「本当の美しさとは」2021.5.16
 ペトロの手紙一 3章1~7節

 今日から、会堂に普段通り皆が集まって礼拝をするのを休止することになりました。しかし、この会堂で礼拝自体は行い、動画の配信はこれまでのように続けます。普段この会堂に来て礼拝をしている皆さんも、これまでも会堂に来ておられなかった皆さんも、共に礼拝を献げています。主の恵みと祝福が一人一人の上にありますように願いつつ、神の御言葉に聞きたいと思います。今日の題は、実は聖書の教えの中で特に中心にあることではありません。聖書の教えの中心は神御自身についてと、神の御子、救い主イエス・キリストによる救いについてです。また、今の世の中の状況では、美の追求とかいうことよりも、もっと大事な命そのものについて、医療や健康について、生活や仕事についての問題が最優先されます。そういう中ではありますが、この「美、美しさ」という切り口から、神の御心について学びたいと思います。今のこの時期、もっと大事なことがあるのでは、という考えも出てきそうですが、この問題も実は大事なことにつながっています。そのことはまた後でお話しします。


  1.美しさについての聖書の言及

 「美しさ」は、人間が昔から追求してきたことでしょう。何千年も前から、特に女性の人たちは化粧をしてきたのでした。顔だけでなく、衣装も、立ち居振る舞いも、またおよそ人が造る様々な物についても美は追求されてきました。なぜ人は美を追求するのでしょうか。それは一言でいえば、すべてのものを創造された天地の主である神様が、美しいものを造られたからです。あらゆるものに秩序と調和を与え、人間にもそれを感じ取り、作る能力を授けてくださっているからだと言えます。

 聖書の初めに置かれている創世記には、神の天地創造の御業が記されておりますが、その中に何回も言われているのは、「神は、これを見て、良しとされた」という言葉です。そしてすべてのものが造られた後、「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった」(創世記1章31節)と記されています。神は正義の神、聖なる神、憐れみと慈しみに満ちた神であられますが、聖書には美の創造者と言ったような表現は特にありません。しかし神はあらゆるものに秩序と調和をお与えになり、もともと麗しいもの、美しいものを造られたのは確かです。しかし、人間が罪を犯して堕落したことにより、この世界にとげのあるもの、人に害を与えるものが生じるようになったのもまた事実です。そういうことはあるのですが、本来主なる神がお造りになったものは神の目に適うもの、良いものでした。

 それで、聖書の中ではいろいろなものについて美しさを述べているところもありますが、ここでは人について語られていることを見ますと、ざっと調べたところ旧約聖書の中で外見上の美しさについて言われている女性たちは11人ほど、男性たちは8人ほどいました。サラ、リベカ、ラケル、バトシェバ、エステルなどの女性たち、ヨセフ、サウル、ダビデ、アブサロムなどの男性たちがいます。イサクの妻となったリベカは際立って美しいと言われ(創世記24章16節)、ダビデの息子のアブサロムに至っては足の裏から頭のてっぺんまで、非のうちどころがなかったとまで言われています(サムエル記下14章25節)。

 ところが男性たちの中には、主によって喜ばれていたとは言えない人たちもいました。最初のイスラエルの王サウル、そして先ほどのアブサロムです。彼らには主に対して畏れの心を持って従う、という点が欠けていました。そして旧約聖書では単純に美しい人の美しさが特に記されているだけのことがほとんどで、その内面などについて語る所は多くはありません。ダビデが王に選ばれる時、主はダビデの長兄エリアブに目を留めたサムエルに言われました。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」(サムエル記上16章7節)。あるいは、美しい女に知性が欠けていることを、豚が鼻に金の輪を飾っていることに比べています(箴言11章22節)。

