「復活した主イエスが共に」2021.4.4
 マタイによる福音書 28章1~20節

 今年は、今日、4月4日がキリストの復活を記念するイースターです。秋分の日の後の最初の満月の後の日曜日をその年のイースターとする、と古代の教会が決めてから、全世界でこの時に救い主キリストの復活を祝い記念しています。日本ではクリスマスに比べて、イースターはあまり知られていませんでしたが、最近では有名なテーマパークでイ-スターパレードを行うようになっていて、一般にもイースターが知られてきているようです。私たちクリスチャンにとっては、主イエスの復活は、クリスマスにまさるとも劣らない大事な記念すべき祝いの時です。


  1.キリストの復活の重要性

 キリスト教の福音宣教の中心は、主イエスの復活です。復活された後、天に昇られた主イエスに呼びかけられて使徒とされたパウロは、熱心に各地で福音宣教に当りましたが、彼の福音宣教について、「パウロが、イエスと復活について福音を告げ知らせていた」と書かれています(使徒言行録17章18節)。イエスの御生涯、特に十字架にかかられたことと復活されたこと、さらに、信じる者も復活させてくださることを告げ知らせていました。またパウロ自身もその手紙で、自分が最も大切なこととして伝えたことは、「キリストが私たちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後12人に現れたことです」と書いています(Ⅰコリント15章3~5節)。

 ですから私たちは、キリスト教会がその初めから、イエスの復活を最も大事なこととして世に対して告げ知らせて来たことを今一度よく知っておきたいのです。主イエスの誕生、そしてその御生涯になさった様々な慈しみ深い御業と御言葉、そして地上生涯の最後の十字架、そして死に勝利された復活。私たちは今年もまた、このイースター礼拝を迎えて、復活された主イエス・キリストを見上げ、私たちを死から命へと招き、確実に導いてくださることを信じて礼拝を献げています。


  2.恐れから喜びへ

 ユダヤでは、安息日は土曜日です。その日には人々は特別な業を何もせず休息しましたので、婦人たちは安息日が開けてから墓へ行きました。他の福音書によれば、イエスの遺体に油を塗るためでした(マルコ16章1節)。安息日は土曜日の日没で終わります。彼女たちは明け方、日曜日の早朝に墓を見に行ったのでした。ところが主の天使が天から降って墓の入り口にある大きな石を転がして座りました。その時、大きな地震が起こります。墓は、岩をくりぬいて洞窟のようにしたもので、入り口には円形の大きな石を転がして蓋をします。女性たちの力では転がせないほどのものでした(マルコ16章3節)。

 この出来事により番兵たちは震え上がっていたので、婦人たちも相当に恐れを感じたでしょう。天使たちは「恐れることはない」と呼びかけます。番兵たちにではなく婦人たちに対してです。確かに現象としては恐ろしいことが起こりました。しかし、恐れる必要はない。驚くようなことは起こったが、あなたがたの探しているイエスは、かねて言われていたとおり復活されたのだ。今しがた起こった出来事は、イエスの復活に伴って起こったことだから、恐れることはない、と天使は告げたのです。それで婦人たちは恐れながらも大いに喜びました。恐れながらも喜ぶ。これはなかなか共存しにくい二つのことですが、婦人たちは言われたとおり、弟子たちに伝えるために急いで走って行きました。そして途中でイエスに出会いますと、復活された主イエスも「恐れることはない」と言われます。天使も主イエスも同じことを言います。

 何かを恐れるということは私たちの生活にはつきものです。いつ起こるかもしれない大地震を恐れる。健康状態の不安から、診断結果を恐れる。仕事上の失敗をしたので、その影響を恐れる。暗闇を恐れる。私たちは結局、未知のものを恐れると言えます。しかし、それについて確かな知識を持っている人の言葉や、権威ある人の言葉を聞くと私たちは安心します。婦人たちは、死んだイエスが復活したという全く未知のことに出会って恐れました。しかし天使と、誰よりも確かなことを語られる主イエスの御言葉を聞いて、やっと落ち着いたでしょう。私たちもこの世で、何かにつけて不安と恐れに脅かされがちです。そういう時こそ、死に打ち勝って復活された主イエスの「恐れるな」という御言葉を思い出したいものです。


  3.世の終わりまで共にいてくださる救い主

 さて、この福音書には、ユダヤの祭司長やファリサイ派の人たち、長老たちなど、何とかしてイエスの復活などなかったことにしたい、という人たちが登場します(11~15節)。弟子たちが、イエスは復活したという嘘を言いふらすかもしれないと思っていた彼らは、番兵たちから事の始終を聞いた後、弟子たちが死体を盗んでいったことにしろ、と言います。ここに、自分たちのためなら真実を曲げることをいとわない人たちがいます。昔も今も、権威ある地位に立つ人々が、その力を利用して真実を隠したり、曲げてしまったりすることがあることを私たちは見せつけられます。

