「イエスは世の光である」2021.3.7
 ヨハネによる福音書 8章12~20節

 救い主イエス・キリストは、御自分のことをいろいろに表現なさいました。今日の朗読箇所で言われている、「わたしは世の光である」という自己紹介はそれらの中でも特に目立つものでしょう。こんなことを言う人は、他にいるでしょうか。いたとしても、そのような発言は、みな眉唾ものとして退けられてしまうでしょう。今日、イエスのことを「世の光である」と教会は告げ知らせていますが、多くの世の人々にとっては気にも留めないことか、一つの宗教の中で、教祖を持ち上げて言っていることだ、と思われているのかもしれません。しかし、私たちはイエスというお方が、ある日突然世に登場して大それたことを言いだしたわけのわからない人物ではなく、ユダヤの国で、何世紀にもわたって語られてきた預言者たちの言葉の上に立って世に登場し、世に向かって語られた方です。今日の日本に住む現代人にも、神は聖書を通してイエスについて語り、変わらず語りかけられていることを知らねばなりません。


  1.イエスは世の光

 ご自身を光にたとえることのできるイエス・キリストは、御自分がこの世界に対してどういう存在であるかを知っておられました。だからこそ、このようなことを言うことができたのでした。イエスが世の光である、ということは、イエスが地上を歩んでおられた紀元一世紀だけの話ではありません。イエスが「わたしは世の光である」と言われる時、それは地理的にも時間的にもあらゆる国々、あらゆる時代を通じて、世の光であられるのです。

 この、光であられるイエスに従う者は暗闇の中を歩かない、と主イエス御自身が言われます。暗闇の中を歩いているというたとえは、人の弱さと罪を表しています。自分の周りを照らしてくれる光がなければ、自分がどこにいるのかわかりません。何かにつまずくかもしれないし、現に道を踏み外して暗闇に落ちているのが人間です。

 私たちは、視力がある限りはこの世で肉眼によって光を感じることはできますが、たとえ肉眼で光を感じてはいても、生まれながらに暗闇を歩いているのだ、と聖書は私たちに教えています。神の前に堕落し、背を向けている状態で生まれてくるのが人類一般です。それは暗闇の中を歩いていることです。

 そのような人間に対して、光となって照らしその歩む道を導いてくださる方としてこの世に来られたのが神の御子イエス・キリストです。導くだけではなく、この世の現状を照らし、罪を暴き出すこともされます。その場合、世間一般で行われている悪事や犯罪のことだけではなく、私たちの心の内にある悪しきもの、生まれながらに持っている罪を神の前に明らかにしてしまいます。私たちは自分の内にある悪い面をそれなりに自覚しているでしょう。しかし、それらをもしすべて人の前に暴かれたらどうでしょう。私たちはそれを隠しておこうとするし、自分自身が隠れたくなるでしょう。最初の人アダムが神に罪を犯した時に、神に呼びかけられて隠れたのと同じです。そうやって光として私たちの罪を明らかにされるイエス・キリストですが、この方に従うなら、暗闇の中を歩かなくてよくなります。


  2.真実な証しと裁き

 では、そのイエス・キリストに従う、とは何を意味するのでしょうか。単純に考えれば、その言葉に従う、言われたことを実行する、ということには違いありません。では、イエスは何を語られたでしょうか。福音書にはイエスのお語りになった言葉がたくさん書かれています。それらの多くの御言葉の中で、イエスは何々をしなさい、神の戒めを守りなさい、ということをいろいろ言われました。その中で非常に大事なこととして言われたのは、イエスが神のもとから来られた方、天の父なる神からこの世に遣わされてきた方であることを信じなさい、という点にあります。まずそれを受け入れなさい、と。そしてそのために時には奇跡を行い、病人をいやし、目の見えない人を見えるようにし、耳の聞こえない人を聞こえるようにしてやりました。そのように普通の人間にはできないことをなさり、御自身が神の御子として特別な力をお持ちであること、罪を赦す権威さえお持ちであることを示されました。

