「神の御心に適うイエス」2021.3.14
ヨハネによる福音書 8章21~30節

 主イエス・キリストは、御自身が父なる神のもとから来られた方であることを再三語られましたが、それに反発する人たちは、イエスの父はどこにいるのか、と尋ねました。彼らは特にファリサイ派の人々で、ユダヤ人たちの中でも神の律法を厳格に守ろうとする人たちです。彼らは、イエスが神のもとから来られた方であることをなかなか認めることができませんでした。自分たちがこれまで聞いてきたこと、学んで来たことに縛られていて、直接神の御言葉を語っているイエスを受け止めることができなかったのです。主イエスは、御自身がどこから来られたのか、どこへ行くのか、そしてどのような存在なのか。これらについてはっきりお語りになりました。


  1.自分の罪の内に死ぬ

 主イエスは、御自身のことを人々に証しされましたが、頑なに受け入れない人たちがいました。彼らはそれなりに聖書(旧約聖書)の知識がありますから、それに照らし合わせてかみ合わないと、イエスの御言葉を決して素直に受け入れませんでした。主イエスは、そういう場合、非常に厳しい言葉を語られたことがあります。今日の箇所でも、「あなたたちは自分の罪の内に死ぬことになる」と言われます。これは、もしもイエスの御言葉を聞いても受け入れず、頑なに拒むならば、そうなるという意味です。では自分の罪の内に死ぬとはどういう意味でしょうか。

 人間には、神の前に罪がある。これはユダヤの人たちであれば皆知っている聖書の教えです。現代の日本人からすると、自分の罪、と言われると何かの犯罪に手を染めたことがあるかどうか、と思い浮かべるでしょう。しかし聖書が言う罪は、それだけではありません。心の中にある思いも、軽い気持ちで言った言葉も、ちょっとした嘘や、意地悪、悪戯、わがままな言動も、神の前には罪とされます。そして、あれこれの心の中の思いや言動だけではなく、私たちが生まれながらに持っている性質のことも含みます。その性質とは神に背いている性質、神を崇めず、従おうとしない性質です。神に従うよりは自分の考えに従い、自分の求めを第一とすること、人よりも自分優先、更には悪事を隠そうとすること、そう言った傾向が生まれた時から備わっているのです。「わたしは咎のうちに産み落とされ 母がわたしを身ごもったときも わたしは罪のうちにあったのです」(詩編51編7節)。

 それは、天地創造の後、最初の人アダムが犯した罪に遡ります。神に従わなかったアダムも妻のエバも堕落しました。それ以後、この世に生まれてくる人間はすべて堕落した性質を受け継いできました(ウェストミンスター小教理問答問16)。「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです」(ロマの信徒への手紙5章12節)。この、生まれつき持っている罪、腐敗した性質を「原罪」と言います(ウ小教理問18)。そこから、私たちの心の中に悪い考え、思いが生じ、悪い言葉、神に背く行動が出てきます。それが現実の罪、現行罪です(同)。

 この性質をすべての人が受け継いでいるので、現実にこの世に罪が常にあります。私たち自身の内にも常にあります。罪の内に生まれてきた人間はみなそうです。それがある限り、生まれてきてからの様々な努力をどれだけ重ねても、人は神の前に、罪なき者として受け入れていただくことはできません。ですから、主イエスが「あなたたちは自分の罪の内に死ぬことになる」と言われたのは(ヨハネ8章21節)、そのまま、イエスを拒み続けてイエスを信じずにこの世での生涯を貫くなら、自分の持っている罪を取り除いていただくことができずにこの世での生涯を終えることになる、ということです。それは、生まれながら持っている罪の内に留まり、そのまま神の前から退けられることで、それはつまり神の前で死ぬことなのです。そのままイエスを信じず、拒み続けるなら、イエスの行く所に来ることもできません。イエスは天の父なる神のもとに行かれるのだからです。


  2.「わたしはある」というお方

 このように言われても、人々は何のことかわからず、イエスは自殺でもするつもりか、と言います。主イエスは、それに対して、御自分は上のものに属している。そしてあなたたちは下のもの、つまりこの世に属している、と言われました。主イエスは真の人間としてお生まれになりましたが、もともと父なる神と共におられる神の御子であられます。その意味で上のもの、天に元々おられるお方です。ですから、先ほどの原罪はイエスの内にありません。イエスは堕落の影響を受けておらず、従って罪を犯さないお方です。しかし私たちはこの世に元々属しており、生まれながらの罪の内にあります。そのままで行けば神の御前から退けられるしかないのです。

