「聖書に何を聞くのか」2021.2.7
 ヨハネによる福音書 7章40~52節

 私たちは聖書をどういう書物として受け止め、そこから何を聞くのか。これはとても大事なことです。人はいろいろな興味を持って聖書に近づいてきます。私は、子どもの頃、聖書は永遠のベストセラーである、という言葉をどこかで聞いたことがありました。両親がカトリック教会の信徒でもあり、キリスト教との接点があり、友だちにもクリスチャンがいたので、家にあった新約聖書を自分で読み始めたりしており、それと前後してその友達の通う教会の教会学校に行くようになりました。中学2年生の終り頃です。自分で自覚的に読み始める前は、永遠のベストセラーとは、どんな本かと勝手に想像していましたが、何か堅苦しい掟や戒めなどがたくさん並んでいるのかな、というようなことを思い浮かべていた記憶があります。実際にはそれとは大きく違いました。何かを探求しようとして読み始めたわけでもなかったと思います。キリスト教を身近に感じていたこと、クリスチャンの親しい友だちがいたことが大きなきっかけではありました。そして、イエス・キリストについて書かれている福音書を読み始めました。カトリック教会で幼児洗礼を受けたときの洗礼名が「ルカ」だったので、ルカによる福音書から読み始めました。皆さんも、それぞれに聖書との接点はいろいろだと思います。その接点もまた、主なる神が一人一人のために備えてくださったものと考えていただいて、改めて聖書に近づき、神の御言葉を読み、親しみ、いただきましょう。


  1.聖書に書いてあるではないか

 主イエスの話を聞いた人々はいろいろなことを話しています。この人はあの預言者だ、メシアだ、メシアならベツレヘムから出るはずだ、と。そして言います。「聖書に書いてあるではないか」と。ここで言う聖書は、今私たちの目の前にある、旧約聖書のことです。この時の人々にとってはまだ新約聖書はできていませんから、聖書と言えば創世記からマラキ書までの旧約聖書です。もっとも、ユダヤの人々にとっては聖書の配列も違いまして、中身は私たちの旧約聖書と同じですが、創世記から始まり、歴代誌で終わっています。

 40節で「あの預言者」と言われているのは、モーセのような預言者を立てるという預言がありましたので、その預言者のことです(申命記18章15節以下)。また、民衆はメシアの到来を期待していました。旧約聖書にそのような方の到来が示されているからです。ミカ書5章1節には、そのイスラエルを治める方がベツレヘムから出る、と予告されていました。聖書に書いてあるではないか、とある人が言ったとおりです。

 聖書に書いてある。ユダヤの人々にとっては、これは大変重い意味のある言葉です。聖書に書いてある言葉、それは神からのものですから、人はその前にひれ伏して聞き従わねばならない、そういう言葉です。いくらイエスがいろいろな業を行い、聖書の教えを良く知って教えているとしても、聖書に書かれていることに反するなら、それは神の権威によらないものだから、認めることができない、ということになるわけです。彼らにとっては聖書に書いてあるかどうか。それがイエスという人物を判断するための基準となるのです。そのようなはっきりとした基準を持っているということは良いことですが、しかしその聖書をどう読むかということが問題です。


  2.あのように話した人はいません

 聖書をどのように読むか。主イエスの周りにいた人々が聖書をどう読んでいたか。そのことが良く描き出されているのが、45節以下の箇所です。祭司長やファリサイ派の人たちから、イエスを捕えるために遣わされてきた下役たちは、「今まで、あのように話した人はいません」と語りました(46節)。下役たちは、祭司長たちとは違って職務上の権威を持っていない人たちですから、却って素朴にイエスの語ることや、その態度などのうちにただの人ではないものを感じ取っていたのだと思います。職務上の権威があって、指導者としても面子もある祭司長たちは、自分たちの立場や権威を脅かすかもしれないイエスという人物に対して非常に警戒心を抱いていたようですから、下役たちのように受け止める心の備えがなかったと言えます。それが現れているのが、「議員やファリサイ派の人々の中に、あの男を信じた者がいるだろうか」という発言ではないでしょうか。権威ある指導たちの間でイエスを信じる者などいないのだ、といってイエスを退けようとするわけです。

