「人よ、主の御前に黙せ」2021.3.21
 ゼカリヤ書 2章5~17節

 今日はゼカリヤ書から、神の御言葉を聞きます。「ゼカリヤ」とは、「主は覚えたもう」という意味です。預言者ハガイとほぼ同じ頃、約2ヶ月遅れて主の言葉がゼカリヤに臨んだ、と冒頭にあります。ダレイオスはペルシャの王であり、その第2年というのは、紀元前520年のことです。主は、ゼカリヤに告げられたその御言葉のはじめから、主がイスラエルの先祖に対して激しく怒られたことをお語りになっています。そして主に立ち帰れと呼びかけてきたと(1章2、3節)。しかし先祖たちは聞き従わなかったのでした。まずこのことを覚えておき、その上で主の語られる御言葉を聞かねばなりません。このゼカリヤ書では、小見出しにあるように、いくつもの幻をもって主はゼカリヤに御心を示されました。今日の朗読箇所は、その第3の幻です。


  1.測り縄の幻

 ここには、測り縄を手にした人の幻が示されます。測り縄については、1章の16節でも既に言われていました。それは、主が再び神の民の都であるエルサレムを慰め、選ばれることを語る中で言われています(16、17節)。それは、町を再建するための準備としての測量を始めることを示しています。

 幻、というと何だか頼りない、ぼやっとしたもの、夢か幻か、などとも言われるように、現実かどうかわからなくて、すぐに消えてしまうもののような印象があります。しかし、聖書が言う幻は、そういうぼんやりしたものではありません。英語でビジョンと言いますようにはっきりと「見る」ものです。しかし、その意味を正しく理解しないといけないものです。意味がわからなければ、意味不明の不思議なもので終わってしまいます。

 実はゼカリヤ書では「幻」という言葉自体は13章4節に出て来るだけですが、小見出しに「幻」とついているのは、実際これらが幻である、という点からきています。預言者たちは、いろいろなものを幻で見ましたが、それらは主が、人々に御心を知らせるために用いられた手段であって、ある意味では、聞いた人々に大変強い印象を与えます。そしてそのイメージのようなものが残るので、忘れにくいのです。主イエスがたとえ話を多くされたのも、人々の心に強く印象付ける、という面がありました。言葉の上で、理屈だけ言われても人はすぐに忘れてしまうのですが、映像として、たとえそれが聞いた人それぞれが頭の中で描いたものであっても強い印象を与えるのではないでしょうか。

 この第3の幻では、一人の人が測り縄を手にしており、エルサレムを測ります。そして主は言われます。エルサレムは人と家畜に溢れるようになると。主御自身が火の城壁となり、その中にあって栄光となるとまで言われます。かつてはエルサレムを吹き散らしたけれども、主は御自身の瞳のようにエルサレムを見ておられるのです。


  2.主は民のただ中に住まわれる

 こうしてエルサレム再建が主によってなされるのですが、主はその中に来て住まわれる、と言われます(14節)。そして、多くの国々が主に帰依する、と予告されています。さて、この預言は果たして実現しているのでしょうか。多くの国々が主に帰依する、というのは、旧約聖書の時代には少なくとも実現してはいないことでした。このような預言は終末的な預言とも言いますが、約束のメシア=キリストがこの世に到来されることによって、実現されていくものです。救い主イエス・キリストの到来と、なさった御業によって、このような預言の約束が実現に向かって進んでいる、ということなのです。そして、主なる神が神となってくださり、人々は神の民となる、ということは、旧約聖書を通じて教えられている神からの大いなる祝福です。

 しかし、今日の私たちにとっては、なかなかピンとこないことではないでしょうか。ダビデ王がいた時代などは、主なる神がダビデを通して多くの御業をなさい、イスラエルに勝利をもたらしてくださるということがありました。そのようにして、イスラエルには真の神がおられることが証しされたのでした。主が都の民のただ中に住まう、ということは、今日の私たちとすれば、主がその町を安泰にして守ってくださり常に平和である、ということによってある程度は分かります。しかし神はこの約束を、今の秩序つまり現世の中で完成されるのではなく、主の民が共に集まり、主に礼拝を献げることの中に、それが実現し始め、完成に向かいつつあることを示しておられるのです。


