「義の太陽が昇る」2021.4.18
マラキ書 3章13~24節
旧約聖書の最後に置かれている預言書、マラキ書が告げる主の御言葉に聞きます。「マラキ」とは、「主の使者」という意味です。紀元前5世紀に預言されたものとみられます。マラキ書全体を見ると、既に神殿が再建されている様子が伺えること、恐らくペルシャの総督のことが言及されていることなどから、そのように言われます。バビロン帝国によってエルサレム神殿が壊され、町は廃墟となってしまい、おもだった人々は捕囚となっていましたが、時代はペルシャ帝国の支配に移り、エルサレムへの帰国と、町と神殿の再建が許されたことがエズラ記、ネヘミヤ記に記されています。そして紀元前515年に神殿の再建が完了しました。それ故このマラキ書はその後の時代のものです。
1.主は民を愛してきた
この預言書は、主なる神とイスラエルの人々の対話の形で話が進められてゆきます。主はこう言われるが、あなたたちはこう言う、こう問うている、という仕方です。そして主はイスラエルに対して、主に対する背信について問い詰めているのですが、民の方は、私たちは何をしたでしょうか、どのように主を軽んじたでしょうか、などとふてぶてしく反論しているのです。文字通りの対話を記録しているかどうかはわからず、民の主に対する不忠実な考えを預言者が代わりに述べているのかもしれません。
冒頭の1章で主なる神は、「わたしはあなたたちを愛してきた」と言われます。それに対して民は、どのように愛を示してくださったのか、と問い返します。このように問い返すということは、主が愛してきたと言われる御心を受け止める気持ちがないことの現われです。このようにして人々は主に対して何かにつけて難癖をつけて自分たちの不信仰を棚に上げて主のせいだと言わんばかりの言葉を並べていくのです。私たちはここに、様々な愛の御業によって導いてきてくださったにも拘らず、主に背を向ける人間の罪深き実態を見ることができます。そしてこれは、遠い昔の、遠い国であるイスラエルに起こった他人事ではなくて、全ての人間に巣くっている罪のなす業だということを弁えなければならないのです。
2.神に仕える者と仕えない者
このような仕方でマラキ書は民の罪を暴いてゆくのですが、主は忍耐深く、民のいろいろな言い逃れを聞いておられます。そして、主に立ち帰れと強く命じておられます(3章7節)。そうすれば主も民に立ち帰ると。するとさらに民は追い打ちをかけるかのように、どのように立ち帰れば良いのか、と聞き返します。あたかも開き直っているかのようです。それでも主はそのような民の中にも、主に仕える人たち、主が憐れみを注いでくださる人たちがいる、と言われるのです(3章17節)。そうなって初めて、神に仕える者と仕えない者との区別を知るようになると。主なる神に仕えることは喜ばしいことなのだと、私たちも知るべきであります。
そして、主なる神は厳しい裁きを下されます。炉のように燃える火を来たらせると。それが主の日だと言われます。旧約聖書では、主が厳しい審判を下される日を主の日と言います。多くの預言者がこの日について預言していますが、みな主の審判が決定的になされることを告げています。それゆえ、恐るべき日であると告げるのです。ただ、これが歴史の中で起こる具体的な出来事を指す場合もありますが、この世の終わり、終末の出来事として告げられている場合もあります。それはまだ歴史の中では起こっていないことになります。また、主の日を単純に日曜日の意味で使っている場合も新約聖書にはありますが、それは限られたものです。
主の日は、主が決定的に裁きをなさる時を示しますが、それは同時に悪に対する最終的な審判が下されるということですから、主の恵みによって救われている者にとっては、それは恐るべき日ではありません。むしろ救いの完成への道筋となります。
このマラキ書でも、3章20節以下でそれが語られます。今日の説教題にあるように、「しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには、義の太陽が昇る」と言われているとおりです。
3.義の太陽が昇る
「義の太陽が昇る」。これは、大変預言書らしい象徴的な詩的表現です。義とは文字通り主なる神の正義を指しますが、この言葉には単純に正義というだけに留まらない意味が込められています。他の言語では、その意味を十分に表すことは難しい、とも言われています。新共同訳聖書では、「恵みの御業」という訳を多くの箇所で当てています。神は正義の神であられ、正しい裁きをなさるお方です。悪に対する裁きを完全になすお方です。しかし単に罪を厳しく裁く正義の審判者であるというだけではなく、実に愛と憐れみと慈しみに満ちたお方です。そのような神の憐れみ深い御性質を示すものでもあります。神が義であられるという御性質は、罪人を救う御業が行われるにあたって特に現されるのです。