 さらに主イエスは御自分のことを「わたしはある」と言われました。これは、旧約聖書の出エジプト記で主なる神がご自分の御名をモーセに示された時の言い方と同じです。新共同訳ではモーセに語られた主の御言葉「わたしはある」(出エジプト記3章14節)と、このヨハネによる福音書での主イエスの御言葉「わたしはある」とがちょうど同じ言葉ですから分かり易いです。旧約聖書はヘブライ語、新約聖書はギリシア語で書かれましたから言語は違いますが、同じように訳せます。旧約聖書のギリシア語訳では、ヨハネ福音書の言葉と同じです。そして言葉がたまたま同じになっただけではなく、大事な一致があります。旧約聖書の時代に、モーセに現れてお語りになった神と、人となってこの世にお生まれになったイエスは、一つなのです。モーセに「わたしはある」と言われた神は、人となられた神の御子イエス・キリストとして、世に来られました。この「わたしはある」というお名前は、時間を超えて存在し、他の何にも依存せず、御自身によって存在していることを現しています。


  3.神の御心に適うイエス  「わたしはある」とモーセに言われた神は、神の御子イエス・キリストにおいてこの世に人としてお生まれになりました。そうであるならば、イエスが父なる神の御心に適うことをいつも行うのは当然のことです。父なる神の御心と、イエスがお考えになることとは完全に一致していて、そこに食い違いは全くありません。

 ファリサイ派の人々は、イエスの父なる神はどこにいるのか、と聞きました。彼らが信じてきた、モーセに現れた神が、イエスと共におられる父なる神であることを、彼らは信じることができませんでした。人として目の前にいるイエスが、モーセに現れた神と一つであることがどうしても受け入れられなかったのです。

 今この時代に生きている私たちに対しても、主イエスは同じようにご自分を現しておられます。そして、この方が私たちのために十字架にかかってくださったのだ、と福音は告げています。この、イエスの十字架が私たちのためだったという点がとても大事です。イエスがただの人であり、普通の人間の中で最高に正しい人であるというだけだったら、私たちの、神に対する罪を償うことなどできません。イエスが罪のない方だから償えるのです。

 もう一つ大事な点があります。それは、主イエスが神の御心を完全に行うお方だという点です。イエスはただ罪を犯さなかった、というだけではなく、神の御心を積極的に行なった方であり、しかもその御心をこの地上におられる間、いつも行なっておられたお方です。私たちには到底できないことを代わりにしてくださいました。だから私たちは主イエスに依り頼むのです。そのような神の御子であり、私たちの救い主である方がイエス・キリストという私たちの主です。主イエスはこのことを世に向かってお語りになりました(26節)。今、私たちにも語っておられます。ファリサイ派の人たちはイエスの御言葉を悟りませんでした。私たちはどうでしょうか。時代を超えて語られる主イエスを信じないならば、自分の罪の内に死ぬことになります。そしてイエスの行かれる所に行くこともできません。

 しかし、イエスを信じ、父なる神の御心を私たちの代わりにいつも行なってくださった方として信じるならば、自分の罪の内に死ぬことはありません。私たちは神の前での罪を認めざるを得ません。しかし主イエスがその罪を償ってくださったので、自分で神への償いをしなくてよくなりました。もし自分で償わねばならないなら、私たちはどうしようもありません。ただ罪の内にもがきながら、神の裁きを受け、神の御前から退けられるしかありません。

 しかし幸いにも神の御子、救い主イエス・キリストを信じる者には救いの道が開かれました。主イエスは「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて『わたしはある』ということ~が分かるだろう」と言われました(28節)。人の子つまりイエスが、十字架に上げられて死なれることです。その死を見て、その意味を悟ったならばイエスというお方がどなたなのかがわかるのです。

 私たちは今日、主イエスが十字架に上げられ、私たちの罪を償い、死なれたけれども死に打ち勝って復活されたことを知らされています。それを心から受け入れるなら、イエスは私たちに対する恐ろしい裁き手ではなくなります。罪深い私たちに言うべきことがたくさんある、という(26節)、厳しい審判者としてではなく、憐れみ深い救い主として私たちの罪を取り除き、共にいてくださいます。この主イエスを信じて罪の赦しをいただき、神と共にある祝福にあずかるか、それとも、主イエスが開かれた天の国への道に進まず、自分の罪の内に留まって死ぬか。この大きな分かれ道に私たちは立たされています。どちらが幸いでしょう。自分の正しさなど神の前には無力です。神の前での正しさなど、堕落した私たちにはありません。イエス・キリストにすべてゆだねましょう。

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