「真理は自由を与える」2012.4.11
 ヨハネによる福音書 8章31~38節

 先週の主の日は、主イエス・キリストの復活を記念するイースター礼拝を行うことができました。私たちは、改めて今こうして共に礼拝を献げることができるのも、主イエス・キリストが復活されて天に昇り、そして教会に聖霊を与えて今日まで力を与え、助け導いてくださっているからだ、ということをよくよく覚えたいと思います。教会は、復活された主イエス・キリストを土台として、今も立っている。このことを改めて心に留めましょう。

 今日は、またヨハネによる福音書に戻り、主イエスとユダヤの人々とのやり取りから、主イエスの御言葉に留まること、そしてそれにより私たちに真理が与えられること、そして自由が与えられることを教えられています。真理とは何か、自由とは何か、という問いも出てきます。


  1.人は自由なのか、奴隷なのか

 主イエスがお語りになったことは、当時主イエスの目の前にいたユダヤの人々にとっては、すぐには納得できない、良くわからないことが多々ありました。今日の箇所でも、それが際立っている御言葉をお語りになりました。当時の人々は聖書(旧約聖書)の知識がある人々で、私たち日本人とは比べ物にならないほど、(旧約)聖書に親しみ、神がイスラエルの歴史の中でなさって来られたことを子どもの頃から教えられてきた人々です。神について、その民イスラエルについての知識が身に沁みついている人たちです。そういう人たちが、神のもとから来られた、と自分について述べておられる主イエスのことをなかなか受け入れ得ることができませんでした。

 度々お話ししてきましたが、聖書の知識があるだけに、却って今まで教えられてきたことに捕われていて、全く新しい観点から語られる主イエスの御言葉が分からない、納得できないということが起こったのです。それは主イエスが間違ったことや、神が言われたことと全く違うことを言い始めたからではなく、逆に神が語ってこられたことの真の意味を深く説き明かし、そして神の約束が御自身によって実現すると言われたので、人々は反発するのです。そういう素地のない私たち日本人は、ある意味では主イエスに近づきやすいと言えるかもしれません。自分の教えられてきた聖書の知識に照らしてみた時に、イエスの言っていることはどうだろうか、と比較しないですむからです。

 主イエスはここで、主イエスの言葉に留まるなら、つまりイエスを信じてその言葉を聞き続けようとするなら真理を知って自由が与えられる、と言われたものですから、ユダヤの人々はまた反発します。自分たちは神の民であり、神に導かれてきたアブラハムの子孫である、という誇りが彼らにはあります。そして現に、誰かの奴隷になったことはないと主張します。彼らは文字通りの身分としての奴隷のことを考えていたのです。旧約聖書をみれば、奴隷となった人々が苦しんできたことがありました。イスラエルの人々はモーセの生まれた頃、奴隷として長年苦しんでいました。ずっと後のエズラ、ネヘミヤの時代もそうでした。ここで語るユダヤの人々は、自分たちはそのような奴隷の身分に落ちたことはない、と言いたいわけです。


  2.罪を犯す者は罪の奴隷である

 しかし、主イエスは断言されます。罪を犯す者は罪の奴隷だと。神によって造られ命を与えられた人間は、最初の人アダムが犯した罪によってすべての人が罪ある者となりました。罪の奴隷となっているとは、罪を犯さずにいることができない状態のことです。奴隷は主人のものであり、その支配下にあり、自由がありません。その命を自由にできるのはその奴隷の命の値を払って自分のものにした主人だけです。私たち人間も、生まれながらに罪に捕われており、その支配下にあります。もちろんすべての人間は神によって造られて命を与えられていますから、本来は神がその主人であり、神の支配下にあるはずです。しかし罪を犯したゆえにそうはなっていないのが現状です。

 新約聖書の時代には、まだ奴隷制があり、ローマ帝国のもとでは、奴隷が市民の家庭にいることがありました。敵国を征服して捕虜を自国に連れて帰り、自分の家の奴隷にして子女の教育に当たらせることもありました。奴隷は人であるのに値段をつけられて売り買いされました。奴隷である限り、その主人の家の者ではなく、いつまでもその家にいることもできず、財産を相続することもできません。しかしその家の子どもは違います。ここで主イエスはそのような、その家の子どもと奴隷の違いを語っておられます。

 主イエスは、神の御子であり、人としてお生まれになりましたが神に対する罪のない方です。それ故、罪の奴隷ではありません。神の家の長子です。それに対して私たちは罪の奴隷であり、罪に売り渡された状態だと聖書は言っています。しかしそのような状態にある私たち罪人を、神は奴隷状態から救い出そうとして御子イエス・キリストをこの世にお遣わしくださったのでした。そして私たちに自由を与えて、罪の力のもとから、その支配下から救い出して主なる神の支配下に移そうとしてくださったのです。


