「良い言葉を語れるように」 2021.5.23ペンテコステ
テサロニケの信徒への手紙二 2章13~17節

 今日は、キリスト教会ではペンテコステという記念日です。日本語では聖霊降臨節と言います。紀元1世紀、キリスト教会は世界宣教を始めたのですが、それは神の聖霊が教会に降られて教会に力を与えて福音宣教に出てゆくようにと押し出された時です。今、教会がこの世に存在し、私たちがこうして教会に集められていること、それはこの聖霊の御力と恵みによっています。救い主イエスはこの世にお生まれになり、十字架で死なれ、そして復活されましたが、私たち人間は、救われるために救い主を受け入れる信仰が必要です。私たちの心に働きかけて信仰へと導いてくださるのが聖霊のお働きであり恵みです。聖霊の恵みにあずかることにより、私たちは自分が救われるだけではなく善い働きをし、善い言葉を語る者にしていただけるのです。


  1. 良い言葉とは何か

 今日は、「良い言葉を語れるように」という題を付けましたが、聖書本文では「善い」という字が使われています。「良い」としたのは深い意味はありません。漢字の意味はそれぞれにあります。ちなみに漢和辞典を見てみましたら「善」の原義は「神の前で言う二人の言葉」の意味があり、神の前では嘘偽りは言えないから、よい、という意味になるのだそうです。「良」は富むこと、豊かであることが原義であるという説と、精選された穀物、それが良いものとされる、という説とがあるようです。日本語訳聖書でそれがどれほど意識されているかはわかりません。

 ところで、一般的に考えてみた場合、「良い(善い)言葉」とはどんな言葉でしょうか。言葉、といった場合当然その内容が問題ですが、でも私たちの生活を考えてみると、同じ言葉でも話し方や状況によって相手の受け取り方が違ってくることがあり得ます。聞いた方が素直に受け止める場合と、逆に反抗的になる場合すらあります。また、優しく語りかける言葉が良いとも限りません。優しい態度と言葉で悪に誘惑する、という場合、それは良い言葉とは言えなくなります。そういう問題はあるのですが、その内容だけを考えてみます。

 良い言葉。それはやはり聞いた人に何らかの真の益をもたらす言葉であるのは言うまでもありません。悲しむ人に対する慰めの言葉、迷っている人に決断に至るための助言を与えたり、弱気になっている人を励まして力づけたり、正しい知識を教えてあげたりする。それは単純に考えて良い言葉だと言えます。

 逆に、人を貶めるだけだったり、悪いことをわざわざ教えて悪の道へ誘ったり、嘘をばらまいたり、間違った知識を教えて人を困らせたり、怒りに任せて恫喝したりする。あるいは人を恥ずかしがらせたり、道徳的にも品性のない言葉を、場を弁えずに平気で話したりする。それらは良い言葉だとは言えません。そういう意味では私たちの周りにはいつも良い言葉と悪い言葉が満ちていると言えます。

 私たち人間には「慣れ」と言うものがありますので、環境によって周りの言葉に大きく影響されます。汚い、下品な言葉に囲まれて育った子供はどうしてもそういう言葉を自分でも使うようになってしまいます。もちろんそういう中でも、ある品性を保てる人がいないわけではないかもしれませんが、私たちが環境に左右されるのは確かです。


  2.私たちを聖なる者とする聖霊の力

 この手紙を書いたキリストの使徒パウロは、テサロニケにいるクリスチャンたちに語っています。ですから、「善い言葉」も当然信仰にかかわることになります。パウロは、テサロニケの教会の信徒たちを力づけ、励ますためにこの手紙を書きました。テサロニケの人たちに限らず、主イエス・キリストを信じて歩む人は、いつも神の御言葉によって教えられ、助けられ、道を示されています。それは、神の霊すなわち聖霊によって導かれているからです。信徒たちは聖なる者とされました(13節)。それは決して罪も汚れもない状態に清められたということではなく、神のものとされたこと、救いにあずかったことを現わしています。

 また、イエス・キリストを救い主と信じた人たちは、神によって選ばれ、イエス・キリストのもとへと招かれました。私たちがイエス・キリストに関心を持ったり、そのなさったことと語られた御言葉に興味を持ったりするのは、実は神の聖霊の力と、神の選びと招きによってキリストのもとに引き寄せられていたからです。今日の私たちも全く同じです。そしてそれは、主に愛されているからです(13節)。パウロはさらりと言っていますが、私たちはこのことをよくよく覚えておくべきです。自分が神の御言葉を聞き信仰の道を歩んでいるのは、神に愛されているからだ、というこの事実。私たちはそこに立っています。なぜ神は私たちを愛してくださっているのでしょうか。私たちには、神の愛を勝ち取るほどの何か優れたものがあるのでしょうか。いいえそうではありません。それにもかかわらず、神はキリストにおいて私たちを愛してくださいました。これは本当に感謝すべきことです。


