「真理の言葉によって生まれた」2021.4.25
ヤコブの手紙 1章12~27節
4月29日は、かつての天皇誕生日、それが昭和の日となりましたが、私たちにとっては日本キリスト改革派教会の創立を記念する時です。今日の席上献金もそのことを覚えて献げます。私たちはこの世で、目に見える教会に属しています。そのことを覚えながら、今日の御言葉に耳を傾けましょう。
1.地上の教会=見える教会に属する者
日本キリスト改革派教会は、1946年4月28日~29日に創立記念大会が開催されました。その当時はわずか教師8名、長老3名、200人ほどの信徒たちでしたが、戦後の日本に改革派教会が立てられました。今、この尾張旭教会に属している会員の方々は、地上の教会においては、日本キリスト改革派教会の一員となっています。「地上の」と言いましたのは、天上の教会もあるからで、過去現在未来を通じて、かしらなるキリストのもとに一つに集められる唯一の教会があり、見えない教会とも言います。それに対して地上の教会を見える教会と言います。この世に生きている限りは、私たちはどこかの地上の見える教会に属しています。
ただ、求道して信仰が与えられていたものの、洗礼を受ける機会を得ず、地上の教会に属さずに過ごしてそのままこの世の生涯を終えるという場合もあり得ます。そういう人たちも真の信者であるなら見えない教会に属していることになります。誰がその見えない教会に真に属しているかは主なる神のみが知る所ですが、私たちは、地上の見える教会で信仰を告白し、洗礼を受けた人は、主イエス・キリストによって救われた人として、互いに兄弟姉妹として見るということはもちろんです。神様にしかわからないからと言って、目の前にいる信徒を疑いの目で見るようなことはしません。今日は、このように地上の教会に導かれて救いにあずかるようにされている恵みを示され、そこに働いていた神の御言葉の力があることを教えられています。
2.キリストの父なる神の真理の言葉によって生まれた
18節でヤコブは、「御父は御心のままに、真理の言葉によってわたしたちを生んでくださいました」と書いています。御父とは、イエス・キリストの父なる神、そしてイエスによって私たちの父となってくださっている神のことです。この父である神は、「御心のままに」わたしたちを生んでくださいました。この場合の生んでくださいました、というのは、福音宣教によって私たちを、イエス・キリストを信じる信仰に導き、救いに入れてくださったということです。この世に人間として生まれてきた時のことではなく、信じて救われ、新しい命を与えられたことを指しています。これは主イエスが、「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言われたことと同じです(ヨハネ3章3節)。
私たちはこの世に人として生まれてきました。しかしもう一度生まれると言われます。父なる神が私たちに御言葉をお語りくださることによってそれが実現します。私たちは言葉を聞き、覚え、それを使うようになります。耳が聞こえなかったり、目が見えなかったりする人もいますが、何らかの仕方で御言葉に触れることにより、私たちがそれを受け止め、従うことを通して信仰へと導いてくださいます。神の御言葉に対する応答の仕方は実に人それぞれです。ある人は御言葉を長い間聞き続けることによって、信仰に入ります。また別の人は御言葉を聞き始めて数ヶ月で信仰を抱くようになってきます。そういう違いはありますが、誰でも神の真理の言葉によって生んでいただくという点は変わりません。
ヤコブはこのことを、次の段落でも語ります。神の御言葉には、私たちの魂を救う力があるのです。その私たちを救う力を私たち一人一人の中で発揮していただくためには、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去ることが命じられています(21節)。しかしこう言われると、反発したくなる人がいるかもしれません。「あらゆる汚れやあふれるほどの悪」が自分の中にあるのか、自分は相当な善人でもないかもしれないが、こんな風に言われるほどには悪くないぞ、と思うかもしれません。しかしここでは、私たちは人と比べるのではなく、神の前での汚れや悪ということを考えなければなりません。人と比べていたら、世の中に悪事を働いて平気でいるような人と比べたら殆どの人は善人と言えるでしょう。でもここではそういう比較ではなく、神の義を実現することができるかどうかという問題です。神の義を実現するとは、突き詰めれば神から見ても自分には何の落ち度も汚れも悪もない、と言えるかどうかです。しかしそんなことは人間には誰にもできはしません。心の中にある、しかも片隅にでもあるもの、そこには人に対する悪意、妬み、意地悪な心、思い上がり、偽り、口先だけの言葉、等々数え出したらきりがない罪のなせる業があります。