 ですから旧約聖書でも、主を畏れる人の美しさを特筆してはいるのですが、内面が伴わなければそれは虚しい、ということは言っているのです。


  2.神の御業を思うことから始まる

 それで新約聖書をみますと、旧約聖書のように人の美しさ、外面の姿かたちの美しさを特に取り上げて記しているところはまずありません。今日朗読した聖書箇所は、主イエスの12弟子の一人であるペトロが、結婚して妻となった女性たちに対して忠告している所です。彼は、妻たちの装いは「編んだ髪や金の飾り、あるいは派手な衣服といった外面的なものであってはなりません。むしろそれは、柔和でしとやかな気立てという朽ちないもので飾られた、内面的な人柄であるべきです。このような装いこそ、神の御前でまことに価値があるのです」と語ります(3、4節)。

 ここにあるのは、もう大変はっきりした主イエス・キリストにある信徒たちの従うべき道です。ここには「美」という言葉こそありませんが、装いということを考えれば美しさということにつながります。もちろん、紀元1世紀の世界と今日の世界とでは装いも習慣も違うのですが、それでも、根っこにあるものはそう変わりありません。そして、女性であれ男性であれ、「朽ちないもので飾られた内面的な人柄」という装いという点では同じです。もちろん今日では女性も社会進出する時代となり、ペトロの時代とは違います。「柔和でしとやかな気立て」というと何となく女性は控えめで夫より三歩下がって慎み深くしている、というような印象を受けますが、ここの表現は必ずしもそうとばかりは言えないようです。柔和で静かな霊、あるいは穏やかな霊、とも訳されます。決していつも控えめにしているというばかりではないけれども、穏やかさ、静かさを保っている。新しい「聖書協会共同訳」では「柔和で穏やかな霊という朽ちないものを心の内に秘めた人でありなさい」となっています。「しとやかな気立ての人になりなさい」と言われるよりも、こちらの方がしっくりくるかもしれません。

 そのような霊は、主が一人一人の中に起こしてくださるものですから、そこにこそ主の御心に適う姿があるはずです。それはもはや外面をただ飾るだけの美しさとは次元が違います。そしてそれは、主が救い主によって自分に何をしてくださったか、ということに思いを至らせることによって生じるものなのです。


  3.神を畏れ、慎み深く生きる  実は先ほど旧約聖書の記述を見た時に触れなかったのですが、箴言の最後に有能な妻についての教えがあります。その最後の方に「あでやかさは欺き、美しさは空しい。主を畏れる女こそ、たたえられる」(31章30節)、と言われているのです。美しさは空しい。これは誰もが知っていることかも知れません。女性でも男性でも、何もしなくても外見が美しいのは若い人であり、年を取ればどれほど美しかった人もその美しさは色あせてくるわけです。

 身だしなみとしての美しさに気を使い、それなりに装うのは必要なことであり、悪いことではありません。主イエスのたとえ話でも、婚礼の席上に礼服を着て来なかった人がいたのですが、招いた王はその人を追い出してしまいます。これはもちろん、それを通して教えていることがあるわけですが、一般的にその場相応の服装があるのは確かです。クリスチャンも、外面の美しさだけを追求するのは神の御心に適わないからといって、お祝いの席にわざわざ薄汚れた格好で出かけて行き、内面で神を畏れているのだからこれでいいのだ、といってもそれでは却って主の栄光を曇らせることにもなりかねません。

 だから私たちは、主の栄光を現す者として生かされていることも覚えます。自分を目立たせて自分の美しさを人に見せようとするのではなく、主の素晴らしさを知った者として、主の素晴らしさを現してゆけるように祈ります。そして、今一つ加えるならば、主を信じ、主を愛し、兄弟姉妹と隣人を愛するように召し出されている主の民は、そのことが顔の外面や表情等ににじみ出てくるのもまた真実ではないでしょうか。

 そして使徒パウロが言うように、主キリストに結びつけていただいた人は、キリストによって命から命に至らされた者が発する香りがあるのです(Ⅱコリント2章16節)。これは世にあるどんな高価な香水よりもはるかに尊いものです。ここにこそ本当の美しさもあると言えるのではないでしょうか。

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