  3.あらゆる働きと善い言葉

 そういう信徒たちに、パウロはしっかりと信仰に立つようにと強く勧めます。「ですから」とあるように、神が招いてくださり、信仰へと導いていただいたのだからその招きに応えてキリストの栄光にあずからせていただくように自分でも努めなさい、と言うのです。救いのために自分の努力も必要だというのではありません。神に愛されて、選ばれ、招かれているのだから、その恵みに応えるべきだということです。それによって神の栄光を曇らせることなく、却って神は本当に素晴らしいお方なのだ、ということをより良く現わせるからです。そして特に私たちを愛してくださる神が、私たちの心を励まし、強め、いつも善い働きをし、善い言葉を語る者としてくださいます。パウロのこの祈りは儚い願望ではなくて、そう祈り続けることにより、私たちの内に実現していってくださることなのです。

 それで、最初にお話しした「良い言葉」を語ることに戻ります。究極の良い言葉とはどんな言葉でしょうか。それはやはりその時だけ聞き流したり、忘れたりしてもどうということはない言葉ではないはずです。その人の命や人生に影響を与えるものとなるはずです。使徒言行録の中に、使徒ペトロがイタリア人の部隊の隊長であるコルネリウスという人に招かれた時のことが書いてあります。コルネリウスは神の天使によって使徒ペトロを招くように命じられたので、召使いと兵士とを遣わしてペトロを招きます。そしてペトロをなぜ招いたかを説明した内容について、後にペトロ自身がユダヤ人に説明した言葉が書かれています。コルネリウスが言うには天使は、「ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。あなたと家族の者すべてを救う言葉をあなたに話してくれる」と言ったのでした(使徒言行録11章13、14節)。「人を救うことができる言葉」。これはいわば人が語ることのできる最高の良い言葉です。救い主としてこの世に来られたイエス・キリストを信じ受け入れ、神の御前に自分の罪を認めて悔い改める人を誰でも受け入れてくださる、という福音の言葉です。唯一の神から私たちに与えられている救いをもたらす言葉です。

 使徒ペトロがこの言葉を語るようになったのは、使徒言行録の第2章にあります、聖霊降臨の後からでした。まず聖霊は使徒たちに降られました。そして使徒たちだけではなく、信徒たちにも降られます(10章44節)。

 今日はペンテコステ=聖霊降臨節という記念日だと話しました。聖霊が教会に降られたので、今日まで教会はその御力を受け、全世界にイエス・キリストによる救いの福音を語り続けています。そして信徒たちも信仰により、神の御言葉を人に伝えられます。そのような主なる神の大きなお働きの中に置かれていることを、使徒パウロはテサロニケの教会の信徒たちに思い出させ、そして信徒たちも良い働きをし、善い言葉を語れるのである、と教えたのです。  今日の私たちも全く同じです。皆が伝道者ではないし、牧師、教師でもありません。教会では誰でもが同じように神の御言葉を教える務めにつくわけではありません。教会によって任職された者が通常の礼拝で御言葉の教えを語ります。しかし信徒たちも、それぞれの日常生活の中でいろいろな言葉を語ります。そして先ほども言いましたように、世の中にも様々な、人を励ましたり慰めたり楽しませたり喜ばせたりする言葉がありますが、人を神の前で救うことのできるのは、神から来た言葉、救いをもたらす福音の言葉だけです。信徒たちはその言葉を知らされています。  ですから、主イエスを信じる人は日頃、その言葉をいただいた者として言葉を語ります。直接救いに関する言葉を語らなくても、神の愛を受け、主イエスの救いを受けた者、愛と慈しみを受けた者として善い言葉を語れるのです。パウロは別の手紙で「いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい」と書いています(コロサイ4章6節)。塩は食べ物に良い味付けをしますが、同時に腐敗を防ぎます。塩が一振りしてあるだけで、どれだけ料理がおいしくなることでしょう。そして時には厳しい言葉も語ります。「あらわな戒めは、隠された愛にまさる」という箴言の一節があります(27章5節)。そういう戒めは良い言葉となるはずです。当然それは相手に対する愛に基づくものです。  ですから主につながっている人が語る言葉は、快い言葉という以上に、救いをもたらす神の御心を知る者として語ります。主イエスにつながっているからです。ペンテコステに聖霊はそのような力と恵みを教会に注いでくださいました。今でもそのお働きは継続しています。私たちもそれを信じて、聖霊の恵みに謙虚に信頼していくことにより、善い言葉を語る者としていただけます。更に良い言葉を語るために、御言葉そのものを覚えましょう。御言葉はその人の内に根ざし、主は必ずその恵みを現してくださいます。神の御言葉には本当に力があるからです。

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