義の太陽が昇る、という大変希望を持たせてくれる預言の言葉ですが、似たようなものが他の書物にあります。イスラエルにおいて、神に従い、神を畏れて民を治める者、つまり王は「太陽の輝き出る朝の光」であるとダビデは歌いました(サムエル記下23章4節)。その者が神の家を確かなものとし、神はその者に永遠の契約を賜ると述べています。ダビデはイスラエルを治める具体的な王について言っているようですが、神との永遠の契約を確立してくださるのは、やはりメシアとしてこの世に来られる方です。それは言うまでもなく神の御子としてこの世に来るべきお方、救い主イエス・キリストを指すものです。
はるか後に、主イエスに先立ってその道を整えるために誕生する洗礼者ヨハネの父親となる祭司ザカリヤは、天使の予告通りヨハネが誕生した時に、歌い上げました。神による罪の赦しによる救いがもたらされるのは、神の憐れみ深い御心によるのであって、それは高い所からあけぼのの光が我らを訪れることによって実現すると(ルカ1章78節)。そしてその光は暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、私たちを平和の道に導くと(同79節)。これももちろんイエス・キリストのことを指しています。
マラキ書の語ることに目を留めましょう。その義の太陽には翼があり、いやす力があります。太陽に翼があるとは、比喩的な表現ですが、聖書では神がその翼を広げて民を覆って守られると言われます。そのように、義の太陽である方、メシアが民をその翼で覆い守られることを表しています。その翼に覆われている者は、いやしていただけます。
主なる神の遣わされるメシア=キリスト、つまり義の太陽によって照らされなければならないのがこの世です。私たちはこの世で生きている限りは、この世の影響を受け、時には悩まされ、罪とそれがもたらす悲惨に巻き込まれているかのように見えることすらあります。それでも、義の太陽は、この世の闇に隠されてしまうことはありません。今もなお、この世はどうなっていくだろうかと先行きに暗い雲が覆っているようなこの世界に生きている私たちです。しかし、決して希望を失わないでいることができます。既に義の太陽はこの世に輝いています。私たちは肉眼でそれを見るわけではなく、肌でその光線の温かさを感じるわけではありません。しかし、神の御言葉が語られ、私たちがそれを聞き、それによって聖霊が神の御子であり、義の太陽であるイエス・キリストを私たちの内に輝かせてくださいました。私たちは信仰によって、この方を見上げます。
今の世の中、何に頼って良いかわからない人々が何と多くいることでしょう。このような世の中にあって、私たちは神の憐れみと慈しみとを体現しておられる救い主イエス・キリストを仰ぎ、待ち望み、そして世の人々がどのように反応するにしても、この方を告げ知らせます。告げ知らせる役目が私たちに与えられています。そしてそれは、義の太陽である方の翼のもとに集められ、守られ、癒されている者に与えられ、ゆだねられた特別な恵みなのです。
1.主は民を愛してきた
この預言書は、主なる神とイスラエルの人々の対話の形で話が進められてゆきます。主はこう言われるが、あなたたちはこう言う、こう問うている、という仕方です。そして主はイスラエルに対して、主に対する背信について問い詰めているのですが、民の方は、私たちは何をしたでしょうか、どのように主を軽んじたでしょうか、などとふてぶてしく反論しているのです。文字通りの対話を記録しているかどうかはわからず、民の主に対する不忠実な考えを預言者が代わりに述べているのかもしれません。
冒頭の1章で主なる神は、「わたしはあなたたちを愛してきた」と言われます。それに対して民は、どのように愛を示してくださったのか、と問い返します。このように問い返すということは、主が愛してきたと言われる御心を受け止める気持ちがないことの現われです。このようにして人々は主に対して何かにつけて難癖をつけて自分たちの不信仰を棚に上げて主のせいだと言わんばかりの言葉を並べていくのです。私たちはここに、様々な愛の御業によって導いてきてくださったにも拘らず、主に背を向ける人間の罪深き実態を見ることができます。そしてこれは、遠い昔の、遠い国であるイスラエルに起こった他人事ではなくて、全ての人間に巣くっている罪のなす業だということを弁えなければならないのです。
2.神に仕える者と仕えない者
このような仕方でマラキ書は民の罪を暴いてゆくのですが、主は忍耐深く、民のいろいろな言い逃れを聞いておられます。そして、主に立ち帰れと強く命じておられます(3章7節)。そうすれば主も民に立ち帰ると。するとさらに民は追い打ちをかけるかのように、どのように立ち帰れば良いのか、と聞き返します。あたかも開き直っているかのようです。それでも主はそのような民の中にも、主に仕える人たち、主が憐れみを注いでくださる人たちがいる、と言われるのです(3章17節)。そうなって初めて、神に仕える者と仕えない者との区別を知るようになると。主なる神に仕えることは喜ばしいことなのだと、私たちも知るべきであります。
