人工的に命を造ることはできません。できるのは元々備わっている生殖機能によって子どもを産むことだけです。人口知能を作ることができても、生命・命を造り出すことはできません。今日は、その命と神の慈しみについて、いにしえの詩編作者が歌った詩の一編から教えられています。


  1. 魂も体も飢え渇く

 私たちの体は水分を常に必要としています。食べなくても何週間か生き延びられるそうですが、水分を取らなければ、3日から5日くらいで命に関わるそうです。それほどに私たちの体は水分を必要としています。ですから体はすぐに水分不足を感じ、いろいろな兆候を示しますが、心・魂はどうかというとなかなかそれを感じるまでに時間がかかるのかもしれません。体は生きていても心はうつろになってしまうということが人にはあります。そして心に元気がなくなれば体もそれにつれて不調になって来ることがあります。体も魂も連動していますから、私たちはそういう命をもって生きています。

 ここでこの詩の作者は、自分は神を探し求め、自分の魂は神を渇き求めている、と訴えています。詩編には、最初に小さい字で書かれている表題と呼ばれるものを持つものがあります。この63編では「ダビデが荒れ野にいたとき」とあります。表題は、必ずしもすべてがその詩の作詩事情を歴史的に表しているとは言えないので、聖書本文としては読みませんが、その詩を味わう上での参考にはなります。イスラエルの王ダビデは実際、荒野で逃亡生活をしたことがありました。荒野にいれば渇きを覚え、何もない所では神を求めるしかない、という気持ちになったことでしょう。その率直な思いを歌ったとみることはできます。しかし3節ではすでに神の聖所にいると述べていますので、後で振り返っているのかもしれません。詳しい事情はやはりよくわかりません。

 それで、作者は神を捜し求めていたのですが、聖所では神を仰ぎ見、その力と栄えとを見ている、と言っています。これは文字通り肉眼で見ることではなく、信仰によって捜し求め、仰ぎ見ることです。肉眼では見なくとも、神を礼拝する聖所において神を仰ぎ見る。これは今日の私たちもいつの時代の人にとっても同じです。

 ところが今日のような時代では、目に見えない神を求めることは、一部の宗教に心酔している人たちがやっていることで、多くの人はそのような神を求めないのが現代人だと思われていないでしょうか。見えない神を信じている、というと信心深い人、珍しい人と思われるかもしれません。しかしその現代人はどうでしょうか。もちろん、現代人とひとくくりにして語ることは簡単にはできませんが、やはり人間は何か体も心も飢え渇いているのです。そして手頃な何かでその渇きを癒そうとしています。それもまたいつの時代も同じではないでしょうか。今は通信技術が発展し、遠くにいても相手の映像を見ながら話しのできる時代です。しかし、新型コロナウイルスのせいでいつものように人に会うことができない。自由に行きたいところへ行って発散したいと思ってもできない、という状況が続いています。これによって心を痛め、大きな影響を生活と健康面に受けている人もいます。そういう中、私たちはどんな時代であれ、どんな状況であれ変わらず魂を満たしていただける神に至る道を与えられています。それを示しているのがこの詩であると言えるのです。


  2.命にもまさる慈しみ

 今日の題に取り上げた言葉である4節に目を留めます。神の慈しみは命にもまさる恵みである、と作者は力強い確信の言葉を述べます。この言葉に対しては、次のような反応があるかも知れません。神の慈しみが「命」にもまさる、というけれども命がなければ何も味わえないのだから、神の慈しみすらも命があってこそ感じられるのではないか、という考え方です。

 ここで言う命とは、この世で生きていることそのもの、この世で味わい、感じ、様々に経験することすべてを含めて言っているものと考えられます。この世で受けることのできるあらゆるものがたとえどれほどすばらしく、美しく、私たちを楽しませることができるとしても、またそれを味わうことのできるこの世での命それ自体よりも、神の慈しみがまさる、というのです。神の慈しみは私たちがこの世で受けるもの、目に見えるもの、手に取ることのできるもの、食べることのできるものなどにはるかにまさる祝福を与えることができるからです。

 命がなければ神の慈しみも味わえないのではないか、という考え方を示しましたが、実は神の慈しみがなければこの世での命すら、どれだけ充実し楽しみと喜びがあったとしても、実は空しいものに終わってしまいます。また、この世の命を喜び楽しみ味わうことよりも、たとえ弱くて欠け多い状態であっても、主なる神の慈しみの内に魂を受け取っていただいているなら、その方がはるかにまさるのです。

 作者は「命のある限り」(5節)と言っていますから、「命」とはあくまでもこの世で生きている間の「命」のことです。ですから、この世での命がたとえ取られても、主の慈しみをいただけるなら、その方がはるかにまさるのであり、それこそ主なる神からいただく恵みだと言えるのです。

 私たちは元気に生きている時は、神の慈しみを忘れてしまいがちです。健康で生きている人は、それが当たり前のようになってしまう。しかしちょっとでも具合が悪くなれば私たちはすぐに不安になりあれこれ心配し始めます。そしてそれが「命」の心配にも至ります。しかしそのような時こそ、命にもまさる神の慈しみを深く悟らせていただく機会となります。それは作者が言うように、主なる神を礼拝し、その力と栄光を信仰によって見させていただくことを通して私たちにも与えられます。そしてそこから主への讃美も生まれてくるのです(4節)。


  3.魂が満ち足りる幸い

 こうして主を讃美し、主の御名によって祈った作者は、魂が満ち足りた、と告白します(6節)。乳と髄のもてなしを受けたようにと。これは最もおいしい所を提供するもてなしです。そして喜びと賛美の声をあげるのです。

 魂が満ち足りる。これを受けることができるなら、私たちの命は実に幸いであります。それは、この世の様々なものが私たちの感覚を喜ばせ楽しませるだけでは与えることができません。この世にあるものは目に見えるもの、耳で聞き、鼻で匂いをかぎ、手や体で触れるもの、五感で感じ取り味わうものです。しかしそれらが私たちに最高の朽ちない喜びを与えるのではありません。主なる神の慈しみという恵みによって初めていただけるものなのです。

 この作者は、私たちのようにはまだ救い主イエス・キリストのことを知りません。主イエスがこの世でなさった救いの御業をまだ知らないのですが、それでもこの人は主を信じる信仰者として、このような信仰の告白をし、喜びの声を上げることができました。そうだとすれば、十字架と復活の救い主イエス・キリストをはっきりと示されている今日の私たちはなおさら、この作者にまさってこの信仰告白を力強くできるはずです。

 そして、神の慈しみという恵みを受け、感謝しつつ讃美をし、そして新たな思いでまた日々の暮らしの中に入ってゆけます。私たちの日々の暮らしには常に恐れや不安をもたらそうとするもの、惑わすもの、心配ごとをふやすものが取り囲んでいます。そういう中、主イエス・キリストによって主なる神の慈しみと恵みとを受けている者でも、時に渇きを覚えたり、さらには命を奪おうとするものが登場したとしても(10節)、必ず主がそれらを退けてくださいます。主が右の御手で私たちを支えてくださるからです(9節)。主の右の御手以上に力のあるものなどこの世にはありません。主イエスは言われました。「わたしは既に世に勝っている」と(ヨハネ16章33節)。このイエス・キリストこそ、すべてにまさる慈しみを惜しみなく注いでくださる救い主なのです。

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