 こうして御自身が神から来られた神の御子であることを証しされたのですが、それを聞いていたファリサイ派の人たちは、イエスのその証しを受け入れようとはしませんでした。彼らは、厳格に神の律法を守ろうとする人たちですが、主イエスの語られることを素直には聞こうとせず、その御業を見ても信じず、受け入れようとはしませんでした。その彼らが言うには、イエスは自分のことを証ししているから、その証しは真実ではない、というものでした。確かに問題になっている当人以外の人の証言、証しが求められる、というのは事実です。また、5章31節でこのことは既に話題になっていたのですが、その時、主イエスも「もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない」と言われました。今日の箇所では、たとえわたしが自分について証しをするとしてもそれは真実である」と言われたことと矛盾しているように見えます。5章では、もしイエスについて証しをする存在が他にいないのならば、それは真実として認められない、という意味です。イエス以外に証しをする方が別におられるからイエスについての証しは成り立つのです。イエスはただ一人で自分のことを証ししているわけではないからです。

 しかしこの八章では、御自分がどこから来てどこへ行くのかを知っているから、その証しは真実である、と言われました。そして誰かを、何かを裁くとしたらそれも正しい、とも言われます。どうしてそう言えるのかというと、イエスを遣わされた父なる神が共におられるからです。常に父なる神が共におられ、イエスのなさることを父なる神が証ししておられるので、イエスお一人の証しではない、ということなのです。イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けられたとき、天から「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が聞こえました(マタイ3章17節)。また、イエスのなさったことすべて、特に十字架の死と復活、そしてその後の聖霊降臨によって世界中へイエス・キリストによる救いの福音が広がって行き、そして今日にまで至っているのも、父なる神が証ししておられる結果です。


  3.神の御子イエスにより神を知る

 しかし、あなたの父はどこにいるのか、と人々は尋ねます(19節)。イエスが「わたしの父」と呼ばれる方は、それこそユダヤの人々が信じているはずの神、アブラハムに語り、モーセを遣わし、ダビデをイスラエルにお立てになった神です。しかし、主イエスが言われるには、イエスのことを知らないというなら、つまり拒絶するのであれば、その父である神を知らないことになる、と言われます。

 つまり、イエスを知ることは旧約聖書で語って来られた神を知ることです。神を信じるとは、イエスを救い主キリストとして信じ受け入れることと切り離して考えられません。しかし、先ほどのアブラハム、モーセ、ダビデたちは、今私たちが知っているようにはイエスのことを知りませんでした。イエスよりも前の時代の人々には、律法、預言、犠牲の献げ物、過越しの小羊、種々の儀式など、そういうもので来るべきメシア=救い主のことを示され、その当時の人々にはそれで神の恵みが十分に示されていました。そして主イエスが来るべきメシア=キリストとして来られたので、旧約時代の人々もキリストによって救われていたのです(ウェストミンスター信仰告白7章5節)。

 ですから、ファリサイ派の人々が、自分たちの神はアブラハムの神であり、モーセを遣わされた神である、と言って、イエスの言っている父なる神とは違う、と主張したとしても、そうではないということになるのです。アブラハムの神、モーセを遣わされた神は、イエスを救い主キリストとしてお遣わしになる神だということです。

 そういう意味でも、イエスは世の光であられます。旧約時代から示されてきた神の御言葉と御業、種々の律法の規定、預言、十戒の戒め、それに対する人の罪と神の裁き、この世の向かうべきところ、最後的に完成する神の国について、そういったことすべてに光をあてられたからです。今日の日本では、旧約聖書の内容など知らない人がほとんどです。私たちが救われるためには、旧約聖書の知識がそれ相当にないとだめだ、ということはありません。単純に「イエス様を救い主と信じます。私が罪を赦されて天の国に入れていただき、救われるために十字架にかかってくださり、そして復活されたイエス様を信じます」という信仰があれば私たちは救われます。それで大丈夫なのです。

 それで救われる、ということを教会が聖霊の恵みによって受け取り、宣教し、聖書を説き明かしているので大丈夫なのです。そして信徒一人一人にも聖書を通して示してくださいます。イエス様を信じるということは、天地を造られた創造主なる神を信じることです。旧約時代のいろいろな人々に現れた神を信じることです。世界の主であり、やがてこの世界に終わりを来たらせ、神の国を完成なさる神を信じることなのです。イエス・キリストというお方を中心にしてすべてのことが回っている、とも言えます。こうして私たちも、すべてがイエスという光に照らされて明らかになったものとして、この世界と自分の人生とを受け止めてゆけます。このイエス・キリストに結びつけていただいて、今のこの時代を生かしていただいているのが私たちです。この確かな救い主により頼みましょう。

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