そして、主なる神は厳しい裁きを下されます。炉のように燃える火を来たらせると。それが主の日だと言われます。旧約聖書では、主が厳しい審判を下される日を主の日と言います。多くの預言者がこの日について預言していますが、みな主の審判が決定的になされることを告げています。それゆえ、恐るべき日であると告げるのです。ただ、これが歴史の中で起こる具体的な出来事を指す場合もありますが、この世の終わり、終末の出来事として告げられている場合もあります。それはまだ歴史の中では起こっていないことになります。また、主の日を単純に日曜日の意味で使っている場合も新約聖書にはありますが、それは限られたものです。
主の日は、主が決定的に裁きをなさる時を示しますが、それは同時に悪に対する最終的な審判が下されるということですから、主の恵みによって救われている者にとっては、それは恐るべき日ではありません。むしろ救いの完成への道筋となります。
このマラキ書でも、3章20節以下でそれが語られます。今日の説教題にあるように、「しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには、義の太陽が昇る」と言われているとおりです。
3.義の太陽が昇る
「義の太陽が昇る」。これは、大変預言書らしい象徴的な詩的表現です。義とは文字通り主なる神の正義を指しますが、この言葉には単純に正義というだけに留まらない意味が込められています。他の言語では、その意味を十分に表すことは難しい、とも言われています。新共同訳聖書では、「恵みの御業」という訳を多くの箇所で当てています。神は正義の神であられ、正しい裁きをなさるお方です。悪に対する裁きを完全になすお方です。しかし単に罪を厳しく裁く正義の審判者であるというだけではなく、実に愛と憐れみと慈しみに満ちたお方です。そのような神の憐れみ深い御性質を示すものでもあります。神が義であられるという御性質は、罪人を救う御業が行われるにあたって特に現されるのです。
義の太陽が昇る、という大変希望を持たせてくれる預言の言葉ですが、似たようなものが他の書物にあります。イスラエルにおいて、神に従い、神を畏れて民を治める者、つまり王は「太陽の輝き出る朝の光」であるとダビデは歌いました(サムエル記下23章4節)。その者が神の家を確かなものとし、神はその者に永遠の契約を賜ると述べています。ダビデはイスラエルを治める具体的な王について言っているようですが、神との永遠の契約を確立してくださるのは、やはりメシアとしてこの世に来られる方です。それは言うまでもなく神の御子としてこの世に来るべきお方、救い主イエス・キリストを指すものです。
はるか後に、主イエスに先立ってその道を整えるために誕生する洗礼者ヨハネの父親となる祭司ザカリヤは、天使の予告通りヨハネが誕生した時に、歌い上げました。神による罪の赦しによる救いがもたらされるのは、神の憐れみ深い御心によるのであって、それは高い所からあけぼのの光が我らを訪れることによって実現すると(ルカ1章78節)。そしてその光は暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、私たちを平和の道に導くと(同79節)。これももちろんイエス・キリストのことを指しています。
マラキ書の語ることに目を留めましょう。その義の太陽には翼があり、いやす力があります。太陽に翼があるとは、比喩的な表現ですが、聖書では神がその翼を広げて民を覆って守られると言われます。そのように、義の太陽である方、メシアが民をその翼で覆い守られることを表しています。その翼に覆われている者は、いやしていただけます。
主なる神の遣わされるメシア=キリスト、つまり義の太陽によって照らされなければならないのがこの世です。私たちはこの世で生きている限りは、この世の影響を受け、時には悩まされ、罪とそれがもたらす悲惨に巻き込まれているかのように見えることすらあります。それでも、義の太陽は、この世の闇に隠されてしまうことはありません。今もなお、この世はどうなっていくだろうかと先行きに暗い雲が覆っているようなこの世界に生きている私たちです。しかし、決して希望を失わないでいることができます。既に義の太陽はこの世に輝いています。私たちは肉眼でそれを見るわけではなく、肌でその光線の温かさを感じるわけではありません。しかし、神の御言葉が語られ、私たちがそれを聞き、それによって聖霊が神の御子であり、義の太陽であるイエス・キリストを私たちの内に輝かせてくださいました。私たちは信仰によって、この方を見上げます。
今の世の中、何に頼って良いかわからない人々が何と多くいることでしょう。このような世の中にあって、私たちは神の憐れみと慈しみとを体現しておられる救い主イエス・キリストを仰ぎ、待ち望み、そして世の人々がどのように反応するにしても、この方を告げ知らせます。告げ知らせる役目が私たちに与えられています。そしてそれは、義の太陽である方の翼のもとに集められ、守られ、癒されている者に与えられ、ゆだねられた特別な恵みなのです。
コメント
コメントを投稿