  3.主の御前に黙せ  それで、今日はこの第3の幻の最後に言われている御言葉に特に聞きたいと思います。題にも掲げました。「すべて肉なる者よ、主の御前に黙せ。主はその聖なる住まいから立ち上がられる」(17節)。これはもちろん人間的な比喩ですが、主が立ち上がられる、ということは、大事なことを宣言されるから黙ってそれを聞きなさい、という意味です。「肉なる者」とは、人間に対する呼びかけです。人は肉を持って生まれてきます。そして肉、という言葉は、人がやがて朽ちてゆくべきものであることを暗示しています。神の前に、肉なる存在である人間は、小さな、やがて衰え朽ちてゆく者で、神の前には罪ある者ですが、それでも生ける神が語られる御言葉を聞く耳は与えられています。

 今、私たちは、この時代に生きている者として、改めて生きて語っておられる主なる神のみ前に黙すことを覚えたいと思います。黙することは、まず自分が語るのではなく、主に語っていただき、その御言葉を良く聞くためにしなければならないことです。コヘレトの言葉も語っています。「焦って口を開き、心せいて 神の前に言葉を出そうとするな。神は天にいまし、あなたは地上にいる。言葉数を少なくせよ」(5章1節)。神は親しく、慈しみをもって語ってくださいますが、私たちはやはり神と人間との大いなる隔たりをまず弁える必要があります。それは天と地の開きがあります。

 その天と地の開きがある私たちと聖なる神との間をつないでくださったのが、私たちの主、救い主イエス・キリストです。私たちはそのことを知らされています。それがどれほど大いなることであったかを私たちは知るべきです。そのためには、私たちはまず自分が黙して、主のなさったこと、主の語られたことを一つ一つ受けとめ、思い巡らし、味わう必要があります。

 私たちは、神について語ることをします。そしてすぐに神について語ろうとします。神はいったいなぜこのようなことを語られるのだろうか、と。しかしそこで私たちは立ち止まり、自分が肉なる者であることを弁え、神の前にはまず沈黙することを覚えたいのです。私たちは、人間として思いもしなかったことに出会うと言葉を失うことがあります。何を言ってよいかわからない、ということがあります。未曽有の大震災に遭った時などは特にそうではないでしょうか。とてもその場に相応しい言葉など見つからないのです。そういう時に、人は黙します。また、自分の思いを超えるようなことや素晴らしいことが起こった時もそうではないでしょうか。絶句する、ということもあります。

 私たちが主の御前に黙するのは、やはりその御心と御業の大いなること、人の思いを超えている神の御業と御心の深さ、憐れみと慈しみの豊かさに接した時です。また、その御業を悟ろうとして黙する時です。ちょうど、主イエスの母マリアが、受胎告知を受け、そしてイエス誕生の後の一連の出来事の中で思い巡らしたように。思い巡らしている時は、人は沈黙します。

 しかし、黙することは、語るための備えでもあります。黙しっぱなしではなく、やはり神の民は神の御業と御言葉と、その救い、慈しみと憐れみ、素晴らしさを語る者へと召されています。黙していた所から、祈りの言葉も、讃美も、福音を伝える宣教の言葉も、信仰の証しの言葉も出てきます。それはやはり何か起こる度に、私たちが神に献げるものですし、神の御言葉を与えられた者は、必ず別の人に何らかの仕方で語り出します。その語り出す前には、必ず祈りがあり、主の御前に黙する時があります。そして主なる神に立ち上がってまず語っていただきます。そこから私たちの歩み、働き、生活等すべてが生み出されてゆくからです。黙すことは、祈りと讃美と行動への備えなのです。

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