もちろんそれらを完全に清めるためには、神による罪の清めにあずからなければ不可能です。それは救い主イエス・キリストの十字架の贖いによらなければ償われることはありませんし、神の聖霊の恵みによらなければ清められることもありません。そうですが、私たちの側では、それを教えている神の御言葉をまず受け入れねばすべては始まりません。それで、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を捨て去るように命じるのです。そのようにして神の御言葉を受け入れる態勢を整えるという面があると言えます。やはり私たちがへりくだって神の御言葉を受け入れる、ということがなければ御言葉は私たちの内に根を張ることがありません。もっとも、いろいろな機会に御言葉を聞く機会があった人は、後で神の御前にへりくだって素直に御言葉を受け入れて行った時に、あの時聞いたこの言葉あの言葉は、こういうことだったのか、とわかることもあります。
今年の尾張旭教会の年間標語は、「主の御言葉の力に信頼する」というものです。私たちは、神様その方に、主イエス・キリストに、聖霊の恵みに信頼するべきものです。それをあえて主の「御言葉の力に」信頼すると言っているのは、私たちが御言葉を聞き、そして御言葉が私たちの心の内に留まり、根付き、私たちが御言葉によって主イエスの救いの福音を聞き、救いにあずからせていただける、というその力と働きを信じていく、という面を強調しているからです。主の御言葉を受け入れ、信じ従うことにより、私たちは主とその御言葉にゆだねられた者として歩み出しています。この御言葉に留まっているなら、私たちの魂は確かに救いにあずかることができるのです。それを信じて歩みを続けるのが主を信じた者です。
3.御言葉を受け入れ行う者となるように
そして、神の御言葉を聞くだけで終わる人になってはいけないと続けて言われています。御言葉を聞いて、その内容を受け入れて、聞いただけで終わるのではなく、御言葉の教えを行う人になりなさいと。私たちの日常の中でも、言うは易し、行うは難し、ということわざを聞くことがあります。聖書にこう書いてあります、これはこういう教えです、こういう意味です、と語るのはある意味では易しいことでしょう。机の上だけの知識で良いならば、ペーパーテストを受けて合格することはできるかも知れません。しかし、現実の生活の中ではそうではありません。
とは言うものの、私たちは何かを実践するとなるとなかなか行動が伴わない、ということに気がつきます。ここでヤコブは、みなしごや、やもめが困っている時に世話をするとか、世の汚れに染まらないように自分を守ることを例として挙げています。これはほんの一例でしょう。また、逆のこととして舌を制することができずに自分を欺くということが挙げられています。つまり自分を過大評価してより大きく見せかけ、見栄を張ったり、うわべだけをよく見せようとしたりすることです。言うべき時と場合、その内容を吟味せずにただ思いをぶちまけるように舌を制することをしない。本当の信心とはそういう態度とは相いれないものだ、と言います。信心とは、信仰を持って神の前にへりくだって生活するその生き方そのものを表します。そのような信心に生きる人は幸いなのです。ここの翻訳は「幸せになります」とありますが、「幸い」と訳した方がしっくりくるように思います。幸せというのは多分に主観的な印象がありますが、幸いであるという場合、客観的に神が幸いな人とみなしてくださる、という意味合いが伺えます。
私たちは、自分の信仰によって生きる生活が神の御言葉を行うものとなっているか、時には心もとない思いを抱くかもしれません。しかしそのような時こそ、御言葉の力に信頼したいものです。私たちを救う神の御言葉は、私たちを造り変えて御言葉を行う者へと歩み出させてくださることも信じて私たちは進みます。みなしごややもめだけが困っているわけではありません。私たちの隣人はいつも近くにいます。私たちに何かのことで関わってくる人がいます。
