「心と体に真の休息を」2021.5.2
詩編 23編1~6節

 いわゆるゴールデンウイークに入りました。大型連休というくらいですから、本来、日頃の仕事などを離れて休むためですが、休むよりは行楽に出かける、という人もこれまでは多かったはずです。しかし今年は言うまでもなく新型コロナウイルス感染予防のため、出かけずに家にいて過ごすという人が多くなることでしょう。政府は、不要不急の外出、行楽、帰省は控えてほしい、と呼びかけています。このような時、行楽、外出をしないでいても真に休めるかということを顧みる機会になるかもしれません。そういう中、私たちにとって、本当に心と体に休みを得ることのできる場所はあるのかどうか。神からの御言葉は、それは確かにある、と私たちに教えております。


  1.魂を生き返らせてくださる

 先ほど朗読した詩編23編は詩編のみならず、旧約聖書、いやそればかりか聖書全体の中でも大変有名な箇所でもあります。神である主は、自分の羊飼いであるという強い確信がこの作者にはあります。それ程にこの作者は強く神である主に結びついています。そしてそれがこの作者に何の不足も与えず、休みと憩いを与え、魂を生き返らせもしてくれる、というのです。

 ここで言う魂とは、私たち人間の命そのものでもあり、生命と訳されることもあります。私たちの存在を成り立たせているものとも言えます。それは必ずしも体と切り離されているわけではなく、私たちは体と心、全体が一つとなって生命を成り立たせています。それは一つの統一したものとして存在しています。ですから私たちは心と体が調和してどちらもゆったりと休める時に真の休息を得られると言えるのです。

 そして詩編23編の作者は、主なる神がそのような憩いと休みを与えてくださる、と言っています。ここで作者が語っているのは、一見するとこの世の生活の中でのことです。ここには青草の原、憩いの水のほとり、正しい道、主の食卓、主の家、というようにこの作者にとって良い環境や状態に対して、死の陰の谷、災い、わたしを苦しめる者というように自分にとって良くないものについても述べられています。それはこの世での私たちの生活を映しだしています。私たちのこの世での生活は、これらのどちらもが常にあると言えます。


  2.死と災いと苦難を前にしても

 しかし、作者は大変興味深いことを言います。死の陰の谷を行くときも災いを恐れないし、自分を苦しめる者を前にしても、主が食卓を整えてくださる、というのです。つまり、いろいろと自分を苦しめたり、困難を覚えたり、死を意識しなければならない時すらもある。それがこの世の生活なのだけれども主である神が共におられるなら、それらは恐れる必要がない、ということです。

 しかし実際、死の陰の谷を行くようなことがあったらどうでしょうか。本当に一つ間違えば死に至るかもしれない。今日とは全く違って月が出ていなければ真っ暗になる道中で強盗に襲われるか、猛獣に襲われるかもしれない。そういう旅をすることもあったわけです。しかし主である神が共にいてくださる、と作者は信じているのです。神が共にいてくださる。これが全てに通じるこの作者の強い信仰です。

 本当にこの旧約聖書の時代に、見えない神を信じて、見えない神が共にいてくださることを信じていたこの作者のような信仰者がいたのです。それは本当に神の恵みではないでしょうか。今日であれば、暗い山道を夜中に一人でとぼとぼと歩いて旅をする人は殆どいないでしょう。今では、電波さえ通じれば携帯電話で助けを呼ぶこともできます。自分がどこにいるのかもわかります。車が故障したら助けに来てくれるロードサービスがあります。ところが昔はそんなものはありませんから、自分で身を守るほかありません。それだけに、本当に主なる神を信じているかどうかを問われることが多かったのではないかと思います。ですから、「あなたがわたしと共にいてくださる」という信仰は、いわば筋金入りだったのだと言えます。

 そして、神の鞭と杖が自分を力づける、と言っています。鞭も杖も、神の御言葉を比喩で表していると言えます。鞭は羊飼いが、多少厳しく羊を導くために用いるでしょう。それだけではなく、猛獣から羊たちを守るためにも用いるでしょう。杖も羊を正しい道に導くために用いるだけでなく、やはり敵と戦って羊を守るために使います。そのように神の御言葉は私たちを時には厳しく、時には優しく教え諭し、悔い改めを促し、神が共におられるから大丈夫だと励まし、希望を与えてくれます。神の御言葉は生きておられる神の御言葉であり、一度その口から発せられたならその目的を果たさずに終わることはありません(イザヤ55章11節)。

 だから、死の陰が襲い掛かってくるとしても、自分を苦しめる者を前にしても、神が共におられて、死や自分を苦しめるものに飲み込まれてしまうことがないのです。真の神を信じるとは、そういうことです。


  3.真の休息を与える主の家

 そのような力強い信仰を与えられている作者は、最後に改めて信仰の告白をします。まず自分の命がある限りは神の恵みと慈しみは必ず与えられる。自分がどこに行こうと、恵みも慈しみの方からついてきてくれるというのです。これは何という大胆な信仰でしょう。自分が神の恵みをおいかけるのではない。神の恵みの方が自分を追いかけて離れることなく、助けを与え祝福を与えてくださるというのですから。

 次に作者は、自分は主の家に帰ると言います。そして生涯そこにとどまると。生涯、というとこの世に生きている間、という限定的な感じがしますが、ここは「いつまでも」とか「とこしえに」とも訳されます。必ずしもこの世に生きている間のことだけに限って言っているわけではないと思われます。そう考えれば、主の家とは、たとえこの世を去っても自分を迎え入れてくれる神の家、天の国を指していると言えます。実はそれこそ私たちの救い主イエス・キリストが備えてくださっているものです(ヨハネ14章1節)。

 この作者は私たちのようにイエス・キリストのことを知りませんが、それでも神が迎え入れてくださり、自分をそこにいつまでも憩わせてくださることを知っています。だから安心してこの世を生きてゆくこともできるのです。この信仰に立つ人は、この世のことだけに心を奪われ、この世の美しいもの、うまいもの、この世で価値のあるもの、人からの名誉や評価などを最大の目標として追求しません。

 むしろ目を天に向け、神に向けます。そこに真の休息があります。それは今この世では想像しても仕切れない、素晴らしい祝福です。この世の力では決して与えることができないものです。それを思い巡らすことをしましょう。初めに言いましたように、心と体に真の休息を与えることができる所があるのです。今年は外出を控えるというのならば、それを思い巡らす絶好の機会かも知れません。神に語りかけてみる。それは祈りになります。今、私たちは主イエス・キリストという羊飼いを与えられていますから、その主イエスの御名によって祈るのです。それは私たちの魂を必ず生き返らせ、真の命の力を与えてくださいます。この世ではなお、心も体もすり減らさなければならないかもしれません。しかし、たとえそのただ中にあっても、主なる神の御言葉が常に共にあります。私たちを災いや、死の力にも打ち勝たせてくださいます。私たちもそれを信じて信仰による歩みを続けるのです。この世のどこにいても、羊飼いなる主イエスが共にいてくだされば、そこは憩いの水のほとりに変わるのです。

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