 私たちは、どうしても既に持っている知識や自分の立場、考え、経験等に捕われています。自分と現代の知識に照らしてみてあり得ないことなら、それを受け入れません。このイエス・キリストの復活という出来事は、この世界にこれまで全くなかったことで、常識としてあり得ないことですから、特に今日のような科学の発展した世の中では受け入れられにくいことです。では、キリスト教会とクリスチャンたちは、全く荒唐無稽なことを信じ、宣べ伝えているのでしょうか。決してそうではありません。すべてをお造りになり、人間を生かし、その罪にも拘らず人間を憐れみ、長い歴史の中で導き続けて来られた主なる神は、救い主の到来について、その知恵に基づいて御計画を立てて来られました。長い年月の中で預言者たちを通して語り続けて来られたことが、御子イエス・キリストの到来によって次次と実現に至ってきました。

 ですから、イエスの十字架も復活も、その後のこともすべて、神の遠大な御計画の下に進められてきたものなので、イエスの弟子たちが自分たちの先生を偉い存在に祭り上げようとして復活をでっち上げたなどというものではないのです。むしろ弟子たちは先生であるイエスの復活を期待していませんでした。逆にユダヤの指導者たちは、弟子たちがイエスの予告に基づいて、イエスの遺体を運び出すかもしれない、と考えていました。そして、弟子たちがイエスの死体を盗んだ、という話がユダヤ人の間に広まっている、とマタイは書いています。マタイがこの福音書を書いたのは、一世紀の後半、70年以降ではないかと言われています。ですから、主イエスの十字架の死と復活から40年ほど経っていますが、イエスの復活を信じない人々の間ではそういう話になっていました。結局、弟子たちにしても、復活を認めたくないユダヤの祭司長たちや長老たちにしても、どちらにしてもイエスの遺体を盗み出してはいないわけで、イエスの遺体が墓からなくなっていた、という事実が残ります。そして、聖書は明確に、イエスは復活して御自身で墓から出て来られた、と述べているのです。

 そして復活された主イエスは、婦人たちに告げられたように、ガリラヤへ行かれてそこで弟子たちに会われました。そこで、イエスはキリスト教会にとって大変重要な、大宣教命令と言われる命令をお語りになりました。天と地の一切の権能を授かっている者として、宣教を命ずる、というのです。そしてすべての国々へ行き、あらゆる民に福音を宣べ伝えることと、父と子と聖霊の御名によって洗礼を授けること、弟子たちに命じておいたことをすべて守るように教えること。この三つをお命じになりました。今もなお、キリスト教会は、この宣教命令に従って全世界で宣教活動をし、父と子と聖霊の御名によって洗礼を授けています。これもつまるところ、十字架で死なれた主イエスが確かに復活して、その権威に基づいて教会にそのようにお命じになったからこそ、実現しているのです。イエスが復活せず、弟子たちが復活をでっち上げて、復活したことにして、それを世界中に告げ知らせる、ということはおよそあり得ないことでした。そんなことをすれば、嘘はやがてばれますし、嘘からは何の力も出てきません。むしろ、十字架で死んだイエスに倣って、良い業を行って神と隣人を愛しましょう、という教えに留めておけば、人々はそれほど反発しなかったかもしれません。しかしその程度のものであるならば、キリスト教は単なる道徳宗教にすぎなかったでしょう。

 しかし事実は違います。天と地の一切の権能を授かっている主イエスは、これらの命令を下すとともに、もう一つ、大事な約束をなさいました。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」という約束です。死に打ち勝って復活されたからこそ、これを言うことができました。私たちは、今日、共に集まって礼拝を献げることを通して、それを味わっています。過去に生きて死んだ人で、良い言葉、優れた言葉を残した人はたくさんいます。そういう人々のいろいろな書物から私たちは多くを教えられます。しかしその著者が生きて私たちと共にいるわけではありません。また、よくドラマや映画などで聞く台詞に、誰それは死んだけれども、今も私たちの心の中に生きている、というものがあります。確かに自分たちにとって、近くで共に生きて人の記憶は大変生々しくて、その人が死んでもまだ近くにいるような気がするとか、その言葉や存在そのものによって影響されてきたので、人生に多大の影響を受け続けている、ということもあるでしょう。

 しかし、救い主イエス・キリストが復活して生きておられ、いつも共にいるというのは、似ている面はあるとは言え、そういうものとは一線を画します。実際に権威ある御言葉によって私たちに力を及ぼし、生かし、強め、励まし、一日一日私たちを支えてその歩みを導くことができる力があります。だから、キリストによってつながっているクリスチャンたちは、共にいる時、喜びと安心感と平安とを実感します。お互いの中に復活された主イエスが共におられるので、それは当然です。だから私たちは集まることが大事なのです。今特に新型コロナウイルスのことで、平常のように会えない状況に置かれている方々もあります。そのような方々のことも覚えながら、しかしその人が一人で祈り、礼拝をしているとしてもそこにもまた復活の主イエスはいてくださいます。それを信じてこれからも感謝をもって主イエスと共に歩ませていただきましょう。

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