父なる神は、御心のままに真理の言葉によって私たちを生みだしてくださり、主イエス・キリストにつながる者としてくださったのですから、御心に適う歩みへと私たちを導いてくださることも信じて歩むのです。
1.地上の教会=見える教会に属する者
日本キリスト改革派教会は、1946年4月28日~29日に創立記念大会が開催されました。その当時はわずか教師8名、長老3名、200人ほどの信徒たちでしたが、戦後の日本に改革派教会が立てられました。今、この尾張旭教会に属している会員の方々は、地上の教会においては、日本キリスト改革派教会の一員となっています。「地上の」と言いましたのは、天上の教会もあるからで、過去現在未来を通じて、かしらなるキリストのもとに一つに集められる唯一の教会があり、見えない教会とも言います。それに対して地上の教会を見える教会と言います。この世に生きている限りは、私たちはどこかの地上の見える教会に属しています。
ただ、求道して信仰が与えられていたものの、洗礼を受ける機会を得ず、地上の教会に属さずに過ごしてそのままこの世の生涯を終えるという場合もあり得ます。そういう人たちも真の信者であるなら見えない教会に属していることになります。誰がその見えない教会に真に属しているかは主なる神のみが知る所ですが、私たちは、地上の見える教会で信仰を告白し、洗礼を受けた人は、主イエス・キリストによって救われた人として、互いに兄弟姉妹として見るということはもちろんです。神様にしかわからないからと言って、目の前にいる信徒を疑いの目で見るようなことはしません。今日は、このように地上の教会に導かれて救いにあずかるようにされている恵みを示され、そこに働いていた神の御言葉の力があることを教えられています。
2.キリストの父なる神の真理の言葉によって生まれた
18節でヤコブは、「御父は御心のままに、真理の言葉によってわたしたちを生んでくださいました」と書いています。御父とは、イエス・キリストの父なる神、そしてイエスによって私たちの父となってくださっている神のことです。この父である神は、「御心のままに」わたしたちを生んでくださいました。この場合の生んでくださいました、というのは、福音宣教によって私たちを、イエス・キリストを信じる信仰に導き、救いに入れてくださったということです。この世に人間として生まれてきた時のことではなく、信じて救われ、新しい命を与えられたことを指しています。これは主イエスが、「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言われたことと同じです(ヨハネ3章3節)。
私たちはこの世に人として生まれてきました。しかしもう一度生まれると言われます。父なる神が私たちに御言葉をお語りくださることによってそれが実現します。私たちは言葉を聞き、覚え、それを使うようになります。耳が聞こえなかったり、目が見えなかったりする人もいますが、何らかの仕方で御言葉に触れることにより、私たちがそれを受け止め、従うことを通して信仰へと導いてくださいます。神の御言葉に対する応答の仕方は実に人それぞれです。ある人は御言葉を長い間聞き続けることによって、信仰に入ります。また別の人は御言葉を聞き始めて数ヶ月で信仰を抱くようになってきます。そういう違いはありますが、誰でも神の真理の言葉によって生んでいただくという点は変わりません。
ヤコブはこのことを、次の段落でも語ります。神の御言葉には、私たちの魂を救う力があるのです。その私たちを救う力を私たち一人一人の中で発揮していただくためには、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去ることが命じられています(21節)。しかしこう言われると、反発したくなる人がいるかもしれません。「あらゆる汚れやあふれるほどの悪」が自分の中にあるのか、自分は相当な善人でもないかもしれないが、こんな風に言われるほどには悪くないぞ、と思うかもしれません。しかしここでは、私たちは人と比べるのではなく、神の前での汚れや悪ということを考えなければなりません。人と比べていたら、世の中に悪事を働いて平気でいるような人と比べたら殆どの人は善人と言えるでしょう。でもここではそういう比較ではなく、神の義を実現することができるかどうかという問題です。神の義を実現するとは、突き詰めれば神から見ても自分には何の落ち度も汚れも悪もない、と言えるかどうかです。しかしそんなことは人間には誰にもできはしません。心の中にある、しかも片隅にでもあるもの、そこには人に対する悪意、妬み、意地悪な心、思い上がり、偽り、口先だけの言葉、等々数え出したらきりがない罪のなせる業があります。