 そして、イエスの教えを喜んで聞いているような群衆は、律法を知らないのだ、だからイエスの話などに惑わされてしまうのだ、と言うのです。彼らの考えの根っこにあるのは、自分たちは聖書を良く知っている、という誇りです。祭司長、議員、ファリサイ派の人たち、彼らはユダヤ人の指導者として、聖書のことは良くわかっている人たちです。しかし、彼らはイエスの御言葉と行いを、素直に、先入観や偏見なしに見るよりも、イエスの出身地情報にまず捕われており、そこから抜け出せなくなっています。ガリラヤからは預言者は出ない、と。イエスはガリラヤのナザレの町で育ちましたが、その誕生された場所は、ベツレヘムでした。それは調べればわかることですから、今後、このことはもう議論はされません。それよりも、すでに話題となっていた、イエスが神のもとから来られた、と主張されること、ご自分を神と等しい者とされたことが大きな問題となっています。

  3.イエスのなさったことを見る

 このように、自分の権威ある立場や、先入観や偏見、不十分な知識などによってことを判断してしまう、というのは私たちがしてしまいがちなことではないでしょうか。ここに登場するニコデモがそれを戒める言葉を語っています。彼はユダヤ人の中の議員の一人で、かつて主イエスを訪ねたこともあり、社会的にも地位があって、聖書の知識もありました。その彼は「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか」と主張します。これはたとえば「同胞の間に立って言い分をよく聞き~正しく裁きなさい」といったモーセの言葉があります(申命記1章16節)。これは極めて健全な主張です。今日でもその通りです。  これは、今日の私たちの社会でも時にないがしろにされている大事なことではないでしょうか。本人に事情を確かめもせずに、誰かが流したいい加減なうわさや不確かな情報で人を悪人に仕立て上げてしまうのです。今日では、簡単にそれを広めてしまうことができるうえに、事実確認という基本的なことをしない、それをするべきことすら知らない、という人たちが増えているのか、そんなことは気にも留めない、という人が増えているのでしょうか。

 そういう意味では、この主イエスが地上を歩まれた紀元1世紀のユダヤの国も、21世紀の日本も、それほど変わらない、と言えるかもしれません。人は自分のこれまでの経験や知識や、保ってきた地位、慣習、といったものに縛られていてそれに捕われ、的確な判断を下せない、ということがしばしばあるのでしょう。

 主イエス・キリストについて、現代人はどのように判断するでしょう。祭司長たちは、この人がメシアであるはずがない、という固定した見方から脱することができませんでした。先入観を捨てて、素朴に素直にイエスのなさったことを見ることができなかったのです。このような状態を、イエスにつまずく、といいます。結局、祭司長やファリサイ派の人たち、聖書のことを良く知っているはずの人たちがイエスにつまずいたのはなぜでしょうか。それはやはり、聖書の権威を認めて、神からの言葉だと信じてはいたものの、目の前にいるイエスというお方のなさることを虚心坦懐に受け入れることができなくて、これまでの知識や経験、先入観に捕われており、そういう目でしかイエスを見ることができなかったのでした。ですから、ユダヤの人々のように聖書の知識を持たずにイエスのなさったことを教えられている知る私たちの方が、却って救い主イエスに近づきやすいかもしれません。

 しかし、そのような思想的、宗教的な背景は、最終的には関係ないものです。日本でも、仏教的、あるいは日本の伝統的な思想などに深く浸っているかぎり、キリスト教を受けつけないという土壌があるとも言えます。それでも、聖書が証しするイエス・キリストというお方が私たちの前に示されています。私たちは、いろいろな先入観を捨てて、聖書に示されているイエス、というお方をまずまっすぐに見上げることをすべきです。それは十字架にかかられた神の御子です。私たちを天の住まいに迎え入れるために、十字架の恥と苦しみをあえて受けられたお方です。今日の箇所の最後で祭司長が、ガリラヤからは預言者は出ない、とこだわっていましたが、主イエスは預言者どころか、御自身の言葉を神の御言葉そのものとして語られる神の御子です。私たちの命と救いのために御自身を献げるために世に来てくださった方です。そして確かに救う力があります。聖書は、この主イエスのもとに行きなさい、そうすれば神のもとに確かな住まいが備えられ、永遠の命の祝福にあずかれるのだ、と私たちに力強く語りかけています。私たちは、その聖書の語る救い主のもとに行き、自分を預ければよいのです。

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