  3.真理は私たちに自由を与える

 「もし子があなたたちを自由にすれば」(36節)という言葉は、そのことを現わしています。そしてそれが初めの方でお語りになったように、主イエスの御言葉に留まるならば、本当に主イエスの弟子となれるのであり、そして真理を知ることになるのです。そして真理は私たちを自由にする。ここで言う真理とは、イエス・キリストによってもたらされた救いの福音が示している内容です。そしてそれを信じ受け入れる者は真理を知った者なのです。主イエスは後に、「わたしは真理である」と言われます(ヨハネ14章6節)。イエス御自身が真理です。何かの知識や法則について、それは真理だ、ということがありますが、実はイエス・キリストその方が真理そのものです。

 ですから、真理が私たちを自由にするとは、主イエスを信じる人は、罪の奴隷状態から解放されて、救われるということです。罪の奴隷状態に私たちがずっと留まっているとしたら、ついには罪の内に死ぬことになります。生まれながらの罪と悲惨の状態に留まって、その力に飲み込まれたままになります。しかし、悲しいことに人間は罪の奴隷となっていることに気がついてはいません。それで、主イエスの前にいたユダヤ人たちも、自分たちが罪の奴隷だと言われて、この後、イエスは悪霊に取りつかれていると言い出します(48節)。イエスの言っていることは全くおかしなことであって、受け入れることはできないというのです。聞くに値しない言葉だ、悪霊の語る言葉だとまで言い放ちます。

 現代日本人も主イエスから、あなたは罪の奴隷だと言われたら、何を言っているのだ、そんな訳はない、と言うかもしれません。あるいはまったく取るに足りない言葉だと言って聞く耳を持たないかもしれません。人を罪の奴隷呼ばわりするとは何事だ、と。罪の奴隷は、罪に捕われており、罪を犯さずにはいられないからです。

 しかし私たちは神の前に立たされています。もし、自分は罪の奴隷ではない、罪に縛られてなどいない、だからイエス・キリストによる救いは必要ない、と言い張るとしたらどうでしょうか。そうだとすると、私たちは自分一人で自分の正しさを、聖なる正しい神の前に立って示さなければなりません。自分は正しい人間だ。心の中を覗かれても、神の正しい御心に照らしてみても、一点の曇りも汚れもない、と主張しなければなりません。しかしそんなことは全く不可能です。私たちは神の正しさの前には、自分の正しさなど少しも主張できない罪人だからです。

 しかし、そのような私たちを、罪の奴隷状態から解放して、救いを与え、自由にするためにイエス・キリストは来てくださいました。この世に生きている限りそれはまだ完成していませんが、完全に罪から解放される恵みを主は約束しておられます。もう罪を犯す恐れも可能性もない、完全に祝福された状態にやがてしてくださいます。神の御子イエス・キリストはそのような祝福された素晴らしい状態に私たちを造り変えるために来てくださいました。

 だから私たちは常に主イエスの御言葉に留まり続ける必要があります。この世には様々な声があります。「特にイエスでなくてもいいのではないか。イエス・キリストだけが救い主だといえるのか。人はそれなりに良いものも持っているのだから、自分で努力して正しい良い人間になることができるのではないか。本当に罪の奴隷になっているのは、悪事ばかり働いている一握りの犯罪者たちだけで、その他大勢の人々は大体善良な市民であって、罪の奴隷などではない」と。そしてそうだそうだ、と同調する声も聞こえます。聖書の言う人間評価は低すぎるのではないか、と。もっと人間は良いものですよ、と。人間には悪い面もあるけれども、良い面もたくさんあるではないか、と。

 確かに人間同士の関係でみれば人間はある程度の善を行うことはあります。人に親切にし、助け合い、いたわり合うなど。それも実は神の一般的な恵みではあります。しかしだからと言ってそれで神の前での罪を帳消しにするほどではありません。帳消しにできないから、神自ら、聖なる罪のない神の御子を遣わしてくださって、救いへと導いてくださったのです。

 私たちもへりくだって、真理を悟らせてくださる主イエス・キリストの御前にひれ伏し、受け入れ、その御言葉にいつも留まりましょう。私たちは神の御子、救い主、私たちの羊飼いである主イエス・キリストのもとに留まります。そして永遠の命にあずかり、自由を与えられる道を歩むよう召し出されているのです。

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