もちろんそれらを完全に清めるためには、神による罪の清めにあずからなければ不可能です。それは救い主イエス・キリストの十字架の贖いによらなければ償われることはありませんし、神の聖霊の恵みによらなければ清められることもありません。そうですが、私たちの側では、それを教えている神の御言葉をまず受け入れねばすべては始まりません。それで、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を捨て去るように命じるのです。そのようにして神の御言葉を受け入れる態勢を整えるという面があると言えます。やはり私たちがへりくだって神の御言葉を受け入れる、ということがなければ御言葉は私たちの内に根を張ることがありません。もっとも、いろいろな機会に御言葉を聞く機会があった人は、後で神の御前にへりくだって素直に御言葉を受け入れて行った時に、あの時聞いたこの言葉あの言葉は、こういうことだったのか、とわかることもあります。
今年の尾張旭教会の年間標語は、「主の御言葉の力に信頼する」というものです。私たちは、神様その方に、主イエス・キリストに、聖霊の恵みに信頼するべきものです。それをあえて主の「御言葉の力に」信頼すると言っているのは、私たちが御言葉を聞き、そして御言葉が私たちの心の内に留まり、根付き、私たちが御言葉によって主イエスの救いの福音を聞き、救いにあずからせていただける、というその力と働きを信じていく、という面を強調しているからです。主の御言葉を受け入れ、信じ従うことにより、私たちは主とその御言葉にゆだねられた者として歩み出しています。この御言葉に留まっているなら、私たちの魂は確かに救いにあずかることができるのです。それを信じて歩みを続けるのが主を信じた者です。
3.御言葉を受け入れ行う者となるように
そして、神の御言葉を聞くだけで終わる人になってはいけないと続けて言われています。御言葉を聞いて、その内容を受け入れて、聞いただけで終わるのではなく、御言葉の教えを行う人になりなさいと。私たちの日常の中でも、言うは易し、行うは難し、ということわざを聞くことがあります。聖書にこう書いてあります、これはこういう教えです、こういう意味です、と語るのはある意味では易しいことでしょう。机の上だけの知識で良いならば、ペーパーテストを受けて合格することはできるかも知れません。しかし、現実の生活の中ではそうではありません。
とは言うものの、私たちは何かを実践するとなるとなかなか行動が伴わない、ということに気がつきます。ここでヤコブは、みなしごや、やもめが困っている時に世話をするとか、世の汚れに染まらないように自分を守ることを例として挙げています。これはほんの一例でしょう。また、逆のこととして舌を制することができずに自分を欺くということが挙げられています。つまり自分を過大評価してより大きく見せかけ、見栄を張ったり、うわべだけをよく見せようとしたりすることです。言うべき時と場合、その内容を吟味せずにただ思いをぶちまけるように舌を制することをしない。本当の信心とはそういう態度とは相いれないものだ、と言います。信心とは、信仰を持って神の前にへりくだって生活するその生き方そのものを表します。そのような信心に生きる人は幸いなのです。ここの翻訳は「幸せになります」とありますが、「幸い」と訳した方がしっくりくるように思います。幸せというのは多分に主観的な印象がありますが、幸いであるという場合、客観的に神が幸いな人とみなしてくださる、という意味合いが伺えます。
私たちは、自分の信仰によって生きる生活が神の御言葉を行うものとなっているか、時には心もとない思いを抱くかもしれません。しかしそのような時こそ、御言葉の力に信頼したいものです。私たちを救う神の御言葉は、私たちを造り変えて御言葉を行う者へと歩み出させてくださることも信じて私たちは進みます。みなしごややもめだけが困っているわけではありません。私たちの隣人はいつも近くにいます。私たちに何かのことで関わってくる人がいます。
父なる神は、御心のままに真理の言葉によって私たちを生みだしてくださり、主イエス・キリストにつながる者としてくださったのですから、御心に適う歩みへと私たちを導いてくださることも信じて歩むのです。
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